祝福される春
連載と迷いましたが、他作品が短編のため同じ形をとらせていただきました。
サイドストーリーのはずですが非常に長くなってしまいました…。
お時間あるときにお読みいただければ幸いです。
「お前、マジで無いわー。」
「相変わらずデリカシーというものが皆無だな…。」
「何で本人の前で言っちゃうかなぁ…。」
友人からの突然の呼び出し。
昨夜の俺の言動に、友人達は怒っているらしい。
待ち合わせ場所の和食屋に入り、店員に俺を呼び出した友人の名を告げたところ、個室へ案内された。座敷に上がった途端、待ってましたとばかりに責められる俺。
俺は浅井 春太郎。30歳。独身。
俺は女心に激しく疎いらしい。年齢イコール彼女いない歴という訳では無いし、それなりに出会い、女性とお付き合いする機会は数回あったものの、付き合っても長続きしない。
浮気をしたり暴力を振るったりしている訳では決してない。
「デリカシーが無さ過ぎる」とか、「ついていけない」とか、「もう無理」とか、毎度そんな理由で振られている。
昨日は高校3年の時のクラスメイト達と飲んだ。俺以外は割と頻繁に集まっているらしいが、俺が参加するのは初めて。
高校卒業後は留学したり、大学が遠かったり、就職してからも地方の支社の勤務や海外赴任が多く、地元に戻ってきたのは4ヶ月程前。
成人式にすら出ていない。
なので、昨日は卒業式以来初めて会う奴が殆どだった。
「悪りぃ…なんの話か分からないんだけど…俺、なんかした?」
俺の一言で、皆が絶句した。
皆の目が、「あり得ない!」と言わんばかりに見開かれ、俺を見る。
ん?でも、見覚えの無い女が2人…それにチビッコも2人?
昨日も参加してたのは、俺を呼び出した山内 康介と岡崎 啓、それから中村 貴子の3人だ。
「ちょっと、知らなくても昨日のあの雰囲気で気付くでしょ?っていうか、あんな話知ってる癖に、なんでそれがあの子だって知らないのよ!?」
「お前マジで気付かなかったの?」
中村は眉間に縦皺をくっきり刻んで、啓は呆れ顔で俺に詰め寄る。
あんな話?あの子?…未だ何の事やら分からない。
昨日の事を思い出そうと必死で考えている俺に、康介が冷ややかに言い放った。
「博之が結婚破棄した相手、八重山 麗なんだよ…。」
「What!?」
「マジで1発殴りてぇ…。」
急に昨日の記憶が鮮明に蘇る。
酒に程よく酔った俺は、とある友人に聞いた話をつい喋ってしまったのだった。
昨日は参加していなかったが、高校時代そこそこ仲の良かった冬田 博之についての話。
彼に子どもが産まれた事。
彼は9年も付き合った綺麗な彼女との婚約を破棄して、妊娠させてしまった浮気相手と結婚したこと。
その浮気相手…もとい奥さんはカエルに似ていること。
そして、その奥さんに贈った婚約指輪と結婚指輪は、もともと綺麗な婚約者の為に作られた物だったこと。
2人のイニシャルとサイズが偶然にも一致したからそのまま再利用したらしいこと。そのイニシャルが"U"で、「ウから始まる名前なんて珍しい、八重山 麗くらいしか知らない」、俺はそう言ったのだ。
あの時、場が静まり返ったのは、てっきり指輪の再利用の件で皆がドン引きしたのだと思っていた。
「じゃあ…例の指輪は…八重山の…」
「そう、内側に彫られていたイニシャルは間違いなく麗の"U"だったんだからね!それにただの指輪じゃないんだよ?麗が悩みに悩んで、こだわりまくってオーダーメイドで作ってもらったんだよ?」
背筋が凍りついてゆく…いたたまれない。
「麗ったら無理しちゃってさ、浅井くんに自虐ネタで返すし…最後、目が死んでたよ…。」
「綺麗な婚約者…確かに八重山はすげぇ美人だった…ちょっと痩せすぎだけどな…。」
ついうっかり、口が滑ってしまった。
「あのなぁ、今そんな事言ってる場合じゃないだろ?……でもな、麗、あれでもかなり太ったんだよ…夏頃は本当に酷かった…痩せ細って、目が死んで、でも俺たちに気ぃ使って、気丈に振る舞って…無理して笑って…それが余計に痛々しくて目も当てられなかったんだからな…。」
康介の言葉に、一同が大きく頷く。
「それに、1年前はもっともっと綺麗だった…。幸せそうで…肌も髪もツヤツヤで…。」
「あまりに酷いから、ちゃんと食べていないんじゃないかって心配で…週1で山内家か岡崎家に集まって皆で食事して、無理矢理食べさせてやっとここまで麗ちゃんを太らせたんだから…。」
未だ誰か分からない2人の女性が口を開く。
「申し訳ない…そちらのお二方、誰か分からないんだけど…。」
聞いていいものか迷ったが気になって仕方ないので思い切って尋ねてみた。
「そうだった、あんまり腹が立って紹介するの忘れてた…ごめん。こっちがうちの嫁の舞。それと娘の彩。それであっちが啓の嫁のゆかりと娘のみどり。」
康介がそう紹介すると、2人の奥さん達も思い出したように軽く会釈をした。
どうりで分からないわけだ。
俺が忘れていたクラスメイトではなかったので少し安心する。
「うちも、岡崎家も、麗にはすげぇ世話になったからさ…。麗、結婚式場でプランナーやってて、俺たちそれぞれ、結婚式を麗に担当してもらったんだよ。」
「本当に良い式だったの…担当が麗ちゃんじゃなかったら、あんなに良い式にはならなかったよねって何度も話してる…。」
山内夫妻が感慨深そうに話す。
岡崎夫妻も何度も頷いていた。
「麗が婚約破棄されたのって、仕事辞めて、博之と暮らす新居に引っ越す直前だったんだよ?それまで麗が住んでた家も次に住む人が決まってたから出て行かなきゃいけなくて、天職だった仕事も辞めた後で…しかも再就職しようにも、自分が結婚に失敗してるから、縁起が悪いって言って…そうじゃなくてもとても人の世話なんて出来ないよね。麗、プランナーの仕事が好きで、結婚して引越してからも向こうで探すって言ってたのに…酷い話だよ。結婚と仕事と家、全部いっぺんに失っちゃったんだよ?破棄された直後はショックで倒れて、その後激やせ。でさ、やっと立ち直ってきたと思ったのに、浅井くんがあんな事言っちゃったでしょ?昨日は完全に壊れてたよ…自虐も酷かったし、急に笑い出すし。」
中村は涙ながらに俺に訴える。
俺はなんて事をしてしまったのだろうか…。
「春太郎、麗にちゃんと謝れよ。土下座して詫びろ!許しを請え!謝ったからって済む話じゃ無いけどさ…何もしないよりマシだろ?」
「お前、明るいのだけが取り柄なんだからさ、元気付けてやれよ…。せめてお前が凹ませた分だけでもさ。」
「くれぐれも、事態を悪化させないように…。」
俺は、友人から八重山の番号を教えてもらった。
中村は、八重山との約束があるからと先に店を出て、俺は引き続き康介と啓、それから2人の嫁たちに、八重山がいかに辛い思いをしていたか、俺がしたことがいかにデリカシーの無いことだったのかを切々と訴えられた。
「博之が異動になる前は同棲してたし…俺らの感覚としては…単身赴任中の旦那の浮気が原因で離婚したのと大して変わらないよな。」
康介は、ただの婚約破棄よりも罪が重いのだと言いたいらしい。
博之は、この1件で、皆から見放され、昨日も来ていなかったのではなく、声をかけてさえもらえなかったのだそうだ。
どうやら、八重山と別れた直後の態度が皆の反感を買ったらしい。
思い出しただけでも腹が立つ、彼らは口を揃えてそう言って、それがどんなものだったのかは教えてもらえなかった。
***
帰宅した俺は、高校の卒アルを引っ張り出した。
八重山 麗。
実は当時好きだった女の子。目立つ様なギャル系グループに属しているとかではない。真面目で、大人しいタイプ。
なのにすごく目立っていた。美少女故に高嶺の花だった。でも気さくで、いつもニコニコしている。
そう言えば歳上のイケメンな彼氏がいるとかいう噂があったな…。
結局、八重山本人じゃなくて、八重山の姉の彼氏だか旦那だったらしいけど。
冬田 博之。
背が高くて、細身で、頭が良くて、オシャレで、空気読めて、気が使えて、クラスの中心にいて、典型的なモテるタイプ。細マッチョで顔も結構良かったし…。
確か、近くの女子高に彼女がいたんじゃなかったっけ?ギャル系で結構派手目の…。
八重山と博之、2人の昔の写真を見て思う。美男美女とはこの事か、と。
そして俺、浅井 春太郎。
身長は高くも低くもない。一応テニス部だったから、それなりに締まった身体をしていたし、今もなんとか当時のままキープしている。
顔は…良く言えば愛嬌のある顔?女顔とか、童顔だとかよく言われるが、決して男前ではない間抜け面。
お調子者で、クラスの中心にいることもあったけど、全くモテない。オブラートに包んで物を言えと何度指摘された事だろう…。
良く言えば裏表がない正直者。悪く言えばデリカシーがない。空気が読めない。ただの考え無しの馬鹿。
残念!とか良く言われる。今も昔も。
実際そうなのだ。それで昨日、八重山を酷く傷付けてしまった訳だし…。
八重山に何て謝れば良いものだろうか。とりあえず電話をかけるとして、電話で謝っておしまいでは誠意が足りない気がする。直接会うにしても…会う口実なんて飯に誘うくらいしか思いつかない。
考えても仕方ない。当たって砕けろ、出たとこ勝負だ。深呼吸してから通話ボタンをタッチした。
「八重山ぁ、本当に悪かった。申し訳無さすぎて、なんて詫びたら良いのかわからねぇ。まさか、博之に婚約破棄されたのが八重山だったなんて知らなくてさぁ…本当にごめん!」
ストレートに言わなくては伝わらないこともある。
何と言ったら良いのか悩んだ結果、結局、そのままの思いをぶつけてみた。
「こうなって良かった」だの、「気にしていないから」とひたすら繰り返す八重山。俺の気が済まないからと食いついて、どうにか次の日曜の昼に飯に行く約束はこぎつけた。
そしてやってきた約束の日。
挨拶もそこそこに、この前の事をひたすら謝って…食事をした。
八重山は、飲み会の翌日、偶然博之と奥さんに会ったこと、その時に例の指輪を見たことを話してくれた。
「心構えが出来ていたから、動揺せずに済んだの。むしろあの時、浅井くんから聞いていて良かったよ。」
そう話す八重山は、俯きがちで、瞳に光がなく、笑っても明らかに無理をして笑っている笑顔だった。
俺はそんな彼女を見ているのが苦しかった。
「吐き出したい時とか、泣きたい時は、声かけて。そんなんばっかり溜め込んでたら八重山が壊れるぞ…。俺で良ければ相手するから…。」
そう伝えたものの、このままではいけない、彼女は今後も1人で抱え込むだけ…そんな気がしていた。
「なぁ、また飯行こうぜ?次空いているのいつ?」
他の誘い文句が思い浮かばなかった。今の八重山にはストレートに誘うのがベストな気がした。
