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例の四人シリーズ

「普通のパンを下さい」と聖女は言った。【連載版始めました】

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/05/31

連載版始めました!詳しくは後書きにて

「どうか、普通のパンを下さい」


 その言葉が食堂に響いた瞬間、空気が凍り付いた。長机を囲んでいた神官たちが食事の手を止め、一斉に視線を向ける。誰もが驚いていた。聖女がそんなことを口にするとは思っていなかったのだろう。


 セシリアは思わず口元を押さえた。言うつもりはなかった。ただ、空腹だった。朝に飲んだ薄いスープはとっくに消化され、胃の奥がじくじくと痛んでいる。昼は黒パン半分だけだった。昨日も同じ。その前の日も同じ。三年間ずっと似たような食事を続けてきたが、今日はどうしても耐えられなかった。


 神官長が銀の杯を置く。


「どういう意味ですかな、聖女様」


 穏やかな声だったが、その目は笑っていない。セシリアは俯いたまま答えた。


 言い終わる前に小さな笑い声が漏れた。


「食べ物ですか」


 神官長は呆れたように肩を竦める。


「聖女ともあろう方が、そのような欲を口になさるとは」


 周囲の神官たちも同調するように頷いた。


「清貧は美徳です」

「民の苦しみを知るためにも必要でしょう」

「神に仕える身なのですから」


 聞き慣れた言葉だった。三年前から何度も聞かされてきた言葉である。聖女は慎ましくあるべき。聖女は欲を持つべきではない。聖女は人々の模範でなければならない。その理屈で、彼女だけが常に我慢を強いられてきた。

 セシリアは視線を落とす。神官たちの前には焼き立ての白パンが並んでいた。香草をまぶした肉料理もある。湯気の立つスープからは食欲を誘う香りが漂っていた。自分の前に置かれている黒パンとはまるで別物だった。


「申し訳ありません。神官様」


 結局、そう謝るしかなかった。神官長は満足そうに頷く。


「分かればよろしい」


 笑い声が戻る。食堂には再び食器の触れ合う音が響き始めた。誰もセシリアを見なくなる。まるで最初から存在していなかったかのようだった。


 セシリアは固い黒パンを手に取った。指先に伝わる感触だけで、それが何日前のものか分かる。口に運び、ゆっくり噛む。硬い。飲み込むだけで喉が痛かった。それでも残すことはできない。明日も朝から祈りが待っている。食べなければ立っていられなくなる。


 聖女として王都へ連れて来られたのは十五歳の春だった。辺境の寒村で生まれ育った孤児の少女は、神託によって百年ぶりの聖女だと判明した。村人たちは泣いて喜び、教会は盛大に迎え入れた。王都へ向かう馬車の中で、セシリアは自分の人生が変わるのだと思っていた。もう飢えることはない。困っている人を助けながら生きていける。そんな未来を信じていた。


 実際に変わったのは立場だけだった。

 朝から晩まで働いた。病人を癒やし、呪いを浄化し、祈りを捧げる。聖女の力によって救われた人間は数え切れない。それなのに、彼女自身を救おうとする人間は一人もいなかった。


 教会は豊かになり、聖堂は改築され、神官たちの法衣は豪華になった。そして寄付金も増え続けた。


 だが、セシリアの食事だけは変わらなかった。誰も疑問に思わなかったのである。聖女は与える側の存在であり、与えられる側ではない。教会の人間たちは本気でそう信じていたのだから。




 ◇




 翌朝、セシリアはまだ日も昇りきらないうちに部屋を出た。聖女の一日は早い。祈りから始まり、施療院での治療、貧民街の浄化、神殿へ持ち込まれる依頼への対応と休む暇もない。


