第四章・上
夜風が湿っていた。飲み屋街の灯りが歪んで見えるのは、グラスを傾けすぎた酔客たちの目のせいか、それとも街そのものが熱に浮かされているのか。
その通りの端に、悠は影のように立っていた。灰色のフードを深くかぶり、壁に背を預ける。指先には小さなスタンガン。腰には結束バンド。数日かけて用意した道具は、彼の体温でじわりと熱を帯びていた。
中からは、二次会の喧騒が漏れ聞こえてくる。笑い声とガラスがぶつかる音。悠の耳は自然と一つの足音に集中していた。
藤島直樹。
かつてラグビー部で鳴らした巨躯。十八のとき、彼が拳を振り下ろすたびに、被害者の骨が軋む音が教室に響いた。今は父親の建設業を継ぎ、現場で腕っぷしを誇っているという。酒癖の悪さも変わっていない。
その扉が開いた。
藤島は一人で出てきた。乱暴にジャケットを羽織り、煙草を口に咥えながら、舌打ちする。スマホを取り出し、誰かに電話をかける素振りを見せたが、通じなかったのか不機嫌そうにポケットへ押し込む。
その一瞬を、悠は待っていた。
背後から近づき、短く息を殺す。
スタンガンの音が小さく弾けた。
「……っ!?」
藤島の体が硬直し、膝が崩れる。だが、流石に鍛えた体だ。咄嗟に肘を振り回し、悠の肩を掠めた。壁に押しつけられた衝撃で息が詰まる。
「テメェ……誰だ!」
藤島の目が血走っていた。酔いで鈍っているはずの瞳が、獲物を見据える猛獣のように光る。悠は無言で二度目のスタンガンを叩き込む。肩口から痙攣が走り、藤島は呻き声を上げながら地面に崩れた。
その隙に悠は、結束バンドを両手首に食い込ませる。
「……っ、離せ! 何しやがる!」
暴れる藤島を、悠は膝で胸を押さえつけ、耳元に低く囁いた。
「藤島直樹。お前の名前を、忘れたことはない。」
一瞬で、藤島の目が変わった。
ただの強盗や酔客の喧嘩ではないと悟ったのだ。だが彼の記憶の中で、こんな声を知っている相手はいなかった。
「な、なんだ……誰だテメェ!」
「思い出せ。十年前の、廃工場の夜を」
その言葉に、藤島の顔がわずかに引き攣った。
悠はバッグから、一枚の写真を取り出した。
光に焼けた古いスナップ。瓦礫の散らばる床に、蹲る一人の少年。顔は腫れ上がり、血で滲んでいる。その周囲に笑い声と足音があったことを、藤島は知っている。
「やめろ……その写真、どこで……」
「お前たちがやったことを、俺は忘れない」
藤島は必死に首を振った。
酔いが覚め、恐怖の汗が背を濡らしていく。
かつて力に任せて他人を殴りつけた夜。その現場の冷たい空気が、今、十年を経て藤島の肺に戻ってきていた。
「佐伯の指示で……殺せと.....ただ俺は、従っただけだ…」
掠れた声で口走る藤島。
悠の瞳は、冷たい火を灯したまま、微動だにしない。
「従った? 違うな。お前は楽しんでいた。俺が床に崩れ落ちるたび、真っ先に蹴りを入れたのは誰だった?」
「……っ」
「拳で黙らせるのが、お前の役割だったはずだ」
藤島の喉が音を失った。反論しようと口を開くたび、あの夜の光景がフラッシュバックのように蘇る。
血の匂い。骨が砕ける鈍い音。女子たちの笑い声。
そして、自分が笑っていたこと。
悠は静かに続けた。
「俺はあの夜、確かに誓った。生き延びたなら、必ず全員に同じ痛みを返すと」
藤島の顔は赤黒く歪んだ。怒りと恐怖が混ざり合い、声にならない呻きが喉を突き破ろうとしている。
しかし、結束バンドが容赦なく彼の自由を奪い、スタンガンの余韻が筋肉を痙攣させる。
悠は最後に、写真を藤島の顔に突きつけるように押し付けた。
「見ろ。お前が殴ったのは、この俺だ」
沈黙が訪れた。
藤島の瞳孔が開き、やっと理解が追いつく。
「……お前……まさか、納村…悠……」
悠は何も答えない。ただ、その名を否定も肯定もしない。
夜の路地裏に、二人の荒い呼吸だけが響いていた。