その後も何度か、彼女の仕事が休みだという日曜の昼に会って食事をした。
***
「本当は、オススメで連れて行きたい店があってさ、そこ予約するつもりだったんだけど…残念ながら日曜が休みなんだよね。珍しいよな…日曜定休なんて。俺の職場の近くで、1階がカフェ&バーで2階がリストランテ。まぁ立地が微妙だからなぁ…オフィス街ど真ん中だし…。」
3回目に食事した時、何気なく喋った話に、八重山が驚きの表情を見せた。
「それってもしかして…テラス席があって…コーヒーのテイクアウトが出来て…ランチボックスも売ってたりする?」
「そうそう、パニーニのランチボックスが好きで時々テイクアウトしてる。地下鉄の駅の近くでさ、白い建物。黒い窓枠の…」
「ごめん、その店には一緒に行けないよ…私の職場なの。私の休み、定休日と一緒だしね。」
すごい偶然だった。俺の職場はその3件隣のビルの中にある。
八重山はそこで11月から正社員として働いていると言う。
そこから彼女の今までの仕事の話になり、ウェディングプランナーとして担当した康介や啓の結婚式の事、プランナーを辞めてから、結婚式場やレストランなどへ派遣でバイトをしていた事を聞いた。
おそらく今もウェディングプランナーに未練があるのだろう。彼女の話す様子は、とても寂しそうだった。
今日もやはり、暗く沈んだ目をしていた。
「これ、今まで誰にも話してないんだけどさ…言っても良いかな?」
大きくため息を吐くと、少し改まって八重山が言った。
「八重山が言ってラクになるなら言った方が良い。こないだも言ったじゃん?吐き出したい時とか、泣きたい時はそうするべきだって。俺でよければ相手するからって。」
「ありがとう。じゃあそうさせてもらうね。…実はね。私が結婚式を挙げる予定だった日も、あえてバイト入れたの。そうじゃないと、博之の結婚式見に行っちゃいそうだったから…。式場予約するのも結構大変だったの。前の年の4月に予約したんだよ?式の1年半前。プランナーさんとも仲良くなって…準備もすごく楽しかった。2人で何度も通ってさ、ああでもない、こうでもないってたくさん話し合って…。それなのに、キャンセルしないで同じとこで挙げるらしいって噂聞いた時はショックだったな…。博之が平気なのが信じられなかった。博之にとって私ってなんだったんだろう…一緒に過ごした9年間はなんだったんだろうって…。一体どんな顔して式を挙げるんだろうって思ったら………。」
彼女の瞳から大粒の涙が零れる。
「少しはラクになった?あんまりそういう風には見えないよ…まだ言いたいことあったら、言って良いよ。泣きたいなら声をあげて泣いたら良いから…丁度個室だし。俺で良ければ胸貸すし。」
俺は八重山の隣へ移動した。
「本当に…?私、冷静には話せないと思うよ…。」
無理に笑顔を作った彼女の顔は酷く苦しそうだった。
「むしろそういうことは吐き出すべき。聞いたこと、誰にも言わないし。」
大きく息を吸うと、彼女は話し始めた。
「浅井くんに電話もらった日、博之と奥さんに会ったって話したよね。その日、実は博之と少し、2人で話したの…。」
博之は当初、奥さんを堕胎させ、八重山と結婚するつもりだったらしい。今は、そうしなくて良かったと思っているそうだが、未だに八重山を忘れられないと告げたのだという。
それを聞いた時、俺は全身から血の気が引いていく感じがした。
「私、本当にこうなったのがベストだと思ってる。子どもだって殺さずに済んだ訳だし。
博之とは結婚したとしても、きっと遅かれ早かれ上手くいかなくなっていたと思う。価値観が違いすぎるって思い知らされたから。
私は博之への気持ちの整理をしたの。好きだったのは過去の話。思い出もちゃんと片付けられた筈だったの。良い思い出として片付けたのに、引っ張り出してきて、また散らかされたみたい。
良い思い出のままなら忘れるのだって簡単なんだよ…時間が解決してくれるもの…でもね、ぐちゃぐちゃに散らかってしまったら、片付けるのが大変なの。こびりついて、剥がれなくて、痛みとか苦しみに変わってしまうの。
なんで今更忘れられないとか言うの?だったら浮気なんてしなきゃいいじゃない?
なんでわざわざ、奥さんにあの指輪を付けさせるの?…多分奥さんは私の為に作った物だって知ってる…。そうじゃなかったら、あの時わざわざあんな顔しなかったと思う。
なんで平気な顔して…わざと見せつけるような風に私の前に現れるの?なんで声をかけるの?会っても知らんぷりしてくれたら良いのに…。私が何をしたの?何かいけないことをしたの?苦しいよ…今まで散々苦しんだのに、まだ苦しめって言うの?みんなに心配かけたくなくて、無理してたよ?本当は全然大丈夫なんかじゃなかった…。なのにまたそうしろって言うの?
浅井くんに指輪の事聞いていて、本当に良かった。あの話聞いていなかったら私、あの場で取り乱していたと思う。本当に浅井くんに救われた。今もそばにいてくれて…話を聞いてくれて…本当にありがとう。」
気が付くと俺は彼女を抱きしめていた。
彼女はしばらく、そのまま泣いていた。俺の服は、彼女の涙ですっかり濡れてしまっていたが、全く気にならなかった。
俺が思っていた以上に彼女は細かった。細い肩を震わせて泣いていた。この細くて華奢な身体で、大きな苦しみ、悲しみを抱え込んでいる。
どうにかしてあげたい。
俺が彼女の為に出来ることは何だろうか?何をすべきだろうか…。
気付くと俺は彼女にキスをしていた…。なるべく優しく。触れた唇から、彼女の苦しみや悲しみを吸いとることが出来たらどんなに良いだろうか。
そっと離すと、彼女はゆっくり目を開け、俺を見つめていた。
ずっと虚ろだった彼女の瞳に、光が戻った気がした…。
***
「なぁ、春太郎、最近どうなんだよ?」
とある金曜の夜。俺は、留学仲間で、麗を傷付ける原因となった話を教えてくれた竹内 大介と飲んでいた。
俺が麗を傷付けた事や会っている事は言っていない。どうしてその彼女が八重山だと教えてくれなかったのかクレームを付ける気にすらならなかった。
なぜかわからないが、麗の事はどうしても言いたくなかった。
「まぁ仕事は順調だな。実家暮らしも快適。」
「いや、そういう事は聞いてねぇよ…恋愛とか…結婚とか考えてるか?」
「結婚か…そりゃこの歳だし…親も早く孫が見たいとか言ってるしな…俺は期待されてないみたいだが…。そういう大介はどうなんだよ?」
「ああ、お前のとこは姉ちゃんと出来の良い弟がいるもんな。」
俺の姉弟は2人とも既婚。
実家は自営だが、出来の良い弟が継いでいる。
両親からしてみれば、俺はハナから期待などされていない出来の悪い息子なのだ。
決して人の道からは外れていない。が、親の希望とはことごとく違う道を歩いている。家業を継ぐ気は無いと小学生の時点で公言していたし、高校も親の希望には沿わず、自分の行きたいところへ進学した。猛反対されていた留学だって結局させてもらったし…。
自分のやりたいようにやらせてもらい本当に感謝している。だからせめて、両親に孫を抱かせてやりたいとは思っているが、その点に於いても俺は諦められているらしい。
「俺、一人っ子だからさ…親が五月蝿くて。彼女とも付き合って3年だし。でもさ、なかなか踏ん切りつかなくて。彼女が年下ってのもあるけど…。やっぱ博之見てるせいだろうな…。」
大介は博之と同じ会社の同期で仲が良いらしい。
彼の話によると博之は、現実を受け入れられずにいるようだった。それでも彼が辛うじて人として生活出来ているのは、息子の存在があるからだと言う。嫁とは向き合うこともせず、未だ麗を思い、麗と結婚出来なかった事を悔やんでいるらしい。
麗から聞いてはいたが、思っていた以上に麗に執着しているようだ。
俺は動揺していた。自覚している以上に、麗が好きらしい。
結婚するなら、麗がいい。麗でないのならば結婚などしなくてもいい。
博之だけはダメだ。これ以上、麗と関わらないで欲しい。姿を見せないで欲しい。そんな事をしたら麗をもっと苦しめるだけ。
俺が麗を幸せにする。
しかし、現状、麗とは週に1度会って昼飯を食べる、ただそれだけ。
麗は、博之に気持ちは無いというが、未だ忘れられずに苦しんでいる。
あの日、キスをした直後、彼女は今までに見せた事がないくらい穏やかな顔をしていた。
そこに、不安や苦しみはなかった。
しかし、それは直後だけ。
それ以降、苦しそうな、悲しそうな表情をする機会は随分と減った。全く無くなった訳ではないが、彼女の瞳には光が差し、笑顔だって随分増えた。
しかし、その笑顔には明らかに『戸惑い』が含まれていた。
それは、おそらく俺の好意に対する戸惑い。
彼女に思いを伝えた訳ではない。しかし、抱きしめてキスをしてしまった以上、気付かれない筈もない。
戸惑ったのは彼女だけではなく俺も同じ。自分のした事に戸惑い、どうしていいのか分からず、その時の事は腫れ物にでも触るかのように、今でもお互いがほとんど触れないまま。
その後も2回会っているが、たわいのない話をして、食事をして…変わった事といえば、毎回俺が奢っているのが申し訳ないと、以前は割り勘にしようと頑張っていた彼女が、最近はそれを諦め、代わりにちょっとしたプレゼントをくれる様になった事。そして、俺の提案で、お互いの呼び方が変わった事くらいだろうか。
俺が彼女を『麗』と呼び、彼女が俺を『春ちゃん』と呼ぶようになった。なんてことない事だが、俺にとってはすごく喜ばしい事。
「なぁ、結婚ってなんだろうな。」
「少し前は、ゴールみたいな気がしてたけど、そうじゃないんだよな。博之は違う人生の始まりだって言ってた。」
違う人生の始まり。
彼にとってそれは決して良い意味では無いのだろう。
「なぁ、春太郎は最近どうなんだよ?」
「付き合ってるわけじゃないけど、結婚したいと思える人はいる。でもどうすべきか分からない。」
俺がそう答えると、大介は驚いた顔をした。
「お前らしくないじゃん?どうしたんだよ?いつもなら考えずに突っ走って……玉砕?…あぁ、だからこそ考えてるのか…。」
「俺らしくない…か。」
***
大介と飲んだ翌々日の日曜日、俺はやはり麗と約束をしていた。
俺らしさについて考えたが、よく分からない。悩んでも仕方ないので、考えるのをやめよう、そんな結論に達した。
「お待たせ。遅くなってごめんね。」
突然、後ろから声がする。
振り向くと、白い息を吐きながら肩で息をする麗がいた。
「まだ約束の時間より早いぜ?そんなに急がなくても良かったのに…。」