「聖女様だ」

「今日も来てくださったのか」

「ありがとうございます!!」


 感謝の言葉を向けられるたび、セシリアは小さく頭を下げた。嬉しくないわけではない。自分の力で誰かが救われるのなら、それは確かに喜ばしいことだった。


 ただ、その度に思うのだ。

 どうして自分は救われないのだろう、と。


 最初に診たのは幼い少女だった。高熱で顔を真っ赤にしており、母親が泣きそうな顔で抱きかかえている。セシリアが額に手を添えると、淡い光が溢れ出した。少女の苦しそうな呼吸が少しずつ落ち着いていく。


「ありがとうございます……!」

「どうか、日々の健康にはお気をつけて下さい」


 母親は何度も頭を下げた。


 次は老人だった。その次は怪我をした職人。さらにその次も、そのまた次も。


 昼を過ぎる頃には数十人の治療を終えていた。


「聖女様、次は西地区です」

「……はい」

「急いでください。依頼が溜まっていますので」


 休憩を申し出ることはできなかった。言ったところで返ってくる言葉は分かっている。


 聖女は我慢するものです。聖女は民のために尽くすものです。聖女は神の代行者なのです。


 三年間聞き続けた言葉だった。


 馬車に揺られながら、セシリアは窓の外へ視線を向けた。王都は今日も賑わっている。市場には人が溢れ、商人たちの威勢の良い声が響いていた。その中に、小さなパン屋が見えた。


 焼き立てのパンが店先に並んでいる。香ばしい匂いが風に乗って馬車の中まで届いた。


  店の前では母親と小さな男の子が並んでいた。男の子は受け取ったばかりのパンを嬉しそうに抱え、待ちきれない様子で一口齧る。頬いっぱいにパンを詰め込みながら笑う姿に、セシリアは目を細めた。


 羨ましいと思った。ただパンを食べているだけなのに。


「聖女様」


 向かいに座っていた神官の声で、セシリアは窓から視線を戻した。


「そろそろ到着します。今回は瘴気の濃い場所ですから、手早くお願いします」

「……はい」


 返事をすると、神官は満足したように頷いた。そこに労わりはなかった。昨日も今日も休みなく治療を続けていることなど、彼にとっては考える必要のないことなのだろう。セシリアが倒れない限り働ける。働けるなら働かせればいい。彼らの中で聖女とは、そういう存在だった。


 馬車が止まると、すぐに扉が開かれた。西地区は王都の端にある古い住宅街で、貧民街とまでは言わないものの、石畳はところどころ剥がれ、建物の壁にも黒ずんだ染みが浮いている。最近この一帯で瘴気が溜まり、住民の体調不良が相次いでいると聞かされていた。


 神官に促されて路地の奥へ進むと、確かに空気は澱んでいた。


 セシリアは両手を組み、静かに祈りを捧げた。


 淡い光が足元から広がっていく。黒い霧のように漂っていた瘴気が、光に触れた端から薄れていった。住民たちが息を呑む気配がする。


 誰かが「さすが聖女様だ」と呟いた。別の誰かが涙声で祈りの言葉を唱える。セシリアは目を閉じたまま、さらに力を込めた。体の奥から何かが削られていく感覚がある。それでも止めるわけにはいかなかった。ここで手を緩めれば、また誰かが苦しむからだ。


 浄化が終わる頃には、膝が震えていた。


 セシリアはそれを悟られないように息を吐き、組んでいた手を下ろした。周囲から安堵の声が上がる。住民たちは次々に頭を下げ、涙を浮かべて感謝を口にした。その中で、付き添いの神官だけは懐から帳面を取り出し、淡々と何かを書き付けている。


