第三章・上
夜の街は、週末らしい熱気を纏っていた。居酒屋から漏れる笑い声と、行き交う車のヘッドライト。だがその賑やかさは、納村悠の胸中には一切届かなかった。
彼の視線はただ一人の男に注がれていた。松井健太。七年前、まだ二人が生きていた頃、教室で「笑いながら」二人を突き落とすように弄んだ小心者だ。いじめの主犯格に比べれば存在感は薄く、いつも人の影に隠れているような男だった。だが、確かに手は血に染まっている。
松井は、二次会の会場を出て一人、路地へとふらついていた。コンビニへ行くのか、あるいは酒を吐きに出ただけか。頬は赤く、背筋は曲がり、目は泳いでいる。
悠は静かにその背を追った。心臓は早鐘のように打っていたが、それを表情に出すことはなかった。彼にとってこの瞬間は、七年越しの「最初の一手」だった。
「……松井」
背後から名を呼ぶ。松井の肩がびくりと震え、ゆっくりと振り返った。酔いが一瞬で醒めるかのように顔色が変わり、その目が見開かれる。
「……お、おま……」
「久しぶりだな」
悠の声は、氷のように冷たかった。表情は淡々としていたが、その奥底には制御不能な怒りと哀しみが潜んでいた。
松井は数歩後ずさり、壁に背をぶつけた。目の焦点が合わず、額からは冷や汗が滲む。
「お前……生きて……」
「そう思っていたのか? 俺が死んでくれた方が、都合がよかったんだろう」
悠が一歩、近づく。松井の喉がごくりと鳴る。
その場の空気が重く、冷たく、まるで街の喧騒さえ遠くに引き剥がされたように感じられた。
「な、なんのことだよ……」
「思い出せ。七年前。川の匂い、湿った夜の風、そして……沈んでいった二人の姿を」
その言葉に、松井の顔から血の気が引いた。酔いではない、純粋な恐怖。瞳が泳ぎ、唇が震え、言葉にならない声が漏れる。
「やめろ……それ以上言うな……!」
悠は追い詰めるようにさらに一歩踏み込む。だが、手を出すことはしない。
殴りたい衝動はあった。今すぐにでも首を絞め、その喉から謝罪とも悲鳴ともつかぬ声を吐かせたかった。
だが――それでは足りない。
「お前が恐れるべき相手は、俺じゃない。これからだ」
悠は冷ややかに言い捨て、目を逸らした。
松井はその隙に逃げ出した。路地を蹴り、転びそうになりながらも必死に走る。その背からは、狼狽と後悔と恐怖が混じった絶叫が漏れていた。
悠は追わなかった。むしろ、それを望んでいた。
――知らせろ。俺が帰ってきたことを。
震えるその声で、仲間たちに伝えろ。地獄の鐘が鳴った、と。
悠は夜の街に立ち尽くし、深く息を吐いた。
七年の間胸の奥に封じ込めてきた「声」が、ようやく世界に響き始めたのだ。