今日はなんだか雰囲気が違う。髪型が違う。でもそれだけじゃない。…可愛い、どこがどう可愛いのかわらからないけれど、とにかく可愛い。俺は気付いたらそれを口にしていた。
「なんか今日、可愛い…。」
「やだなぁ、30目前のおばさん相手に可愛いなんて、褒めても良いことないよ?」
麗が笑った。こんな笑顔は再会してから初めてかもしれない。思わず溢れたというか、すごく自然な笑顔。
「髪型のせいかな?先週、食事した後、なんとなく美容院行ってみたんだよね。それで、なんとなくお任せにしたらこうなった。」
彼女の髪は、ほんの少し短くなり、ふんわりパーマがかけられていた。
可愛く見えたのは…それに加えて、表情のせいだ。今日は随分穏やかな顔をしている。
それから2人でフラフラして、今日の気分で店を選んで食事をした。偶然にも、食べたいものが一致。
ハンバーガー。と言っても、ファストフードではない。
炭火焼きの自家製パティと、自家製ベーコン、それからアボカドとチーズを挟んだグルメバーガー。
食べにくいけど美味かった。
麗はナイフで切り分けて小さくして、器用に食べていた。
そんな姿も可愛かった。
今日はなんか俺、麗が可愛く見えて仕方がない…いや、実際可愛いんだけど。
「今日もご馳走様でした。いつもありがとう。遅くなったけど…これ。バレンタインだったから。中にね、柔らかいキャラメルが入っていて美味しいの。…春ちゃん、甘いの苦手だったらごめん…。」
俺が会計を終えると、麗が黒い紙袋を俺に差し出した。中には、高級そうなチョコレートの箱。それから、紅茶まで入っていた。
食事の時、食後にコーヒーではなく、紅茶を好んで飲んでいるのを覚えてくれていたのだろうか?そうだったらすごく嬉しい。
でもこれ、食事代より明らかに高い気がする…。
「ありがとう。俺、甘いの好きだし、チョコもキャラメルも好き。それから紅茶も。今回はバレンタインってことでありがたく頂きます。でも、今度からこういうの用意しなくていいよ、気ぃ使わないで。ほら、言ったじゃん?俺モテないから女の子に飯奢るのが新鮮だって。俺が奢りたくて奢ってるからさ。」
案の定、麗は困った笑顔になった。
「でも…それじゃなんか悪いし…一緒にご飯に行きにくいよ…。」
それは困る。一緒に食事をする回数が減るのは困る。寧ろ増やしたいと言うのに…。
「じゃあさ、時々麗の手料理食べさせてくれない?」
とっさに出たのはそんな言葉だった。
俺、何言ってるんだろう?それって、家に行きたいって言ってるようなものじゃないか…。慌てて、付け加える。
「ほら、あの、大介…竹内 大介から料理が上手いって聞いてるからさ、是非一度食べてみたいっていうかさ…決して家に行きたいとかそういうんじゃないから…ほ…本当に嫌ならはっきり断って。ごめん、急に図々し過ぎるよな。」
墓穴を掘った。こんなんなら付け加えなければ良かった…。やっぱり俺って残念…我ながらそう思う。
「良いよ。じゃあさ、来週はそうしよう。何が食べたい?」
あっけなく返ってきたこの上ない喜ばしい返事。天にも昇るような気持ちとはこういう事なのだろうか…。
麗の表情も、困った様子は見受けられない。
「麗の作ったものならなんでも良い。」
「そういうの困るなぁ…せめて、和・洋・中・イタリアン・エスニックくらい決めてくれないかな?」
「じゃあ和食がいい。」
選択肢が多くて驚いた。エスニックと言ったら一体何が出てくるのだろうと気になったが、ここはひとまず和食をリクエストする。
今日はグルメバーガーとはいえ、ハンバーガーだったのでいつもに比べ食事の時間が短かった。
まだ別れたくない。一緒にいたい。
「麗ん家、ここからそんなに遠くないよな?散歩しないか?歩いて送って行くよ。そしたら、来週、俺、1人で行けるし。今日は絶対入らないから。」
「お腹苦しいし、腹ごなしにそれも良いかもね。」
麗は柔らかな笑顔で同意した。
地下鉄2駅分、約40分程の道をゆっくり歩いた。
たわいのない話をしながら歩くだけ、なのに楽しかった。
晴れて比較的暖かく散歩日和。とはいえ、まだ2月。手袋をしていない彼女の手は寒そうだ。
「ちょっと左手出して。」
信号待ち、俺が麗にそう言うと、麗は不思議そうな顔で左手を差し出した。
俺は手袋を片方外し、それを彼女の手にはめる。
「それじゃ春ちゃんが寒いよ?」
「こうすれば、2人共寒くない。」
俺の左手と麗の右手を繋ぐ。
麗の細い指はすっかり冷えていた。
「ごめんね…冷たいでしょ?…でもありがとう。春ちゃんの手、あったかい…。」
彼女は笑顔でそう言ったが、困惑した笑顔だった。
彼女の家の最寄の駅まで来ると、どこをどう行けば良いのか、目印になるものを解説しながら麗は歩いた。
「今日は送ってくれてありがとう。じゃあまた来週。時間は…今日と同じで良いかな?」
「うん。楽しみにしてるから。」
別れ際、彼女の笑顔はまた柔らかなものに戻っていた。
***
1週間という時間がこれほど長く感じられたのは社会人になって初めてかもしれない。
麗からもらったチョコレートは、7日分に分けて、毎日決まった数だけ食べた。
母親に見つかり、危うく取られそうになったが死守した。絶対に食べさせてなるものか!麗からもらった俺の大事なチョコレートなのだ。
5ミリほどの厚さの、薄いチョコレートの中に、キャラメルやハチミツ、ガナッシュが入ったそれは、とても繊細で、衝撃の美味さだった。
特にキャラメルとハチミツが美味かった。噛むと流れ出てくるキャラメルやハチミツ。初めての食感。麗のセンスの良さに脱帽した。
紅茶も、ものすごく香りが良くて、幸せな気持ちになった。気軽に飲めるようにとの配慮だろう。ティーバッグなのも嬉しかった。
そして、やってきた日曜日。
あまり眠れなかった。遠足の日の小学生かよ!?自分に思わず突っ込んでしまった。
「春太郎、最近日曜になるとウキウキしちゃってどうしたの?例のチョコレートくれた子とデート?」
にやけ顏の母をスルーして家を出る。これがウキウキせずにいられるか!
道中、手土産はどうしようか考える。
酒?はなんかやらしいしなぁ…甘いもの…和食なら和菓子か…なんかそんな気分じゃない…かと言って洋菓子も…紅茶はもらったばかりだし…うーん、思いつかない。
そんな時、目の前に花屋があった。
小さなブーケを作ってもらい、それを持って行くことにする。小さな、と言うのがポイントだ。あまり立派なものを持っていては逆に気を使わせてしまうからな。
近くの駅に着いた時点で、メールをして家に向かう。
『気をつけてきてね。』一言だけ返ってきた返信。
「いらっしゃい。狭いけど…どうぞ。」
「これ、お土産。」
「ありがとう。可愛い。」
そう言いながら、麗は嬉しそうな顔でブーケを受け取る。
比較的新しく、綺麗な単身者用のマンション。部屋の間取りは1Kで、整然と片付けられた部屋。
部屋の広さに対して大きなテレビとテレビ台、それからソファ、ローテーブル。メインの部屋の家具はその程度だった。
「物が少ないでしょ?博之がいた頃使ってたものはテレビ以外処分させられちゃった。」
花瓶にさしたブーケを、テレビの脇に飾りながら、さみしそうに麗は笑った。
「やっぱりまだ好き…なのか?」
思わず聞いてしまった。
「恋愛感情はないよ。でも、9年間って長すぎるからさ…家族愛、ともちょっと違う…上手く言えないけど何かはまだ少し残ってる。でも、春ちゃんがあの時、話を聞いてくれたお陰で、随分楽になったよ。ありがとう。」
「あの時、ごめん。あんな事して…。」
「ううん。別に嫌じゃなかったから…………座って待ってて。すぐ用意するね。」
なんとなく気まずい空気が流れ、それから逃れるように、困った顔の麗はキッチンへと行ってしまった。
数分後、ローテーブルの上に並べられた料理に俺は驚いていた。
鯛の昆布締め、牛蒡がたくさん入った兜煮、あら汁、ほうれん草のお浸しに、大根の煮物、香ばしくグリルされた鶏のモモ肉とそれに添えられた水菜のサラダ、それから蕪の浅漬け。それらは綺麗に一人分ずつ盛り付けられている。
そしてテーブルの中央に置かれた土鍋。
大介が料理上手だと言っていたが、これほどだとはおもわなかった。
「もしかして…鯛、捌いたの?」
「まぁ…辛うじて三徳包丁でもどうにかなったけど…。やっぱり出刃庖丁買うべきだと思ったよ…。」
若干返答がずれている気もする…。でも、麗がさばいたことには変わらない。
麗の誕生日は来月。これは出刃庖丁をプレゼントするべきなのかもしれない。間違いなく喜ばれるはずだ。でも、誕生日プレゼントに出刃庖丁って…どうなんだ?
ひとまず気をとりなおして、思考を出刃庖丁から目の前の料理に切り替える。
圧巻だ。
土鍋が気になる。一体何が入っているのだろうか?よく見ると、テーブルの上には大葉と分葱、薬味らしきものも置かれている。
「土鍋、開けていい?」
「ちょっと待って。熱いから私が開けるよ。春ちゃん、座って座って。」
用意してくれた座布団の上に座って待っていると、手に鍋つかみをはめて、しゃもじを持った麗がやってきた。
これは…まさか…。
鯛めしだった。
一緒に炊かれた昆布を取り出し、鯛をほぐしながら全体が均一になるように混ぜていく。鍋底には、お焦げができていて、ものすごく美味そうだ。
「良かった…お焦げもいい感じ。」
満足そうに笑う麗。初めて見る表情にドキリとする。
茶碗によそい、俺の前に置いてくれた。香ばしい香りに思わず喉が鳴る。
「どうぞ、召し上がれ。良かったらお代わりもしてね。」
「いただきます!!」
文句無しに美味かった。
これ、店で食べるよりも美味い。マジで。幸せ過ぎる!
ふっくらツヤツヤに炊かれた米には、昆布と鯛の旨みが含まれて、お焦げの香ばしさ、薬味の大葉や分葱の香り、そして鯛の身が…美味い。土鍋で炊くとか…想像の斜め上だよ!
あら汁も兜煮も、臭みが全くなくて、濃縮された鯛の旨みが広がる…これ捌けるとか…鯛の頭が縦半分にかち割られてますけど…麗さん、マジっすか?
昆布締めは上品なお味。添えられてるのが塩、しかもほんのりピンクで桜の香りとかオサレだし、大根は芯まで味が染みてるし、鶏肉は皮がパリパリ身がジューシー、添えられたサラダがさっぱりしていてよく合う!箸休めの蕪の浅漬けも嬉しい…。
さりげなく置かれた温かい緑茶…なんだこれ?もう、ヤバイよ、ヤバすぎるよ!
「なんかさ、春ちゃんって明るくてお目出度い感じじゃん?だから鯛にしてみた。」
あまりの美味さに、無言で食べ進めてしまっていた。麗の言葉に、はっと我に返る。
あれ?麗、すげぇ嬉しそうな顔してる。なんか幸せそう。…っていうか、マジで可愛い!その表情!
そんな麗を見ていたら…なんか顔が熱い…耳も熱い…ドキドキする…なんだこれ?
