山の神と川の神
夜になり食事を済ませ、榊達が温泉から戻ってくると部屋の前に須藤さんが居た。榊達に気が付くと駆け寄ってきた。
「相沢さんが部屋に居ないんです」
榊と小田切さんは顔を見合わせた。
「何かあったのかい?」
「温泉に入ってたら相沢さんが気分が悪いそうで先に部屋に戻ったんです。私達が帰ってきた時には部屋に居なくて、少し待ってたんですけど戻ってこないんです。それで今、会長が探してるんです」
「分かった。僕達も探しに行こう。心配しないで。きっとすぐ見つかるよ」
「私は会長に部屋で待ってるように言われたんです。もし相沢さんが戻ってきたら連絡してって」
「それは良い考えですね。お互いに連絡取り合うより、須藤さんへそれぞれ連絡すれば情報もまとめ易くなりますし。後は探す場所と時間を決めてそれぞれ手分けしましょう」
小田切さんだけではなく、意外に下村さんも頼りになる。榊はアタフタしているだけの自分が恥ずかしかった。
「取りあえず、荷物は一旦置いて来よう。須藤さんは一度会長にも状況確認してみて」
「分かりました。あの、お願いします」
榊は昼間に歩いた川沿いを探した。暗闇の中、木々がざわめき榊の不安をあおる。辺りには人影は無い。川の向こう側に旅館が立ち並んでいるがその明りはとても遠く心もとない。暫く進むとうずくまっている人影が見えた。会長だ。
何があったのかと近付くと榊はすぐに分かった。すごい熱気とむせかえるような硫黄の臭いで息が出来ない。会長も榊に気が付いた。
「あそこ! 川の中に相沢さんが!」
会長が声を絞り出す。その指が指した先に相沢さんは居た。相沢さんは川の中でただ座っている。榊は呼び掛けようと息を吸い込むとむせ返ってしまった。まるで喉が焼けるようだ。
「お願い……相沢さんを助けて!」
会長も限界のようだった。榊は会長にうなずくと出来るだけ姿勢を低くして川に向かう。
熱気と臭気は川に近付くにつれて強くなる。それを避けようと榊はほとんど這うようになりながら進んでいく。
一歩、また一歩近付くが、もう口だけではなく目も開けていられない。それでも手探りで進んで行く。触れる石も燃えるように熱い。今にも全身に火が付きそうだ。
こんな事がある筈が無い! こんな温泉街でこんな温度になるなんてありえない! こんなのは嘘だ! 榊が心の中で叫んでも状況は一向に変わらない。
ただ会長の為、相沢さんの為に榊は進んだ。そして、その手がとうとう川の水を探し当てた。
榊は川の冷たさに驚いた。その瞬間今までの熱気と臭気は嘘のように消え、暗闇の中でもはっきりと物事を感じられるようになった。
会長はまだ熱気に苦しんでいるし相沢さんも危険な状態だ。だが自分なら動ける。相沢さんも助けられる。それが榊には分かった。
川面からは黒い手の影が伸びている。何百、何千という影が相沢さんへと向かっている。相沢さんの体は黒い手で覆われ、腕から肩、胸から首へとドンドン侵食されていく。
その内のいくつかが榊の方にも向かってくる。だが榊が片手をかざすだけで近付く黒い手は掻き消えた。
あのキャンプ場の時と同じ、自分の意識とは別に体が動く。
榊の体は川の中を進む。その周りから黒い影は消え去っていく。他の黒い手は榊から距離を置いて、様子を伺う事しか出来ない。
榊は既に自分の体の感覚を失っていた。川底を踏む感覚も、脚に当たる水の流れも何も感じない。ただ相沢さんに近付いていくTVの映像を眺めているような感覚だった。
榊の体は相沢さんの隣へ膝を着き、抱き抱える。相沢さんは白目を剥いたまま震えている。
君の山からは離れているのに、良く耐えているね。私だけは此処に残ってこの川を守るべきだったのに、迷惑をかけてしまったね。私はこの川に帰ってくる事が出来て、やっと力を取り戻せた。今その呪縛を解いて、山まで送ってあげよう。これからはまた、二人でこの地を守って行こう。
榊はその声が遠くから聞こえてくるのか自分の中から聞こえてくるのか分からなかった。ただその声は優しさと安らぎに満ちていた。
榊は相沢さんの口許へ自分の口を近付ける。二人の口の間から白い光があふれ出し、強い閃光が辺りを包んだ。