「西地区浄化、完了。次は北門付近の祈祷依頼です」

「……今からですか」


 思わず問い返すと、神官は不思議そうにセシリアを見た。


「当然です。まだ日も高い。急げば夕刻の施療にも間に合います」


 セシリアは何も言えなかった。


 休ませてください、と言いたかった。少しだけ水を飲ませてください、と言いたかった。


 けれど、そのどちらも口にできなかった。言ったところで、返ってくる言葉は決まっている。


「聖女様ならおできになるでしょう。民は待っているのですよ。あなたの力は神から授かったものなのですから」


 そう言われれば、セシリアは頷くしかない。


 神官は住民たちから差し出された礼金を受け取っていた。小さな袋がいくつも彼の手元へ渡る。金貨ではない。銀貨や銅貨が混じった、決して裕福ではない人々の精一杯の感謝だった。セシリアはそれを見て胸が痛んだ。彼らが無理をして差し出した金が、教会でどのように使われるのかを知っている。少なくとも、ここで疲れ切って立っている聖女のためには使われない。昨日の食堂に並んでいた白パンや肉料理の一部にはなるかもしれないが、セシリアの前に置かれる食事が増えることはない。


「聖女様、何をしているのです。馬車へ」

 


 馬車に戻ると、神官は先ほど受け取った袋を自分の鞄へしまった。セシリアはそれを黙って見ていた。問いただす気力はない。以前、似たようなことを聞いたことがある。あの礼金はどこへ行くのですか、と。神官は微笑んで答えた。教会の運営費です。聖女様の活動を支えるために使われます。そう言われた時、セシリアは納得しようとした。けれど、その日の夕食も黒パンと薄いスープだけだった。


 北門付近の祈祷が終わる頃には、空は茜色に染まっていた。夕刻の施療には結局間に合わず、神官は露骨に不機嫌になった。


「予定が押しましたね。もう少し手際よくできませんか」

「申し訳ありません」

「聖女様のお力を疑っているわけではありませんが、依頼は山ほどあるのです。皆、聖女様を頼りにしている。自覚を持っていただかなければ」


 セシリアは頷いた。何度も謝った。そうしているうちに、自分が何に謝っているのか分からなくなった。浄化に時間がかかったことか。足が遅かったことか。疲れてしまったことか。パンを羨ましいと思ったことか。どれも謝る必要のないことのようでいて、教会の中ではすべて彼女の落ち度になるのだ。


 大聖堂へ戻った時、食堂は既に夕食の時間を迎えていた。扉を開けると、香草と焼いた肉の匂いが流れ込んでくる。神官たちは今日の寄付額について談笑し、どの地区の有力者がいくら包んだか、どこの貴族が聖女の奇跡に感銘を受けたかを楽しげに語っていた。セシリアの前には、いつものように黒パンと薄いスープが置かれている。昼間の治療と浄化で体の芯は冷え、足はまだ小さく震えていたが、それを言葉にする気力はなかった。言えばまた欲深いと言われる。聖女にあるまじき弱音だと咎められる。だから黙って席に着き、手を合わせた。


「聖女様、明日は王城へ向かいます」


 神官長が肉を切り分けながら告げた。


「王城ですか」

「ええ。隣国より、王太子を含む使節団が参っております。聖女様のお力をぜひ見たいとのことです。国王陛下も大層乗り気でしてな。くれぐれも粗相のないように」


 隣国という言葉に、セシリアはわずかに瞬きをした。彼女にとって国の外とは、地図の上にしか存在しない場所だった。王都へ来てからというもの、外出はすべて教会の管理下にあり、手紙を書くことも、誰かと自由に話すことも許されていない。隣国の人々が自分を見たいというのも、きっと教会の功績を示すためなのだろう。セシリア個人に用があるわけではない。そう思うと、特別な思いは何も湧かなかった。


「聖女様、明日の場では余計なことを口にしてはなりませんよ」

「余計なこと、ですか」

「昨日のようなことです。パンが欲しいなどと、あのような発言を客人の前でされては困ります。聖女様は国の象徴であり、教会の看板なのですから」

「分かりました」


 セシリアが答えると、神官長は満足げに頷いた。


「それでよろしい。明日は特に大事な日です。隣国の支援を引き出せれば、教会はさらに大きくなります。聖女様にも、少しはその自覚を持っていただきませんとな」




 ◇

 