「春ちゃん、すごく食べっぷりが良いから、嬉しいよ。とっても美味しそうに食べてくれるし。そんな風に食べてもらえるとまた作りたくなる。」
博之は、そうじゃなかったから…。
そんな呟きが聞こえた気がした。
「すごい、全部なくなっちゃった…。」
麗は目をキラキラ輝かせて言った。
「春ちゃんって大食いだったの?いつもはそんな感じしなかったけど…。」
「いや、決して大食いではない。今日はものすごく美味くて箸が止まらなかった。ただそれだけ。」
「…お米、2合炊いて良かった…多いかなって思ったんだけど…全部食べてくれて嬉しい!本当にありがとう!感動した…。」
なぜか涙目の麗。嬉し涙…で良いのか?
「ほら、泣くなって。」
「だって、こんなに美味しそうにご飯食べてもらうの初めてで…すごく嬉しかったから…。」
どうやら先程の呟きは聞き間違いではないらしい。
「竹内くんも美味しそうに食べてくれたけど、春ちゃんには到底及びません。」
「博之は…?」
また聞いてしまった。
「…博之は、美味しいとは言ってくれるけど、あんまり顔に出さなかったから美味しいって思ってくれてる実感があんまりなかったんだよね。」
なんかわかる気がする。博之は顔に出ないタイプだもんな…。
麗はさみしそうに笑っていた。
「また作ってくれるなら今度はエスニックが食べてみたい。」
俺がそう言うと、麗は再び心底嬉しそうに笑った。
「了解!じゃあ今度はエスニックね!カレーとカレーじゃないのどっちがいい?」
「じゃあカレーで!」
それから、2人で洗い物をして、麗が用意してくれていたDVDを見た。見たことのある邦画のコメディだったけれど、今までで1番面白く感じた。
見終わると、ほうじ茶のラテと和菓子が出てきた。
この居心地の良さはなんだろう。なんて幸せなんだろう。
「麗…。真面目な話、してもいい?」
「どうしたの?急に改まって…。」
2人で並んで座っていたソファ。俺は麗の方に居直って麗の手を握った。
「俺は麗が好きだ。大好きだ。結婚を前提に…付き合いたい。」
手が強張り、真一文字に口を結ぶ麗。そして、困ったような、泣きそうな表情に変わってしまった。
少しの沈黙の後、涙目の麗が口を開いた。
「少し、考えさせて欲しい…。」
仕方がない事なのかもしれない。俺が早まってしまったのかもしれない。
麗は婚約破棄されてまだ1年経っていないのだ。
あの日、麗の口から恋愛感情では無いが、博之への気持ちはまだ少し残っていると聞いていたのに、なんで俺は告白、しかも『結婚』という言葉を出してしてしまったのだろう。
返事は1週間後の日曜日。今日と同じ時間に麗の家で食事をして、その際聞く事になっている。
***
日曜日。
俺はまた花屋へ寄り、小さなブーケを作ってもらって麗の家に向かった。先週と同じようにメールすると、先週と同じメールが返ってきた。
『気を付けてきてね。』ただ、一言だけ。
「いらっしゃい。」
「これ、お土産。」
「ありがとう。今日のも可愛い。」
先週と同じように麗は嬉しそうにブーケを受け取ると、同じように花瓶にさしてテレビの脇に置いた。
「返事は食事の前と後、どっちがいい?」
「………………………じゃあ食事の後で。」
悩んだが、食事の後にした。
部屋にはカレーの芳しい香りが充満している。
「ごめん、少し座って待っていてくれるかな?」
10分程待つと、麗が料理を運んできた。
大きな皿の上には、少し深めの小さな容器が2つ。それにご飯とチャパティ。それから、サラダ、鶏のから揚げ。
「品数少なくてごめんね。」
「いや、十分過ぎるし…大変だっただろ?」
「作るの楽しかったから…チャパティ、焼きたてのうちに食べて。」
「いただきます。」
香ばしいチャパティ。このままでも美味い!
カレーはバターチキンカレーとエビの入ったほうれん草カレーの2種。どちらも美味い。香ばしいチャパティにも合うし、もちろんライスにも合う。これ、ルー使ってないカレーだよね?
箸…じゃなくてスプーンが止まらない。今日も相変わらず美味い、美味すぎる。
「チャパティはないけど…ご飯、もっといる?」
「ありがとう、頼むわ。」
絶妙なタイミングで声をかけられる。はぁ…最高。まろやかなバターチキンカレーと、さっぱりしたほうれん草カレー、どちらが好きか聞かれたらどうしよう。選べない。
サラダはごく普通のグリーンサラダ…だけど、ドレッシング美味い。まさかこれも作ったのか?玉ねぎのすりおろしが入って、ほんのり甘くて最高。レタスもシャッキリ。
から揚げはスパイシー、エスニックな香り。これも美味い。ジューシーだよ、柔らかいよ…。今日も幸せ。
気付くと、今日も無言で食べていた。
「カレー、お代わりもあるよ?…どっちがいい?」
幸せそうな麗の顔。
「両方でお願いします。」
軽やかな足取りでキッチンへ向かい、2種のカレーとライスを持って来て渡してくれる。
麗と結婚できたら幸せだろうな…。博之、マジで信じられない。麗がいて浮気するなんて…。
今日も全て完食。
麗は目を輝かせて喜んでくれた。泣かなくてホッとした。例え嬉し涙でも、泣いているより笑っていた方が良い。
今日も2人で洗い物をして…麗が入れてくれた紅茶と、手作りのチーズケーキを食べながら返事を聞く事になった。
「えっと…ここまで返事を引き延ばしてごめんね。」
ソファに、2人で並んで座り、上半身だけ向かい合うような形で麗は話し始めた。
「私は…ううん、私も…春ちゃんが好き。大好き。一緒にいたら楽しいし、笑顔になれる。ご飯を本当に美味しそうに食べてもらえるのもすっごく嬉しい。」
少し頬を染めて、まっすぐに俺を見つめて話す麗。少し意外な答えに胸が高鳴る。
「3回目に食事した時、あの時話を聞いてもらえなかったら、私は今も苦しんでいたと思う。それにね、抱きしめてもらったのも、キスしてもらったのも、本当に嬉しかった。それで、私は春ちゃんが好きなんだって気付いた。」
なのに、なぜ彼女はこんなに苦しそうな表情をしているのだろうか?
「私も、春ちゃんと結婚を前提にお付き合いしたい…けれど…結婚相手は…私が…決められないの…。」
麗は、少し黙った後、目を瞑り、深呼吸をすると口を開いた。
「博之との件でね…私の父が激怒して…私の結婚相手は父が決めるって、私が立ち直ったらお見合いさせるって言われていたの…。だから、春ちゃんにキスされた時も、嬉しかったのに素直に喜べなかった。先週告白された時も、すごく嬉しかったのに、それ以上に苦しかった。
先週、あの後、姉の所に行って、相談して、夜、両親の所に連れていってもらって話をしてきた。春ちゃんが、高校の時の同級生だって言っただけで父には猛反対された。博之との事を知っているって言ったら、弱っている私を口説くなんてって激怒された。
幸い、姉夫婦も母も私の味方になってくれて…。それで、みんなで父を説得して…初めはお付き合いする事にさえ反対されていたんだけど…結局、お付き合いする事に関しては好きにすればいい、勝手にしろって。でも、お付き合いする事を父が認めた訳じゃないし、結婚は絶対に許さない、そう嫌になる程言われたの…。春ちゃんに会って欲しいって言ったら会いたくないって言われた。父には会ってもらえそうにないんだけど…来週、姉夫婦と母に会ってもらえないかな?」
「もちろん。俺も会いたい。麗のお父さんは…俺が必ず説得する。何より、麗の気持ちを聞けた事が嬉しい。また辛い思いをさせていてごめん。俺、頑張るから。信じて欲しい。」
麗を抱きしめると、麗は泣いていた。
「春ちゃん、ありがとう…私、春ちゃん信じてるから…一緒に頑張ろう…。」
***
「ふーん…麗ちゃんって結構面食いなんだね。」
「ちょっと、すみれ…第一声がそれって失礼でしょう?」
「だってさぁ…博之だって顔は良かったし、新しい彼氏もさぁ…。」
「すみれちゃん…その名前は…ちょっと…。」
「いいじゃん、ここにおじいちゃんはいないし。彼氏だって博之と知り合いなんでしょ?」
「すみれ、自分の部屋に行って勉強でもしてこい…。」
父親…つまり麗の義兄の一言に渋々重い腰を上げ、リビングを後にした麗の姪、中学1年生のすみれちゃん。
ガチガチに緊張した俺と麗は麗の姉夫婦、葉山 巧さん・小春さんの家へ、姉夫婦と母、かほりさんにご挨拶するためお邪魔している。
「本当にごめんなさいね…気分悪くしたでしょう?難しい年頃…で済ませちゃいけないけれどすみれにしてもショックだったのよ…例の件は。」
申し訳なさそうに言う小春さんは姉妹というだけあって麗に似ている。麗も複雑な顔をして苦笑しているが、小春さんもそっくりな顔で苦笑いしていた。
「初めまして。葉山 巧です。麗ちゃんから話は聞いているよ。なかなか面白い馴れ初めだね。」
「初めまして…その件については…本当に申し訳ありませんでした…。」
あたふたする俺を見て笑っている巧さん。高校時代、麗の彼氏ではないかとひそかに噂されていたが間違いだった、そんないわくつきの人物。確かに恰好良い。
「ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。麗さんと真剣にお付き合いをさせていただいております。浅井 春太郎です。本日はこのような機会を…」
「固い挨拶はやめましょう。あなたの人となりは麗から聞いています。それで私達3人は応援したいとおもっているのよ、でもね…。」
麗の母、かほりさんの言わんとしていることは分かる。麗から俺の事は聞いてはいるが、信じたいと思ってはいるが、「はい、そうですか、いい人ですね」とはとても言える心境では無いらしい。何しろ、博之は9年間かけて築いてきた信頼を一瞬にして壊したのだから…。
すみれちゃんにしたって同じ。今中学1年生ってことは幼稚園の頃から博之という存在を知っていて…きっと懐いていたのだろう。
俺の知っている博之は基本そんなに悪い奴では…なかった…はずだ…。今ではそうはっきり言うのも躊躇われてしまうが、昔の博之はいいやつだった。友達思いだったし、口数は多くは無いけど、喋れば面白いし、冗談が通じるし、真面目だし。
しかし、現在の彼は違う。特に麗にしてきたことに対しては本当に最低過ぎて許せない。
「ごめん、麗ちゃんは席を外してくれないか?すみれの相手でもしていてくれ。」
巧さんに促され、麗は席を外した。彼らは応援してくれるとはいえ、どことなく感じるアウェー感。その原因は3人とも笑っているが、目は笑っていない、そんな表情をしているからだろう。
「さて、何から聞こうか…。それとも何から話そうか…覚悟はいいかい?」
3人から繰り出される矢継ぎ早の質問に俺は必死で答えた。取り繕ったり、じっくり考える暇など与えられない。
俺の仕事、高校時代の事と卒業後の事、俺と博之との関係、博之のした事について、麗と再会して傷つけてしまった詳しい経緯と、そこから麗と会うようになった経緯。麗の事をどう思っているのか、どうして麗と結婚したいのか、今まで結婚を考えたことのある恋人はいたのか…などなど。
時々俺の口から出てくる康介や啓、中村の名に3人の表情が一瞬ではあるが和らぐ所を見ると、彼らは随分信頼されているらしい。辛い時期を支えてきたのはやはり彼らだったのだ。
根掘り葉掘り聞かれ、答えてはさらに突っ込んだ質問をされ…それをどのくらい繰り返しただろうか。
早めに昼食を済ませて訪れたと言うのに、外は薄暗くなり始めていた。
俺が真剣に話した結果なのか、3人の表情も段々穏やかになっていく。
