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雪に願いを

作者: 秋沙美 洋

 満月の夜、沖縄の海に雪が降る。

「沖縄に雪なんか降るわけないじゃん」

 父と母と僕の三人で囲む、夕食の時間でのこと。突拍子の無い父の言葉に、僕は露骨な疑いの目を向けた。すると父は「俊夫、疑ってるな?」と言い、僕の頭をくしゃっと撫でながら大口を開けて笑った。海人(漁師)として毎日海に出ている父の笑顔は、真っ黒だ。

「お母さん、本当なの?」

 僕は横に座る母に尋ねた。母は箸を置き、少し考えるような素振りを見せた。

「さあ、どんなかねえ。お父さんはいつもテーゲー(適当な事)言うからね」

 母はごまかすように微笑んだ。

「じゃあ俊夫がもっと大きくなったら、俺と母さんと三人で雪を見に行こうな。約束だ」

「本当? 約束してよ。ま、嘘だと思うけど」

 我ながら、可愛くない子どもだったと思う。けれど優しい母と、陽気な父は、一人息子である僕にたくさんの愛情を注いでくれた。

 豊かではない暮らしだったが、親子三人での生活は幸せに満ちていた。そんな幸せがずっと続くのだと、僕は信じて疑わなかった。


 母が車にはねられたのは、僕が小学五年生の時。カンヒザクラの盛りの頃だった。

 その時僕は学校にいて、血相を変えた担任の先生から事故のことを知らされた。先生は市立病院まで、僕を車で連れて行ってくれた。

 病室では医者が難しい顔で佇んでいて、横には父の姿もあった。常に笑顔を絶やさない父は、口をキッと結び、肩を震わせていた。

 母は目を閉じベッドに寝ていた。身体に傷らしい傷は無く、眠っているかのようだった。

「お母さん、大丈夫?」と、僕は母の肩にぽんっと触れた。母は何の反応も示さない。

「俊夫、母さんは死んだんだ」

 母さんは死んだ。

 父の言葉を、僕は胸の中で何度も繰り返す。

 五年生、人の生き死にくらい理解出来る。しかし目の前で眠る母は、今にも寝息が聞こえそうな、これ以上ない安らかな寝顔だった。

 死んでるなんて、誰が信じられるだろう。

「父さん、またテーゲー言ってるでしょ? どこも傷が無いのに、人間がこれくらいで死ぬわけないさ。お母さんは寝てるだけでしょ」

 焦りから、言葉は矢継ぎ早に出てくる。一言一言が震えているのが、自分でも分かった。

「俊夫!」

 普段滅多に声を荒げない父が、病室の壁に反響していくほどの声で、僕を怒鳴りつけた。

 僕はビクッと身体を強張らせ、そこで初めて、父の目が赤くなっていることに気付いた。頬には涙の乾いた跡が、薄く刻まれていた。

 父は毛むくじゃらな太い腕で、僕を抱きしめた。父の体温は高かった。

「……なんで、母さんが死ななきゃならなかったんだろうなぁ。悲しいなぁ、俊夫……」

 抱きしめられると、父の震えを一層強く感じた。そして僕は、人が一人死んで、それが僕の母なんだということをようやく理解した。


 交差点で、信号無視の車にぶつかった。

 時速三十キロの車が少しぶつかった、それだけのことだったらしい。倒れた場所が運悪く縁石の上で、そこに後頭部をぶつけたことが死因ということだった。傷も少ないはずだ。

 葬儀は淡々と進んだ。訪れたのは、母の友人や親族を合わせても二十名に満たなかった。

「この度はまことに……」そんな具合に、何人かが父に声をかけていた。父はずっと一本調子の声で受け答えしていた。

 火葬の段取りに移る。「お母さんとお別れしなさい」と、親戚の誰かが言った。僕はその言葉に従い、母の眠る棺桶の前に歩み寄った。

 病室で見た時と同じく、やはり母の寝顔は安らかだった。手でそっと、触れてみる。血色を失った青白い頬は、一切の体温が抜けきっていて、悲しい冷たさを指先に伝えた。

 一度だけ、母が僕の前で泣いたことがある。僕が四十度以上の高熱を出した時のこと。身体中が苦しくて、すっかり弱気になった僕は「お母さん、僕死ぬのかな」と尋ねた。母は怒ったような声で「バカ、俊夫が死ぬわけないでしょう。いいから早く寝なさい」と言った。はっきりしない意識の中、僕の枕元に座る母が、しんしんと泣いていたのを、よく覚えている。

 今の僕も、あの時の母のように泣きそうだった。しかし大勢の大人がいる場所で、僕は必死になって泣きたいのをこらえた。

 不意に、僕の肩にゴツゴツした感触が生じた。振り返ると、見下ろすように父が立っていて、僕の肩に手を置いていた。

「もう、いいか?」

 うん、と返事をすれば声と共に涙や鼻水が出そうだった。代わりに僕は首を縦に振った。

 火葬が終わり、骨上げが始まる前、親戚の一人が「隣の部屋で待っとくかい?」と気を遣ってくれたが、大丈夫ですと僕は言った。

 火葬炉から出てきた骨は、細く小さかった。僕は頭骨にぽっかり空いた二つの空洞を見つめ、骨になった母を強く記憶に植え付けた。


 夜が明けきらない時間、台所から音が聞こえる。葱を刻む包丁の音や、フライパンに溶き卵を流す音。僕は布団でそれを聞いている。

 初七日が明け、父は再び海に出るようになった。仕事へ行く前、僕の朝食を用意してくれる。父の玉子焼きは塩気が強い。「塩の使い過ぎはダメでしょ」と母によく叱られていたが、僕はそんな父の料理が密かな好物だった。

