第二章・上
時計の針が二十三時五十九分を指していた。
非常階段の影で、悠は息を潜めていた。手袋をつけた指先に、薄い汗がにじむ。だが心拍は落ち着いている。七年間、この瞬間を待ち続けたのだ。
店の中からは、酒と笑い声が断続的に漏れてくる。佐伯の甲高い笑いと、藤島の乱暴な言葉遣いが混ざって響く。誰かがテーブルを叩き、グラスの氷が鳴った。
壁越しに聞こえる音は、七年前と何ひとつ変わっていない。変わったのは、自分がその輪の外にいるという事実と――その外から手を下す決意だけだ。
腕時計の秒針が、最後のひと目盛りを刻む。
日付が変わった。悠は二十三歳になった。
ポーチから細いワイヤーと、黒い工具を取り出す。非常階段を静かに上り、店の裏口へ向かう。
裏口のドアは、従業員が搬入に使うための簡易ロック式だ。昼間の下見で確認済み。
鍵穴に工具を差し込み、カチリと音を立てて解錠する。中から生温い空気と、油の匂いが流れ出た。
裏口は狭い廊下につながっており、その奥に厨房がある。悠は足音を殺して廊下を進む。
厨房には誰もいない。調理台には使いかけの皿と調味料が並び、奥から客席のざわめきが聞こえる。
冷蔵庫の横に、従業員用のロッカーが並んでいる。その一つに、ポーチの中身を一部だけ隠す。――保険だ。もしこの場から離れる必要があっても、道具はここに残せる。
悠は厨房の影から客席を覗いた。
個室が並ぶ廊下の突き当たり、奥の一室に佐伯たちの姿が見えた。障子風の引き戸が少し開いていて、中で藤島が大声で話しているのがわかる。
その声の向こう、美咲が泣きながら笑っていたあの日の教室が、一瞬脳裏に浮かんだ。すぐに消す。感情は計画の邪魔になる。
悠は廊下を離れ、再び厨房を抜けて裏口へ戻った。
外に出ると、夜の空気がわずかに冷たく感じられた。人通りはほとんどなく、遠くの交差点で信号が変わる音だけが響く。
ビルの脇にある細い路地に入り、悠は懐からスマホを取り出す。
画面には、数時間前に自分が設定したタイマーが表示されていた。「00:45」――四十五分後にアラームが鳴るようになっている。
それは、彼らが酔いのピークを迎える頃合いだ。
油断と昂揚が同時に訪れる瞬間。動きが鈍り、判断力が落ちる時間。
悠は路地の壁にもたれかかり、ポケットから小さな瓶を取り出した。
中身は透明な液体で、ほとんど匂いがない。入手先を知っている人間は、悠以外にはもういない。七年間で唯一、直接的に違法な手段を使ったものだった。
蓋を開け、無色の液体を光にかざす。路地の暗がりの中で、それはかすかに揺れた。
タイマーが鳴るまでは、動かない。
この四十五分間は、心を完全に凪の状態に戻す時間だ。
悠は目を閉じた。耳に入るのは、遠くの喧騒と、時折吹き抜ける夜風の音だけ。
まるで、この街全体が復讐の舞台であることを知らずに、ただ流れ続けているようだった。