 翌日、セシリアは王城へ連れて行かれた。聖女用の衣装として用意された白いドレスは見た目だけは清らかで美しかったが、何年も仕立て直されていないせいで肩のあたりがわずかに合わない。痩せた体を布地が余るように包み、それをごまかすために神官たちは胸元に大きな飾りをつけた。鏡の中の自分は確かに聖女らしく見えた。白く、静かで、どこか人形めいている。セシリアはそれを見て、妙に納得した。人間らしく見えない方が、彼らにとっては都合がいいのだ。


 王城の謁見広間には、国王と重臣たち、そして隣国の使節団と王太子が並んでいた。神官長はセシリアの少し前に立ち、誇らしげに胸を張っている。まるで自分こそが奇跡を起こすかのような顔だった。


「こちらが我が国の聖女、セシリア様です」


 紹介され、セシリアは静かに頭を下げた。視線が集まる。いつものことだった。驚き、期待、値踏み、信仰。そこに混じって、一つだけ異質な視線があった。隣国の王太子だと紹介された青年が、セシリアを見ていた。年は二十代前半ほどだろうか。銀灰色の髪に深い青の瞳を持つその人は、聖女の奇跡を期待するというより、セシリア自身の状態を確かめているようだった。


「それでは、聖女様のお力をご覧に入れましょう」


 神官長が合図をすると、従者が黒い布に包まれた鉱石を運んできた。瘴気を含んだ石だと説明され、広間にいた貴族たちがわずかに身を引く。布が取り払われた瞬間、重く濁った空気が広がった。セシリアは一歩前へ出る。


 セシリアは石へ手をかざし、静かに祈った。淡い光が指先から溢れ、黒く滲む瘴気を少しずつ包み込んでいく。広間に感嘆の声が広がった。国王は満足げに頷き、重臣たちは隣国の使節団へ誇らしげな視線を向ける。神官長も満面の笑みを浮かべていた。


 やがて瘴気は完全に消え、鉱石はただの黒い石になった。拍手が起こる。誰かが「素晴らしい」と言い、別の誰かが「まさに神の奇跡だ」と声を上げた。セシリアは手を下ろし、微笑もうとした。けれど足元が一瞬揺らぐ。倒れはしなかった。ほんの少し、体が傾いただけだった。神官長はすぐにその前へ出る。


「ご覧の通り、聖女様のお力は衰えを知りません。これこそ我が教会が誇る神の祝福でございます」

「聖女様」


 不意に隣国の王太子が声をかけた。セシリアは顔を上げる。彼は国王や神官長ではなく、まっすぐセシリアを見ていた。


「今朝は、何か召し上がりましたか」


 広間の空気がわずかに揺れた。奇跡の感想でも、信仰の話でもなく、食事のことを問われたからだ。セシリアは返事に迷った。食べていないわけではない。薄いスープは飲んだ。けれど、それを食事と呼んでいいのか分からなかった。


「聖女様はもちろん、十分に召し上がっておられます」


 セシリアが答えるより早く、神官長が笑顔で言った。


「清らかな務めに差し支えぬよう、教会で万全にお世話しておりますので」

「そうですか。では、よく休まれてもいるのですね」

「当然でございます」


 神官長の答えは早かった。セシリアは黙っていた。何かを言えば、また余計なことになる。昨日、神官長に釘を刺されたばかりだった。


 王太子はそれ以上追及しなかった。ただ、ほんの一瞬だけセシリアの手元へ視線を落とした。祈りを終えた指先が、わずかに震えている。それを見た彼は、使節団の後ろに控えていた書記官へ目配せした。書記官は小さく頷き、手元の記録帳に何かを書き留める。


「見事なお力でした」


 王太子はそう言った。


 