 夕食には父の得意料理であるゴーヤーチャンプルーがよく上った。ゴーヤーの浅漬けをツマミに泡盛をちびちび飲むのが父の日課で、夜はいつも、赤ら顔を気持ちよさそうに綻ばせている。

「父さんは、もう平気なの? 母さんのこと」

「んー?」父は泡盛のグラスをコトッと置き、細めた目で僕を見つめた。

「泣けば母さんが帰ってくるならいくらでも泣くけど、そうもいかないからなぁ。俊夫もずっと悲しんでたら、母さんが心配するぞ」

 それにな、と一呼吸置いて、父は続けた。

「母さんなあ、結婚する時、いつも笑ってる俺が好きって言ってくれたんだ。だから、俺は笑ってた方がいいんだ」

 ただでさえ赤い顔を、父は更に赤くした。父は照れたように笑い、泡盛を一息に呷った。

「父さん、今日酔ってるね?」

「ああ、酔ってるなぁ。何でだろうなあ、普段こんなに酔わんのになぁ」

 父はそれからしばらく酒を飲み続け、やがて居間の畳で眠りについた。僕は空いた皿を片付けた後、イビキをかく父に毛布を掛けた。


 海人という仕事柄、午後は空いていることが多く、授業参観や運動会にも、父は休むことなく来てくれた。そのお陰もあり、僕の傷は時間が経つにつれ少しずつ塞がれていった。

 沖縄の長い夏が過ぎ、短い秋が来たかと思えば、すぐに冬が訪れる。その冬も、内地より一足早い春に押し出されてしまう。

 僕は六年生に進級していた。

「俊夫、今夜海に行くぞ」

 父の声は楽しげだった。一体、夜の海で何をするのだろう? 気になって尋ねても、父は「後のお楽しみだ」としか言わなかった。

 太陽が姿を隠し、入れ替わりに月が空に浮かぶ。大きな満月は、半分雲に隠れている。

 僕は父の出す小型船に乗って海に出ていた。五月の海は夜でも暖かく、波は低く穏やかだ。

 岸から百メートルほど離れた場所で、父はエンジンを止めた。静かな波に揺られる船は、まるで揺りかごのようだった。

「もう少し待ってろ」

 父の言葉に従い、僕は海を見ながら待った。空も見た。いくつかの雲が邪魔しているが、月も星たちも、嘘のようにキレイだった。

 その時、ヒュウと暖かい風が吹いた。空に浮かぶ雲が一度に晴れ、満月が全身を現した。

「見ろ俊夫、ほら!」

 海面を指さしながら、父が突然そう言った。僕は咄嗟に、父が指さす方に視線を移した。

 白く小さな粒が、海の中を漂っていた。月明かりに照らされた白い粒はまさしく、写真でしか見たことのない、雪そのものだった。

「すげぇ……何これ、父さん」

「雪みたいだろう。サンゴがな、卵を産んでるんだ」

「サンゴが卵を?」

「ああ、そうだ。サンゴは生き物なんだぞ」

 父は一旦船の操縦室に戻った。再び出てきた時、その手には四角い箱が抱えられていた。

「父さん、それは?」

「これはな、母さんの骨だ」言いながら箱が開けられると、小さな壺が入っていた。それを更に開けると、中に白い粉が詰まっていた。

 父は粉を一つまみし、海に撒いた。

「俊夫もやれ」

 僕は父がやったように、粉を一つまみして海に撒いた。粉は海面に触れた後、漂いながら沈んでいく。サンゴの卵と一緒に。

 母を水底へと送り出す行為に、躊躇いは無かった。サンゴたちが、母を優しく迎え入れているように見えたからだ。

 僕と父はそれを交互に繰り返し、最後に海の上で壺をひっくり返した。父は壺を傍らに置くと、海面を眺めながら、小さく言った。

「なあ俊夫。いつか俺が死んだら、こんな風に海に撒いてくれ」

「うん」

「それまで一生懸命に生きるんだ。でないと海の中で母さんに会った時、笑われるからな。いいか俊夫、頑張るぞ」

 雪は少しずつ減っていき、海はいつもの姿に戻っていった。月明りだけがいつまでも、僕と父を包んでいる。

「父さん。あいつら、大きくなれるかな」

「ああ。きっとなれるさ」

 僕は目を閉じ、心の中でサンゴに祈った。どうか、母さんが安らかに眠れますように。

 それがサンゴの返事か知らないが、一瞬暖かな風が吹き、僕と父を優しく撫でていった。

お読みいただきありがとうございました。

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[良い点] とっても優しい物語で、ほっこりした気分になりました。 [一言] 新報短編小説賞の応募要項に、原稿用紙40枚と銘記されているのですが、これって40枚きっかりにおさめないといけないのか、40枚…
[一言]  読ませていただきました。初めはお話に入りづらかったものの、お母さんが亡くなったあとのお父さんと主人公のやりとりにぐっと引き込まれ、最後の雪のシーンでいい話だと感慨に耽っている自分がいました…
2016/03/17 00:13 退会済み
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