麗は家族に大切にされているのだと言うのを実感した。初めは冷静だった3人も、博之の一件についての話になると冷静ではいられなくなるらしい。俺の知っていることはもちろん、麗さえも知らないことや、麗と博之の過ごした9年間についても話してくれ、それを知った上で麗を支えてほしい、そう頼まれた。
「ごめん…もういいかな…この後、予定があるんだよね…。」
遠慮がちにリビングに現れた麗。
この後、俺も麗も山内家で岡崎家、中村と一緒に夕食をご馳走になることになっている。
麗が現れて、博之の話で冷静さを失った3人も少し落ち着きを取り戻したようだ。
「随分しつこく突っ込んだ質問までしてごめんなさいね。きちんと答えてくれてありがとう。お約束があるならもう行きなさい。」
「春太郎くんの誠意は伝わったよ。お義父さんはかなり手強いけれど…頑張って欲しい。麗ちゃんの為にも君の為にも。そのうち一緒に呑もう。」
「私も出来る限り2人を応援する…でも麗を裏切るようなことをしたら…絶対許さないから、覚悟しておいてね。」
「また…うちに来ていいよ。」
どうやら、麗が彼女にも俺の事を話していてくれたらしく、俺は、すみれちゃんを含めて…皆さんに認めてもらえたらしい。
巧さんと連絡先を交換し、ご挨拶をして、葉山家を後にする。
緊張感から解放された俺は、思わず大きな安堵の溜め息を吐いてしまった。
「ごめんね、そばにいられなくって。…どんなこと聞かれたの?酷い事言われなかった?」
麗は心配そうに俺の顔を覗き込む。
「大丈夫。いろいろ聞かれ過ぎて何聞かれたか覚えてねぇ。必死だったし。でも、話せてよかったよ。」
笑ってごまかした。とても厳しいこともたくさん言われた。出来たら麗には聞かせたくないようなことだって…。
「それなら良いけど…。本当にありがとう。」
俺と麗は手をつないで山内家に向かった。麗の表情は柔らかく穏やかだ…。そんな姿を見ているだけで、俺は幸せだと感じてしまう。
「はぁ!?どういうこと?2人揃って遅れてきて…その恰好…デートでもしてたの!?」
「まさか…そうなのか!?」
「春太郎…説明しろよ…?」
「麗ちゃんがちゃんと笑ってる…。」
「ほんとだ…可愛くなってる…。ちょっと太った?」
一応少し遅れる旨は麗がメールで連絡していたが、俺と一緒だとは予想だにしなかったらしい。
指定された時間に15分ほど遅れて山内家を訪問すると、5人に一斉に囲まれた。俺と麗が揃って現れたのは勿論、俺たちの服装が彼らにしたら衝撃だったらしい。麗の母や姉夫婦にご挨拶をする、ということで俺はスーツだし、麗もきちんとしたワンピースを着ている。皆は普段着…康介に至っては部屋着であるため、俺と麗は明らかに浮いていた。
そして、麗の自然な笑顔に皆が驚いていた。
俺は康介達に麗とのことは話していなかったし、どうやら麗も話していなかったらしい。
「実は…まぁ、御察しの通りで…」
そんなわけで、こちらでもまぁいろんなことを根掘り葉掘り聞かれた。2人で会うようになってからの経緯や、お互いの気持ちや今日のこと。先程に比べたら質問がずいぶんぬるくて助かった。
そして…結婚の事についても遠慮がちにではあるが話題に上がる。
「結婚…考えていないわけじゃないんだけどね…。」
「まぁ、すぐには…なぁ…。」
麗と俺は顔を見合わせて困ってしまった。
「そうだよね。さすがにまだ考えられないよね。でも、結婚って良いものだよ。って旦那と一緒に暮らしてない私が言っても説得力ないけど…。」
此処にいるメンバーは俺たち以外皆既婚だ。
康介夫婦、啓夫婦は勿論、中村も結婚しているらしい。中村は婿取りのため姓が変わっておらず、しかも実家暮らし。旦那さんは単身赴任中で離れて暮らしているそうだ。今日まで俺は知らなかったが。
「でも、本当に良かったよ!麗が笑っていて、本っ当に嬉しい!まぁ…相手が浅井くんなのが若干の不安要素かな…お正月の一件という前科持ちだし?」
「確かにそうだなぁ…春太郎すげぇいい奴なんだけどいろいろ残念だしな…地雷とか踏むの得意だし。」
「まぁ、春太郎で良かったよ。春太郎に麗はもったいない気もするけど…。ちょっと会わなかった間に麗が変わったという功績は認めざるを得ないよな。」
友人たちの愛のある憎まれ口が嬉しかった。隣を見ると、麗も心底楽しそうな笑顔を見せている。
康介と啓の娘たちは麗に懐いているようだった。皆で話をしている間も、麗のところにおもちゃを持ってきたり、絵本を持ってきて読んでくれとせがんでいて、麗はそれを相手しながら話していた。麗の隣にいる俺も、すぐに彼女たち目をつけられ、良いように遊び相手にされていた。
普段小さな子供と触れ合う機会のない俺にとってそれはとても新鮮で楽しかった。
「春太郎、子どもの扱い上手いな…彩が俺以外のおっさんの膝の上に普通に座るって珍しいよ…。」
康介の娘はなんでも、おっさんよりも若い男が、おばちゃんよりも綺麗なお姉さんが好きらしい。先程から当たり前のように俺の膝の上に座っていることに皆が驚いていた。しょっちゅう会っている啓の膝の上でさえ座らないらしい。
「春ちゃんはおっさんじゃなくてカッコいいお兄さんなんだよね?彩ちゃん?」
「うん!おにいちゃんカッコいい!」
麗にカッコいいなんて言われるのは初めてだ…嘘でも冗談でも嬉しい。康介の娘、彩ちゃんもそれに同意してくれた。俺は童顔のためおっさんではなく、ギリギリお兄さんとの判定が下ったらしい。
父親2人には妬まれ、奥様方には冷やかされ、なんだか小っ恥ずかしかった。
やたら悔しがる康介と啓に文句を言われつつも、夕食を頂いたり、子どもと遊んだりと、楽しい時間を過ごした。
「春ちゃんがカッコいいって言ったの、嘘でも冗談でもないからね?」
帰り道、急に麗がそんなことを言い出した。俺の考えていたこと、なんでわかってしまったんだろう?
「すみれも、言ってたでしょ?私の事面食いだって。あれは春ちゃんがカッコいいって褒めてたんだよ?あの子素直じゃないから…。それから、姉と母からメールがあったの。春ちゃんに好感持てたって。本当に裏表なさそうだって。それで、父のところに…一度私が連れて強引に会いに行けって。」
「なんか麗にカッコいいとか言われるの恥ずかしいな…そういうこと言われることあんまりないからさ…。麗のお父さんのところ、何度でも通うよ。俺の事知ってもらわなくちゃいけないんだろう?とりあえず初回は麗と一緒に行って…その後は、なるべく俺一人で頑張ってみる。今日お母さんや小春さん、巧さんと話してその方が良い気がした。」
***
数日後、俺は巧さんから連絡をもらい、仕事が終わってから待ち合わせをして飲んだ。
そこで、麗の父に会いに行く際に気をつけることや、アプローチの仕方、絶対言ってはいけない事など、たくさんのアドバイスを頂いた。
とにかく、何度も足を運ばなくてはいけないらしい。
「ちなみに俺は3ヶ月間、暇さえあれば通ったよ。その前にも結婚したいって何度かお願いはしていたんだけどさ、まだ早いって反対されてて…。今思うと、本当にバカだったと思うけど、どうしてもその時結婚したかった俺と小春は…話し合った結果、出来婚を狙うことにした。それで…すみれが出来て…子どもが出来たから結婚を許してくれってお願いしに行ったわけ。そしたら許してもらうどころか家にさえ上げてもらえなくなって、玄関で追い返された。何度もね。こちらが本気だっていうのが認められると、一緒に酒を飲まされるから。そしたら手土産は酒かつまみがオススメ。お義母さんによると、お義父さん自身、酒の力を借りないとそういう話が出来ないらしい。それと、こっちをベロンベロンになるまで酔わせて、酔った時の本音を聞き出したいって事らしいんだけど…。お義父さん、すげぇ酒強いから頑張れ。」
お2人のちょっと意外な結婚秘話に驚いたが、想像以上に長期戦になるのは避けられない、そんな心構えが出来た。次の麗の休みに麗と一緒に会いに行くことになっている。果たして俺は家に上げてもらえるのだろうか…。
次の日曜、高速を使って車で1時間半程の距離にある麗の両親の家に2人で挨拶へ行った。
昼過ぎに到着し、麗の母に案内され家に上げてもらうことには成功した。そして、一応顔を合わせ、自己紹介…辛うじて名前を伝える事は出来たものの、麗の父は「俺は話しなどない」そう言って、麗と麗の母が必死に引き留めるも、どこかへ出かけてしまった。
俺たちは麗の母の勧めもあり、夜まで粘って居座り、夕食までご馳走になったが、8時を過ぎても麗の父は戻らなかったため、泣く泣く帰ってきた。
そんな訳で初回の結果は惨敗。
その後も2回、計3度程麗と2人で出かけたものの、ほぼ同じ結果だった。麗の母かほりさんの協力のもと、色々手を尽くすも、麗の父の方が一枚上手だった。
***
次の週は、俺一人で行くことにした。今までの3回は麗が一緒だったので彼女の休みに合わせて日曜だった。何の根拠もないが土曜にお邪魔してみたら何か変わるのではないか、そんな淡い期待もあった。
麗の両親の家に到着し、車から降りると、丁度麗の父が家から出てきたところだった。
俺の姿を見て、少し驚いた顔をしていたが、すぐに不機嫌そうな表情に変わってしまった。しかし、初めて麗の父の方から俺に近づいてきた。
「今日は帰れ。」
「いえ、お話しさせてください。お願いします。」
頭を下げるも、答えは同じだった。
「今日は帰れと言っているだろう?いいから帰れ。」
「いえ、少しでいいのでお話を…。」
「今日話したら少しじゃすまないから帰れと言っているんだ。」
「それであれば、是非ゆっくりお話を…。」
しかし、そう麗の父が言うのには理由があったのだ…。
「駄目だ、今日は麗の誕生日なんだから一緒にいてやれ。話なら来週聞いてやる。来週の土曜の夕方、1人で来い。」
「あ、ありがとうございます!!」
「わかったならさっさと帰れ。」
手土産だけどうにか受け取ってもらい、麗の父に促され俺は帰路についた。
帰りの車内、俺は複雑だった。来週、話を聞いてもらえることになったのは飛び上るほど嬉しい。しかし、俺はとんでもない失態を犯すところだったのだ。
麗の誕生日が今日であることをすっかり忘れていた。
麗の父に会うことしか、会って話しを聞いてもらうことしか考えていなかった。麗の誕生日を忘れていたなんて最低だ。
いや、凹んでいる時間などもったいない。プレゼントを探しに行こう。
麗に何か欲しいものは無いか聞いておけばよかった。何がいいのだろうか?出刃包丁…はさすがになしだ。使い勝手などの希望やサイズもあるから本人が選ばなくてはいけないだろう。
やはり定番のアクセサリーだろうか?そう思い店を覗く。ついつい婚約指輪に目が行ってしまう。俺も麗に早くプレゼント出来るようになりたいものだ。
彼女の指に似合いそうなのはどんな指輪だろう。細くて長くて白い麗の美しい指。きっとシンプルで華奢なものの方が似合うだろう。
本当に結構な値段がするもんだな。リーズナブルなものも多いけど、いいなと思うものはやはり給料の3か月分と同等かそれ以上だ。
「婚約指輪をお探しですか?」
「いえ…プレゼントしたいのはやまやまなんですけど…まだ早いんで…今日は誕生日プレゼントを…。」
店員に相談しながら、真剣に悩み、結局誕生石のピアスにした。ホワイトゴールドの細いチェーンの先に一粒のアクアマリン。やはりシンプルで華奢なデザイン。麗に似合いそうだ。
一度帰宅し、夕食を済ませる。麗の仕事終わりの時間に合わせて職場近くまで迎えに行く。あえて連絡はしない、サプライズだ。麗はどんな顔をするのだろう?喜んでくれるだろうか?