 ◇



 謁見が終わる頃には、神官長はすっかり上機嫌になっていた。国王は聖女の力を称え、重臣たちは教会の貢献を口々に褒め、隣国の使節団も礼を尽くして賛辞を述べた。神官長にとっては、それだけで十分だったのだろう。


 王城の廊下は長く、白い石壁に夕暮れの光が差し込んでいた。神官長たちは少し先を歩いている。セシリアの歩みが遅れていることに気付く者はいなかった。


「聖女様」


 不意に、横合いから低い声がした。セシリアが顔を上げると、柱の陰に隣国の王太子が立っていた。先ほどの謁見広間と同じ穏やかな表情だったが、その目はどこか急いているようにも見えた。付き添いの神官は少し前で神官長の話に耳を傾けており、こちらを見ていない。


「少しだけ、お時間をいただけますか」

「……少しだけなら」


 王太子は小さく頷き、廊下の脇にある小さな控えの間へ彼女を案内した。王太子は小さく頷き、廊下の脇にある小さな控えの間へ彼女を案内した。卓上には水差しと焼き菓子が置かれていた。王城の客用に用意されたものだろう。


「お水を」


 彼がそう言うと、控えていた侍従が杯へ水を注いだ。セシリアは差し出された杯を受け取り、両手で包むように持った。冷たい水が喉を通るだけで、少しだけ息がしやすくなる。


「ありがとうございます」

「礼を言われるほどのことではありません」


 王太子はそう答えた後、ほんの少し間を置いた。


「聖女様。貴女は、教会で大切にされていますか」


 セシリアはすぐには答えられなかった。大切に、という言葉の意味が分からなかったからだ。


「分かりません」


 ようやく出た声は小さかった。


「そうですか。では、もう一つだけ。貴女は、あの場所へ戻りたいですか」


 その時、扉が開いた。


「聖女様」


 神官長だった。彼はセシリアの手元の杯と焼き菓子を見て、作り物の笑みを浮かべた。


「殿下、聖女様がご迷惑をおかけしました。まだ若く、ご自分の立場を忘れることがありまして」

「水と菓子を口にすることが、立場を忘れる行為ですか」

「聖女には聖女の在り方がございます。欲に流されず、民のために身を捧げる。それが尊い務めなのです」

「その務めを果たすための食事と休息は、どこにありますか」


 神官長の目がわずかに細くなった。

 王太子は続けた。謁見広間でのセシリアの震え、顔色の悪さ、西地区で休息もなく次の依頼へ向かわされた話。食堂で彼女だけが粗末な食事を与えられていること。それらはすでに記録されていると。


 神官長の笑みが消えた。


「聖女様はお疲れなのです。さあ、教会へ戻りましょう」


 その言葉に、セシリアの体が強張った。戻れば叱られる。戻らなければもっと責められる。けれど、もう一つだけ分かっていた。


 そう言って、神官長がセシリアの腕へ手を伸ばす。


「触らないで!!」


 叫び声が響いた。


「動くな!」


 鋭い声が控えの間を裂いた。


 次の瞬間、王太子は腰の剣を抜いていた。磨かれた刃が夕暮れの光を受け、神官長の前で冷たく光る。神官長の手は、セシリアの腕へ伸ばされたまま宙で止まった。


「殿下……これは、何の真似ですかな」


 神官長の声は震えていなかった。だが、その顔から余裕は消えていた。


 王太子は剣先を下げない。


「これでようやく分かった。貴方の国は、聖女を杜撰に扱っている事が」


 控えの間にいた者たちが息を呑む。文官が目を見開き、近衛兵たちが慌てて前に出ようとしたが、王太子はそれを片手で制した。


「私は先ほどから、貴方の言葉を聞いていたが、どれも、彼女自身の意思を一つも見ていないだろう」

「それは誤解です。私はただ、聖女様を案じて」「案じる者が、怯えて拒絶した相手に手を伸ばすのか」


 神官長は黙った。


 セシリアは椅子の背に手をかけたまま、荒い息を繰り返していた。自分が叫んだことが信じられなかった。触らないで。そんな言葉を、自分が神官長に向けて言う日が来るとは思わなかった。


