第三章・下
松井健太の姿が、夜の街に消えていった。
逃げ出す背中は小刻みに震え、視線は絶えず後ろへと泳ぎ続けていた。まるで自分の影にさえ怯えているかのようだった。悠はその場に立ち尽くし、彼が完全に視界から消えるまで一切の追跡をしなかった。追い込むのではなく、逃げ出させること。恐怖と疑念を、彼自身の口から他の者へと伝えさせることが狙いだった。
松井の足音が遠ざかると、周囲には夏の夜特有の湿気だけが残った。
街路樹の葉が、微かな風に揺れてざわめく。その音は、まるで誰かが集団で忍び笑いを漏らしているかのように聞こえた。悠はふっと目を細め、深く息を吐く。胸の奥にくすぶる熱を、意識的に冷たい呼吸で鎮めた。
――ここからだ。
十分後、二次会会場となっている居酒屋の座敷に、荒々しい声が響いた。
「……本当なんだよ! さっき見たんだ! あいつだ、納村――いや、悠だ! 生きてるんだよ!」
松井健太が酒で赤らんだ顔を青ざめさせ、言葉を吐き散らす。酔いで濁った目に浮かぶのは、ひたすらな恐怖だった。
「落ち着けよ、健太。幻覚でも見たんじゃないか?」
半ば笑うように言ったのは田畑だ。しかしその声は震えていた。
「幻覚なんかじゃねぇ! はっきりこの目で見たんだよ! 俺に近づいてきて……あの時のことを知ってるみたいに……」
言葉が詰まり、松井の喉が鳴る。
場の空気が急速に冷え込んでいく。ジョッキを手にしていた手嶋は、音を立てて机に置き、低い声で吐き捨てた。
「馬鹿言うな……あいつは、終わったはずだろ。藤島が――」
そこまで言って、彼は言葉を飲み込む。場に漂う沈黙が、七年前の記憶をそれぞれの胸に呼び戻していた。
「……もし、本当にあいつだったら?」
佐伯の問いかけに、誰も即答できなかった。笑い飛ばすこともできず、ただ互いの目を避ける。盃の中の酒が、やけに重たく見えた。
悠はその会話を、建物の外からじっと聴いていた。
居酒屋の窓越しに見える彼らの顔は、恐怖と苛立ちが入り交じっていた。想定通りだ。
直接刃を突きつけるよりも、彼ら自身に疑念を膨らませさせる方が効果的だった。人は恐怖によって自らを追い詰め、やがて仲間をも信じられなくなる。
悠は無言のまま、暗がりの中を歩き出した。
アスファルトはまだ熱を帯びている。だが悠の足取りは、迷いも焦りもなく一定だった。
――次は誰に揺さぶりをかけるべきか。
胸の奥で、静かな声が囁く。
復讐は始まったばかり。仲間の間に走る小さな亀裂は、やがて決定的な崩壊へと繋がるだろう。その過程を、自分は一歩引いた位置から見届け、導いていく。
夜空には、雲間から月が顔を覗かせていた。白い光が悠の影を長く伸ばし、黒い路地へと溶かし込む。
その影の先に、次の標的の姿があることを、悠は疑わなかった。