「お疲れ、麗。」
「春ちゃん?どうしたの?」
「ちょっとドライブしよう?」
俺の姿を見ると、目を見開いて驚く麗。しかし、すぐ嬉しそうな表情に変わる。
ドアを開き、麗を助手席に乗せ、車を走らせる。目的地は特にない。
「今日、どうだった?」
「帰れって言われた。」
「そうだったんだ…。」
彼女の質問に答えると麗は少し落ち込んだ。
「今日は、麗の誕生日だから帰れって。代わりに来週話聞いてやるから俺だけ来い、そう言われた。」
麗の顔は急に晴れやかな笑顔に変わる。この幸せそうな笑顔をずっと見ていたい。
「麗、お誕生日おめでとう。これ、プレゼント。俺、来週から頑張るから。時間はかかりそうだけど…期待してて!」
「春ちゃん…ありがとう…私、そんなこと言われたらすごく期待しちゃうよ?」
「おう、任せとけ!麗のお父さんに許してもらえるまで…半年でも1年でも、2年でも、3年でも、それ以上でも俺、頑張るし、許してもらえるまで粘るから。」
笑顔をずっと見ていたかったのに、麗は泣いてしまった。嬉しくて泣いているとわかっていても、やはり泣かれてしまうとちょっと困る。車を適当な場所に停め、抱きしめてあげることしかできない。
しばらく抱きしめて、ようやく落ち着いた麗にキスをするとやっと彼女は笑顔に戻った。
その後、申し訳なかったので、実は誕生日だと知っていて忘れていたことを告白し、詫びた。
麗は全く気にしていない様子で笑って許してくれた。
「でも、私言ってないのに何で知ってるの?」
「実はさ…高校の時、麗の事好きだったんだよね…その時から知ってた。」
思いがけず昔の恋心までカミングアウトすることになってしまった。すげぇ恥ずかしい。
「本当に!?なんかそれ、すごく嬉しい。」
そして、実は彼女自身も誕生日を忘れていたのだと明かしてくれた。今朝、出勤してから今日が自分の誕生日である事、俺に誕生日を教えていなかったことに気付いたらしい。
「春ちゃん、私の為に一生懸命頑張ってくれてるじゃん?だからプレゼントはその気持ちで十分だったし…明日会えたらそれで良いかな…って思ってた。」
それから、麗の家まで送り、翌日デートする約束をして別れた。
翌日、俺が昨日のうちに予約しておいた洒落たフレンチレストランでランチのコースを食べた。デザートにバースデーケーキが出てきた時、麗はまたしても泣いていた。ケーキを持って一緒に撮ってもらった写真にも涙目の麗が写っていた。
食後は、2人で広い公園を散歩した。手をつないで…。歩くたび、揺れて輝く昨日プレゼントしたピアス。
季節はすっかり春本番、麗らかな散歩日和。
「春ちゃん、私本当に幸せだよ…早くお父さんに許してもらえるといいな。今まで、結婚っていうと、結婚式の事はリアルに考えられたんだけど、その後の生活の事は漠然としか想像できなかったんだよね。私も仕事をして、いずれは子どもも欲しい、でもそれ以上は考えられなかった…。
なのに最近はそうじゃないの。私が作ったご飯を春ちゃんは美味しそうに食べてくれて、お休みの日はこんな風に手をつないでお散歩して…数年後には2人だけじゃなくて子どももいて…春ちゃん、きっと優しいお父さんになるんだろうな…とか、春ちゃんに似たら男の子でも女の子でも可愛いんだろうな…とか考えちゃう。この間、山内家の彩ちゃんとか、岡崎家のみどりちゃんと春ちゃんが遊ぶ姿見たらそれがすごくリアルになっちゃって…早く結婚したいなって思っちゃう。まだこの間付き合い始めたばかりなのに…変だよね。」
「変じゃないよ。俺もそう。今まで結婚したいと思えるような恋愛もしてこなかったし…結婚って親孝行の為にするもんだと思ってた節もあるし…。でも今は違う。麗と結婚したい、寧ろ麗と結婚できないなら独身のままでいいとさえ思ってしまう。毎日麗の作る飯食べて、2人で笑って暮らせたらどんなに幸せだろう、そう思う。子どもは…俺似じゃなくて麗に似た女の子がいいなぁ…なんて。男の子だったらまぁ俺似でも良いけど、出来たら麗似の子がいいな、とかさ。あんな風に公園で遊んだりしたいってすげぇ思う。」
俺がつないだ手を強く握ると、麗の手も握り返してくれた。
麗は穏やかで、本当に幸せそうな笑顔。俺はきっと目じりが下がって間抜けな顔して笑ってるんだろうな。
そのまま、特に言葉を交わすわけでなく、手をつないでゆっくり歩いた。そして、麗を家まで送り届ける。
「俺、頑張るから。時間はかかってしまうと思うけど、必ず麗のお父さんに結婚を認めてもらうから…。」
***
「まさか、麗に手を出してないだろうな?」
「もちろんです。」
麗の誕生日の翌週、俺は巧さんのアドバイス通り、麗の父が好きだと言う日本酒と、ちょっとした酒の肴を持って麗の両親宅を訪ねた。
改めて、俺が名乗り、麗の高校のクラスメイトであることと、真面目にお付き合いをしていること、それから仕事は何をしているのかといった自己紹介を終えると、麗の父は開口一番、俺に麗に手を出していないか確認してきた。
俺はそれに対して自信を持って答える。
嘘などついていない。今はまだ、麗を抱けるわけがない。麗の父にまだ付き合いを認められていないと言うこともあるが、それ以上に、麗が負った心の傷を考えたらとてもそんなことは出来なかった。
『私以外の人を抱いていたくせに…何食わぬ顔で博之は私を抱いていたのかと思うと…私は何も知らずにそんな博之に抱かれていたんだって思うと…思い出しただけで吐き気がする…。』
俺が告白する前、麗はそんなことを漏らしていた。いくら俺にデリカシーがないと言っても、そんなことを聞いて彼女を抱けるほど俺はバカじゃない。
自分を律するためにも、麗に会うのはなるべく昼間、夕方以降は麗の1人暮らしの家に絶対入らないと決めている。
躊躇うこともなく、麗の父の目をまっすぐ見据えて答えた俺が意外だったのか、それとも疑っているのかはわからないが、フッと小さく笑うと麗の父は俺にビールを注いでくれた。
聞いていた通り、麗の父は酒が強かった。俺は特別弱いわけではないが、あっという間にベロベロにされた。何を話したか途中からの記憶なんてない。気が付くと翌朝になっていて、俺は布団で寝かせてもらっていた。頭が痛い。完全に二日酔いだ。
朝食をいただいて、午前中麗の母とゆっくり話をする。酒が残っていては危ないからとの配慮らしい。
気分が良くなったところで、礼を言って帰路につく。
麗の父は用事があるからと朝食後出かけてしまった。その際、お礼とお詫びをしつこいからもう黙れと言われる程していたので、このまま帰っても問題ないとのことだった。
麗の母は、上機嫌で、また来週も同じ時間にいらっしゃい、そう言ってくれた。
その足で、麗を迎えに行き、ドライブがてら出かけ遅すぎる昼食というか早すぎる夕食をゆっくり食べ、話し合い、麗を家まで送って別れた。
毎週土曜日の夕方、麗の両親宅を訪れ泊めてもらい、昼ごろ向こうを出て、麗を迎えに行き、食事をする。外食だったり、麗の手料理だったり、康介達と一緒だったり…毎回楽しかった。
そんな休日の過ごし方が定着して3か月ほどが経過し、季節は夏になった。
当初に比べて麗の父の態度は随分軟化したし、初めは「おい」とか「お前」だったのが、「春太郎くん」と名前を呼んでもらえるまでになっていた。相変わらず、俺はあっという間にベロベロになって、後半は何を話したのか記憶に全くないが、麗の母によると、特に問題はないし、失礼なことも言っていないそうだった。
前半は、主に麗に対しての思いとか、麗との将来を真面目に考えていること、決して麗を裏切るようなことはしない、俺はストレートにものを言いすぎることを自覚しており、直すように努力はしているが、万が一不用意な発言で傷つけてしまった場合、必ず彼女と向き合い信頼回復に努める、そんな決意表明のような話。
中盤頃になると、博之の話が出てきたように思う。俺が質問されて答えることも多かったが、麗の父の口からも色々な話を聞かされた。訴訟を起こさず示談で済ませた理由についても話してくれた。
後半は麗の父と何かを話したこと自体は覚えているのだが、話の内容については恐ろしいほど記憶がない。
俺は本当に大丈夫なのだろうか…。
***
「おい、春太郎。毎週末いったいどこで何をしているんだ?いくら社会人でもさすがにそれが3か月も続いているのは目に余る。どういうことかきちんと説明しろ。お付き合いしている女性がいるのは察しがついている。彼女の家に入り浸っているのであればすぐにやめろ。そうでなくとももっと節度も持ったお付き合いをすべきだ。お相手のご両親にも申し訳ない。真面目に付き合っているのであればちゃんと私達に紹介しなさい。」
日曜の夜、いつものように麗と食事をして帰宅すると父親に話があるからと、父親の自室である和室に呼ばれ、俺は両親の前に正座をさせられていた。
父親も母親も険しい顔をしている。麗とのことを別に隠しているつもりは無い。とはいえ、麗の父親に付き合い自体すら認めてもらっていない今、俺の両親に紹介するのは躊躇われた。俺の両親に紹介するのは、出来たら結婚を許してもらってから、せめて結婚を前提にお付き合いをすることを麗の父に認めてもらってからするつもりであったのだ。
でも、こうなってしまった以上、博之との結婚破棄のことを含めた麗の事、俺が毎週末何をしているか両親に説明する必要がある。
「では、お前はお相手のお父様のところへ通って結婚を前提に付き合うことを認めてもらおうとしているわけなのか?」
「黙っていて悪かったと思っているよ。認めてもらったらちゃんと紹介するつもりだったし…。」
俺は麗が高校の同級生で、正月に集まったとき再会して俺の失言で傷つけてしまった事、それを詫びたことがきっかけで会うようになり結婚を前提に付き合いたいと告白したこと、付き合うことになったが彼女の父親に反対されていること、認めてもらいたくて俺が1人で毎週彼女の父親に会いに行き、一緒に酒を飲んで俺の人となりを見て認めてもらおうとしていることを話した。
勿論、麗が9年付き合っていた博之に婚約破棄された経緯についても話せる範囲で詳しく話した。
母親は勿論、俺の父親までもが彼女の婚約破棄をされた理由を聞いて言葉を失っていた。