「私はこの国は素晴らしいと父上から聞いた。信仰に厚く、民を慈しみ、百年ぶりに現れた聖女を国の宝として迎え入れたのだと。だが、実際に見たものは最低な有様だ。聖女を人として扱わない挙句に、その名を使って私腹を肥やしているだと?それなら、私達が聖女様を保護しようではないか?」


 神官長の顔から、完全に笑みが消える。


「殿下。それは、我が国への侮辱と受け取ってよろしいですかな」

「侮辱だと?聖女を侮辱した分際で何を言うか。私達は、そなたの国と戦争をしても構わないのだぞ」


 その言葉に、神官長は何も言えなかった。


 神官長は教会の頂点に近い立場にいる。国王に進言することもできるし、貴族たちへ影響を及ぼすこともできる。だが、それだけだった。戦争を決める権限などない。他国の王太子がここまで強く出た時、神官長個人の言葉で押し返せる問題ではなくなっていた。


 王太子はさらに一歩踏み出した。剣先は下げない。


「それに、貴方達の杜撰な聖女の管理を外へ明かしても良いのだぞ?聖女の扱いに厳しい西側諸国が、これを聞いて何と言うだろうな?」


 神官長の頬がぴくりと動いた。


「西側諸国」という言葉は、脅しとして十分すぎた。聖女や神託に関する取り決めに厳しく、聖職者の不正にも容赦がない国々である。もし彼らに、百年ぶりの聖女が満足な食事も休息も与えられず、寄付金を集めるために使い潰されていたと知られれば、教会の威信は地に落ちる。国王も黙ってはいられない。


「……殿下は、我が国を脅されるのですか」

「違う。貴方がたが隠してきたものを、隠し続ける権利はないと言っている」


 王太子の声は冷たかった。


「聖女様は物ではない。国の所有物でも、教会の看板でもない。本人が拒絶している以上、連れ戻すことは許さない」


 神官長はセシリアを見た。だが、セシリアはもう彼と目を合わせなかった。椅子の背に手を置き、震えながらも王太子の後ろに身を寄せる。その小さな動きが、何よりはっきりと答えを示していた。


 王太子は文官へ視線を向ける。


「記録を。聖女セシリア様は教会への帰還を拒否した。よって、我が使節団は彼女の身柄を保護する。異議があるなら、正式な場で国王陛下を通して申し立てるがいい」


 文官は青ざめながらも頷いた。近衛兵たちが神官長の前へ出る。神官長は唇を引き結んだまま、もう一言も発しなかった。


 王太子は剣を鞘に収めると、セシリアへ向き直った。


「聖女様。立てますか」


 セシリアは小さく頷いた。だが足元はまだ覚束ない。王太子はすぐに手を伸ばさず、一度だけ尋ねた。


「支えても?」


 その問いに、セシリアは少し驚いたように目を瞬かせた。


「……お願いします」


 王太子は頷き、セシリアの腕ではなく、肩に掛けられた布の上からそっと支えた。


 神官長はその光景を見ていた。怒りと屈辱で顔を歪めていたが、何もできなかった。ここで強引に奪い返せば、それこそ国際問題になる。教会の不正を暴かれるどころか、国そのものを危うくしかねない。


「行きましょう」


 こうして王太子は、半ば強奪する形で聖女を連れ去った。だが、その場にいた誰も、彼を止めることはできなかった。聖女自身が、戻りたくないと告げたのだから。


 


 ◇




 聖女が連れ去られた。


 その報せは、その日のうちに王都中へ広がった。最初は、隣国の王太子が聖女を奪ったという噂だった。次に、教会が聖女を虐げていたらしいという噂が混じった。翌朝には、聖女が食堂で普通のパンを求めたことまで語られていた。


 誰が漏らしたのかは分からない。だが、噂は止まらなかった。


「聖女様だけ黒パンだったって本当か」

「俺たちは礼金を出していたぞ。あれは聖女様のためじゃなかったのか」


 人々の声は、少しずつ怒りに変わっていった。


 教会はすぐに声明を出した。聖女は疲労により一時的に判断を誤っただけであり、教会は常に彼女を大切に扱ってきた、と。しかし、その言葉を信じる者は少なかった。後に王城の医師が診察した結果、セシリアには慢性的な栄養不足と過労の兆候があると報告されていたが、それが教会によって改竄されていたからだ。


 神官長は、王城へ呼び出された。


 謁見の間で彼を待っていたのは、国王だけではなかった。重臣たち、監査官、王城の文官、そして隣国の王太子がいた。


 神官長はいつものように弁明しようとした。清貧は聖女の美徳である。民の苦しみを知るために必要だった。聖女自身も納得していた。そう言いかけたところで、国王の表情が険しくなった。


「納得していた者が、なぜ戻りたくないと言った」


 その一言で、神官長は口を閉じる。


 その不自然な証言の結果、調査はすぐに始まった。教会の金庫、帳簿、寄付の記録、聖女の活動予定表が押収された。神官たちの部屋からは高価な酒や装飾品が見つかり、食堂の記録からは、セシリアだけが長期間粗末な食事を与えられていたことも明らかになった。


 その結果、神官長は職を解かれ、関係した神官たちも次々に処分された。聖女の名を使って集められた寄付金は再計算され、施療院と貧民街の支援に回されることになった。


 しかし、聖女は国には帰って来なかった。


 王城は最初、それを一時的な療養だと発表した。聖女セシリアは長年の過労により休養を必要としており、回復まで隣国の王城で保護される。教会の管理体制が改められ、十分な環境が整えば、いずれ帰国の協議を行う。そういう名目だった。


 だが、1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎても、セシリアが国境を越えて戻ることはなかった。


 理由は明確だった。セシリア自身が、帰国を望まなかったのである。


 聖女の帰還を望んでいた王都は、大きく動揺する。教会を罰すれば聖女は戻る。待遇を改めれば赦してもらえる。多くの者が、どこかでそう思っていた。けれど、セシリアは戻らなかった。国が反省したからといって、傷つけられた本人が帰る義務などないのだと、誰もが突きつけられた。


「聖女様は、もう戻らないのか」


 王都の人々は何度もそう噂した。

 そしてそのたびに、誰かが答えた。


「戻る理由がないだろう」


 その言葉に、反論できる者は少なかった。


 聖女は国には帰って来なかった。けれど、それは彼女にとっては悲劇的ではない。奪われ続けた少女が、初めて自分の人生を選んだだけだった。そしてその手の中には、かつて望むことすら許されなかった、温かな普通のパンがあったのだ。

評価&ブクマありがとうございます!励みになります。

前書きの通り、長編化させました。セシリアの隣国の生活の話になります。


(分かりやすいように代表作にしています)

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― 新着の感想 ―
人に清貧をさせる(押し付ける)なら先ずあなたがしましょうね(^^)と思ってしまう。手始めに彼女と同じ年月だけ働き詰め+質素な食事味わって下さいな。
神官長は更迭だけじゃ甘い。甘い汁を吸い続けて来たコイツは財産没収して火刑にしないと。同じく甘い汁を吸っていた神官どもも解任程度の処分じゃ甘過ぎ。犯罪者として地下牢にぶち込まないと。
 面白かったです。  他の作者様のお話しでもそうですが、聖女はなぜ、「自分を虐げている者達が、早く死ぬように。天罰が下るように。」と祈らないのでしょうか。  もし好きで聖女をやってなければ、なおさらそ…
感想一覧
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