「…そう言う事情があったなら仕方がない…見直したよ。麗さんを一度うちにも連れてきなさい。お前だけがお世話になってばかりじゃ申し訳ないだろう。」
次の週末も土曜の夕方麗の父に会いに行き、泊めてもらって翌日の昼過ぎに麗を迎えに行った。
麗の父とは特に進展がなかった。酒を飲みながらいつもと同じ話をして、途中からの記憶は途絶え、気が付くと布団の中で朝を迎えていた。
いつもなら麗と2人食事をするのだが、今日は違う。俺の両親に麗を紹介するのだ。
ダークブラウンの緩くカールした髪はふんわりアップにされ、白いシフォンのブラウスとネイビーのスカート、それにヒールを合わせたいつもよりも少し畏まった清楚なスタイルは麗によく似合っている。
そして、誕生日にプレゼントしたピアス。俺と会う時は必ずと言っていいほどつけてくれてくれている。
「ドキドキするよぉ…私、変じゃないかな?」
「今日もすごく可愛いよ?麗は俺の自慢の彼女だから大丈夫。うちの両親なんてどこにでもいそうな小太りのおっさんと、ただの良くしゃべるおばちゃんだから緊張しなくていいって。」
「私が父に信用されていないがために、春太郎さんには大変な思いをさせてしまって…ご家族の皆さまにもご迷惑をおかけして…申し訳ありません。」
麗は自己紹介の後、俺の両親に頭を下げた。そんなことする必要なんて無いのに…。
一方の両親は、麗を見るなり目を丸くし、頭を下げた麗に言葉を失っていた。そして、どうにかやっと口を開いた父親と母親の言葉に俺はマジで凹んだ…。
「う…麗さん…本当にうちの春太郎でいいのか?こんなデリカシーの無い残念な男で…。」
「春太郎にはもったいないわ…。こんな良く出来た綺麗な御嬢さん…。」
「春太郎さんの支えがあったから私は救われたんです…真っ直ぐで優しくて…一緒にいられるだけですごく幸せなんです…。」
俺の父の質問に対して、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに答えた麗の言葉に、俺はすっかり癒された…けどすごく恥ずかしい。俺まで顔が真っ赤になっているだろう。
麗はあっという間に俺の両親と打ち解け、なぜか顔を出した弟夫婦と姉夫婦にも受け入れられ、緊張もすっかりほぐれたようだった。弟や姉にまで俺に麗はもったいないだの、麗は本当に俺でいいのかと質問されているのを聞いた時はもう笑うしかなかった…家族の俺に対する評価は一体どうなっているのだろうか?
***
「来週は土曜の夜、予定がある。だから日曜に麗を連れてこい。」
俺の両親に麗を紹介した4週後。いつもだったら朝食を食べるとすぐに出かけてしまう麗の父なのに、今日はずっと家にいて、一緒にお茶を飲んでいた。
一緒に、と言っても、特に会話があるわけでもなく、ただ同じ空間でお茶を飲むだけだったのだが、俺が帰る支度をして、お礼とお詫びをすると重い口を開き、それだけいうと出掛けてしまった。
「良かったわね、春太郎くん。結婚を前提にしたお付き合い、あの人が認めてくれるそうよ。おめでとう。」
麗の父が出かけて行った後、麗の母がそう解説してくれた。
「本当はね、春太郎くんの事気に入ってたみたいよ。毎週あいつはまだ来ないのかって首を長くして待っていたし、麗に好きな食べ物を聞いて用意しろ、とかね。」
目頭が熱くなった。言葉が出ない。
「早く麗のところへ行ってあげなさい。来週も待っているわ。」
はやる気持ちを抑え、麗のもとへ向かう。
麗は母から聞いていたようで、俺の顔を見るなり、号泣して抱きついてきた。俺の口から一番に伝えられなかったのは残念だが、麗の母かほりさんもそれだけ待ち望んでくれていたのだろう。
次の日曜日、ガチガチに緊張した俺と、心底嬉しそうな笑顔の麗と2人で麗の両親宅を訪れた。
麗の父はスーツを着て、俺同様ガチガチに緊張しているようだった。
「麗さんを…必ず幸せにします。裏切るようなことは絶対しません。未熟者ですが、麗さんとの結婚をお許しください。」
「頭を上げなさい。」
麗の父はいつも以上に太く、低い声で語り始めた。
「毎週あんな話を聞かされていたら許可しないわけにはいかないだろう。麗以外の女にあんなこと言ってみろ…ただじゃおかないからな。春太郎くんになら安心して任せられそうだ…。麗を…幸せにしてやってくれ。この通りだ。」
夢にまで見た結婚の許し。しかも麗の父に深々と頭を下げられてしまった。目頭が熱い。泣いてしまいそうなのをぐっとこらえる。
しかし、あんな話とはいったいどの話だろうか?
「あんな話って、どんな話?」
「もう聞いてるこっちが恥ずかしくなっちゃうような話よ?春太郎くんたらね、いつもベロベロに酔うと、すごいんだから。麗のすべてが可愛くて仕方がないだとか、笑顔を独り占めしたいだとか、高校のときすごく好きだったけれど、高嶺の花すぎてとても告白できなかっただとか、命を懸けてでも守るだとか、好きすぎて手を出せるわけないとか、良くわからないけど…やたら流暢な英語でしゃべってたわよ。私は英語がダメだから、辛うじて聞き取れたのは”Urara,I love you”位だけど…。酔って寝てからの寝言もすごかったわ。『麗愛してる…結婚してくれ』ってのはほぼ毎週言ってたわね。全くぶれない上に、毎回だから、これは春太郎くんの深層心理で本物だ!ってなってね…しかも本人は翌朝になると覚えてないみたいだし…。もっと早くに許してあげたらいいのに、この人ったら春太郎くんと飲むのを毎週楽しみにしていたものだから…。」
麗の質問に、麗の母が答えるが、俺はとても聞けたものではなかった。
もう穴があったら入りたい。俺は酔っぱらって麗の父を相手に何を言っていたんだ…恥ずかしすぎる。顔から火が出る程恥ずかしい。
「春ちゃん、何で私じゃなくてお父さんにそういうこと言うの?私、直接聞きたいなぁ。」
「ベロベロになるまで酔わせたら簡単に言うわよ?だいたい日本酒で5合くらいかしらね?先にビール飲ませるともっと早いわよ?」
「毎週じゃなくていい。月に一度は麗を連れてこい。麗の前でベロベロになるまで酔わせてやる。」
***
それからはトントン拍子で話が進んでいった。
盆に高校時代のクラスメイトと集まって飲んだとき、婚約をしたことを皆に報告したところ、皆に驚かれた。正月、麗を傷つけて皆をドン引きさせたはずの俺が、まさか麗と結婚するなんて、人生何があるかわからないと皆に言われ、やはりここでも皆が俺に麗はもったいないだの、麗に本当に俺でいいのかと聞いていた。
「いったいこいつのどこが良いわけ?」
「デリカシーの無いところも含めて全部。」
そんな麗の発言により、馬鹿ップル認定される始末。でもそれが嬉しかったりする。
「マジで麗変わったよな。博之よりも春太郎の方が麗には合ってるよ。」
「あー、それ分かるわ。すげぇ幸せそうだしな。辛い思いはしたけど、結果オーライってやつだな。」
俺と婚約した今、博之の存在は麗の中で『高校時代のクラスメイト…まぁ付き合ってたこともあったかな…』程度の認識になったようだった。博之の話をしても苦しそうな顔も、辛そうな顔もすることはなくなった。
もはやネタにされても大丈夫!とまで麗は言う。
「だって、私のそばには大好きな春ちゃんがいて、今がすごく幸せなの。もうあの時の苦しみは全部春ちゃんが消してくれたから大丈夫。それにこれから、春ちゃんと一緒にもっともっと幸せになる予定だしね。だから私を捨ててくれた博之にはある意味感謝してるよ?それから、春ちゃんに指輪の事教えてくれた竹内君にもね。」
***
結納は秋に済ませ、麗の希望で婚約指輪は無しにして代わりにペアの腕時計を贈った。
結婚式は翌年の麗の誕生日に神前式で挙げ、見事な日本庭園の中にたたずむ料亭で披露宴を行うことが決まり、少しずつ準備を進めている。
結婚指輪は、俺がごくシンプルなもの、麗のはエタニティと言われるデザインのペアリングにした。
新居は、麗家族が昔住んでいたマンション。今貸している人が2月末日で出ていくと言うので、その人たちが引っ越したらリノベーションをしてそこに住むことになった。今は、図面を基にどんなふうにするか建築士と打ち合わせに入った段階で夢は膨らむばかり。
挙式が終わってもしばらくは別々なのがちょっと悲しいが少しの辛抱だ。
新婚旅行はカナダ。俺が高校卒業後に留学していた時の話を麗にしたことがあって、その話を覚えていた麗の希望でもあるし、久しぶりに行きたい俺の希望でもある。
それから、麗は転職を考えている。披露宴を挙げる予定の料亭の系列のレストランで、契約社員でプランナーの募集があるかもしれないと言う話を俺たちの担当のプランナーさんからこっそり教えてもらったのだ。
それが無くても、今の仕事は夜が遅いので、正社員として結婚後も続ける気はないらしい。退職か、パートに切り替えるか悩み中とのことだった。
***
クリスマスイヴ。会社で残業をしていた俺は、麗の仕事終わりの時間に合わせてキリのいいところで仕事を切り上げる。
「麗、お疲れ。」
「春ちゃん!?どうしたの?」
「残業。で、今帰り。ちょっと話があるんだけど…。」
「どこもみんな閉まってるし…うちでいい?」
「ごめん、そのつもり。ケーキも用意したし。」
2人で食べきれるサイズのクリスマスケーキと、ハーフボトルのシャンパーニュ。
来年はもっとクリスマスっぽく過ごしたいよね…なんて話しながらケーキを食べ、シャンパ―ニュを飲んだ。
「麗、ここに座って。」
「なになに?」
洗い物を終えた彼女がキッチンから戻ってきたので、ソファに座ってもらう。
俺は麗の前に跪き、ポケットから用意しておいたプレゼントを取り出す。
「もう答えは知ってるんだけどさ、言わせて……”WILL YOU MARRY ME?”」
「うん、もちろん…春ちゃん…ありがとう…。」
麗の左手をとり、薬指に指輪をつける。そして指先にそっと口づけを落とす。
麗は俺を見つめて涙を流していた。
「本当は欲しかったでしょ?婚約指輪。」
「何で知ってたの?」
「結婚指輪探してるとき、麗めっちゃ見てたし。」
「これ、いいなぁって思ってたやつ?…なんでわかったの?」
「だって、麗こればっかり見てた。」
「春ちゃん…大好き!本当にありがとう!ショーケースで見るよりも、ずっとずっとダイヤモンドが大きい…すごく綺麗…。春ちゃんって、私の事なんでもわかっちゃうんだね?」
「まぁ俺は麗しか見てないからな。」
実は今日の為に、結婚指輪を買いに行った翌日、注文しておいたのだ。麗の希望で、結納の際、婚約指輪ではなく、腕時計をお互いが贈る事にしたのだが、俺は麗に婚約指輪を贈りたかった。麗が要らないと言った気持ちも分かる。以前それが原因で嫌な思いもしたわけだし。
「きゃー何これ?”SHUNTARO LOVES URARA”?」
「これなら使い回し出来ないだろ?」
指輪の刻印を見た麗は目を輝かせて喜んでいる。俺のブラックジョークにも「流石春ちゃん!」と返す余裕さえある。
迷ったけれど、やっぱり贈って良かった…。こんなに喜ばれるとは思っていなかった。幸せ過ぎて怖いくらいだ。
この日初めて麗の部屋に泊まった。何があったかは言うまでも無いだろう…。
***
「最近付き合いがやたら悪りぃと思ったら…そういう事になってたのかよ!?」
「黙ってて悪かった。」
仕事納めの前日、俺は大介に誘われ2人で飲んでいた。
そして、俺と麗の結婚を報告したのだ。
案の定、馴れ初めからそこに至るまでの経緯を語らされた。
「大介には本当に感謝してるよ。今の俺たちがあるのはお前のお陰。お前が博之の事教えてくれなかったら俺と麗が結婚することなんてなかったと思う。麗も、『竹内くんありがとう!』だってさ。まぁ、大元を辿れば、麗との婚約を破棄してくれた博之にも感謝だな。」
これが俺と麗の本心。博之に対する怒りなど、俺も麗も幸せ過ぎてどうでも良くなっていた。…こういう所が馬鹿ップルと言われる所以なのだろうな…。
「だったら、それ直接本人に言ってやってくれよ。可能であれば麗ちゃんも一緒に。」
「は?どういう事?」
「博之は未だに麗ちゃんの事愛してるらしいぞ。そんな不毛なこと辞めて、嫁を愛してやれと言ってるんだが全く聞く耳持たなくてな…。あいつは現実を見るべき。そして、自分のやってきた事とも、嫁とも向き合うべきなんだよ。そのキッカケを春太郎が与えてやってくれないか?」
俺と麗は大介に打診された件について話し合った。俺も麗も、それは彼にとって間違いなく必要な事だとの結論があっさり出た。
「でも麗は大丈夫なのか?」
「春ちゃん…私を信用してくれないの?私が愛してるのは春ちゃんだけ。」
頬を膨らませて怒ったフリをする姿も可愛い。
麗の事はもちろん信用している。俺が言いたいのはそういう事じゃない。麗もそれを分かった上で戯けているのだ。
「万が一傷付けられても、春ちゃんがすぐに慰めてくれるから大丈夫だよ。」
***
年が明け、元日。
俺と麗は戸籍上の夫婦になった。
今日から、『浅井 麗』。そして、俺は麗の夫なのだ。
日付が変わってすぐに婚姻届を役所に提出し、初詣に行く。2人で、神様の前で夫婦の幸せと健康を願った。
「これで麗ちゃんも正式に浅井家の一員ね。」
日中は、俺の家で過ごす。俺の家族…特に母はやたらと上機嫌だ。数日前から、俺の家で過ごし、一緒に御節を作ったりして、麗の料理の腕前を目の当たりにした母は、以前にも増して麗が気に入ってしまったらしい。
「本当に春太郎には勿体無いわぁ…。」
残念ながらもうそれが母の口癖になっていた…。
夕方からは、麗の両親宅を訪れる。巧さん達も一緒だ。
結婚を認めてもらって以来、月に一度ほど夕食をご馳走になり、例の如くベロベロになるまで飲ませれている。もうそうなると、不可抗力らしく、俺は麗本人の前でも小っ恥ずかしいことを相変わらず言っているらしい。
翌朝には言ったことを忘れているのがせめてもの救いだ…。
そんな俺を見た麗は、すっかり癖になってしまったらしく、それ以降もお義父さんが俺に酒を勧めまくるのを一向に止めようとしない。寧ろ嬉しそうな顔で麗まで俺にお酌をしてくれちゃったりする始末だ。
案の定、それは元日夜も避けられるわけが無く、義両親と麗だけでなく、巧さんや小春さん、延いてはすみれちゃんにまで聞かれてしまうのであった。
翌朝、すみれちゃんにいじられまくったのは言うまでも無い。
***
数日後、麗は俺たちの式を担当して下さっているウェディングプランナーさんの紹介で、系列のレストランへ話を聞きに行った。
話が終わった麗から連絡をもらったところ、面接は2月半ばか3月半ば、採用されたら4月か5月から勤務になるそうだ。
契約社員なので、福利厚生面や賞与は決して良いとは言えないが、シフトの希望は割に融通が利くそうだ。場所も、新居予定のマンションから通勤には便利だし、麗は受ける事を決めたらしい。
そして、俺の目の前には大介と博之がいる。
麗も、もう直ぐ合流予定だ。
大介が話していた通り、博之は未だに麗が忘れられないらしい。彼の口から麗の名が出たので、彼の話を遮って彼女の件について話しがある、そう切り出しかけた時、麗から着信があった。
断りを入れて電話を取り、麗を迎えに行く。
「お疲れ。なかなか条件良さそうで良かったな。」
「うん。毎週は無理だけど、土日も休めるみたい。もし受けて受かった場合、私の場合は勤務開始日も融通利かせてくれるって言ってもらったよ。」
「面接の日、決まったら向こうから連絡くれるって?」
「うん。」
麗の転職の話をしながら席に戻る。やっぱりプランナーという仕事に未練があった様で、就職出来るかもしれないとなると俄然テンションが上がるらしい。麗の顔はやる気に満ち溢れていた。
「竹内くん、久しぶり。それから博之も。」
麗を見た途端、表情がぱぁっと明るくなる博之。明らかに麗に見惚れているのが分かる。
分かっていてもここまであからさまだと気分の良いもんではないな…。麗がそんな俺に気付いたのか、俺の手を握る。
なんて事のない世間話をしていると、店員が麗の注文したカンパリオレンジを持ってきた。すでに注文し運ばれている料理でテーブルがごちゃごちゃしており、一瞬何処へ置こうかと迷ったのか店員の動きが止まる。それを俺の手と繋いでいない左手で受け取った麗。
麗の左手を見た博之の表情が一変した。
麗の左手の薬指に輝くのはクリスマスイブに俺が麗に贈った婚約指輪。
ごくオーソドックスなソリティアというデザインのそれ。実は麗が眺めていた指輪よりも、2まわりほど大きいダイヤモンドのものだったりする。前回の婚約指輪よりも素敵なものを贈りたいという、まぁつまらない俺のプライドが反映されている。
給料3ヶ月分じゃとてもきかなかったが、幸い麗と付き合うまで、貢ぐような彼女もいなければ金のかかる趣味も無かった。地元に帰って来てからは時間に余裕が出来たものの、それまでは社畜の如く働かされ、金を使う時間もなかった為、蓄えはそれなりにあったし、麗の笑顔のためであれば安いものだ。
「実は、元旦に籍入れたんだ。挙式は3月、麗の誕生日。」
博之の表情がさらに険しくなる。博之には守るべき奥さんだって子どもだっている。家庭があるのだ。きちんとそちらと向き合うべき。
麗は俺が守る。俺が幸せにする。博之が心配する必要などない。俺に任せろ。
感情が高ぶった俺は、つい麗を抱きしめてしまう。口ではやめろと言うが満更でもなさそうな麗。
「もう私には春ちゃんがいるから、いつも支えてくれるから大丈夫。すごく幸せ。博之は、奥さんと子どもを大切にしてあげて下さい。」
そんな事言ったあと、大好き!と言わんばかりの目で麗に見つめられた俺は思わずキスしてしまった…。何やってんだ俺。麗も俺も顔が真っ赤。
麗の言葉が相当堪えたのか俺がうっかり麗にキスしてしまったせいか、博之はこの日、相槌以外、俺たちの前で口を開くことはなかった。
案の定、大介は麗に「こんな奴のどこが良いんだ?」という質問をする。もうこれはお決まりだ。随分慣れたが、やっぱり微妙。俺ってそんなに残念なのか?まぁ、麗の口から俺に対する愛の告白が聞けたことだし良しとしよう。
「今の俺たちがあるのは、お前らのお陰だよ。ありがとう。」
俺と麗が2人…いや、博之に言いたかったこと。博之が麗にしたことは許せるか許せないかの2択ならば間違いなく許せない。しかし、今の俺と麗にとってそんなことは過ぎ去ってしまった過去のこと。俺たちは、過去よりもこれから2人で歩んでいく、現在と未来が大切なのだ。そう考えると、博之に麗がされたことは許せはしないが決して無駄ではない。
「あとさ、二次会来ないか?もちろん無理にとは言わない。気が向いたらさ。ついこないだも高校のメンバーで飲んだんだけど、みんななんだかんだ言ってお前の事気にしてたぞ。康介も啓も中村も他の奴らも。微妙なのはわかるけどいい機会だし。返事は今しなくていいし、保留にしといて当日の気分で決めてもらって構わない。時間と場所はこいつが知ってるはずから。じゃあ元気でな。家族、大事にしろよ。」
博之は、「あぁ、考えとく。」とだけ言った。
***
「ご紹介いただきました結城でございます。春太郎くん麗さん、並びに両家の皆さま、本日は誠におめでとうございます。本日はお天気にも恵まれ、お2人の名前にふさわしく『麗らかな春』、まさにこの言葉がぴったりな慶びの日となりました。
私は春太郎くんと麗さんが高校3年生の時、2人の担任をしておりました。春太郎くんはクラスのムードメーカーで人望が厚く、いつも笑顔で、彼の笑顔には皆が元気づけられていました。麗さんはさりげないところにまで気が付き、いつも笑顔で皆に優しく、当時から美しかったため…男子生徒達の憧れの的…高嶺の花とでも言いましょうか。噂によると新郎春太郎くんも当時新婦の麗さんに恋心を抱いていたとかいないとか…。ともかく、そんなお2人ならきっと笑顔の絶えない素晴らしい家庭を築いてゆくことでしょう。…では、僭越ながら乾杯の音頭をとらせていただきます。
春太郎くんと麗さんの幸多き前途を祝し、あわせてご両家の皆様、そしてご列席の皆様のご健勝を祈念いたしまして…乾杯!!」
たくさんの人たちに祝福され、俺と麗は夫婦になった。
春の麗かな日、未来へ向かって2人で歩き出す。