第一章・下
同窓会の会場を出てから、悠は駅と反対方向へ歩いた。
湿った夜風が首筋をなぞる。街は金曜の夜らしく、人の流れとネオンの光で満ちている。だが、悠の足取りは周囲の喧騒とは無関係に一定のリズムを刻んでいた。
佐伯たちが向かう二次会の店は、悠が一週間前から何度も下見をしている場所だった。
雑居ビルの四階にある個室居酒屋。エレベーターは一基しかなく、階段はビルの裏手に細い非常口として設けられている。廊下は狭く、照明は暗い。
入口の左右には監視カメラがあるが、死角になる角度も把握済みだ。
悠は、店のある通りから一本外れた路地に入った。薄暗い自販機の脇に腰を下ろし、紙袋から小さなポーチを取り出す。
中には、黒い革手袋と折り畳み式の工具、細いワイヤー、そして小さな瓶に入った液体。どれも数か月前から少しずつ揃えてきたものだ。
今夜、すべてを使うわけではない。
だが、どの状況にも対応できる準備は必要だった。七年間、悠は「不測の事態」という言葉を何百回も頭の中で反芻してきた。計画の穴を塞ぐことだけに、時間を費やしてきたと言っていい。
ポーチを再び紙袋にしまい、悠は路地を抜けた。
遠くで笑い声が近づく。振り返ると、一次会を終えたグループの一部が、肩を組みながら歩いてくるのが見えた。佐伯や藤島の姿はない。まだ別の連中と話しているのだろう。
悠はそのまま別方向に歩き、コンビニに入った。冷たい水を一本だけ買い、店先で口をつける。
水が喉を通る感覚は、妙に現実感を強める。これから何をするのかを、自分の身体に再確認させるようだった。
スマホを取り出し、SNSを開く。
――更新されていた。
広田が一次会の写真を投稿していた。テーブルの皿とグラスが映り、コメントには「これから二次会!」とだけ書かれている。
投稿時間は五分前。
悠は画面を閉じ、動きを早めた。
目的のビルの前に着くと、外から中を覗く。入口の自動ドア越しに、カウンター席と店員の姿が見える。佐伯たちの姿はまだなかった。
悠は表通りから離れ、ビル裏手の非常階段を一段だけ上る。階段脇には金属製の扉があり、鍵穴は錆びついていた。
ポーチから細い工具を取り出し、音を立てないように鍵穴を探る。
カチリ――小さな感触と共に、扉がわずかに開いた。中は狭い配管室のようになっており、そこから非常階段が続いている。
その空間の暗がりに、一時的な隠れ場所を確保する。
ここからなら、二次会に来た連中が階段を使うかどうかもわかるし、終わるまでの動きも追える。
悠はその場に腰を下ろし、腕時計を見た。二十一時半。
今日、二十三歳の誕生日を迎えるまで、あと二時間半。
七年前、海斗と美咲が殺された日から、ちょうど二千五十六日目。数字はもう何度も数え、頭に刻まれている。
思い出すのは、事件の翌日の朝だ。
教室に二人の席がぽっかり空いていて、担任は「家庭の事情で休んでいる」とだけ言った。佐伯たちは何事もなかったように笑っていた。
悠は机の下で拳を握り、声を出さなかった。そのときから、決めていたのだ。
ビルの外から、複数人の足音が聞こえた。
佐伯の声。藤島の笑い声。広田の低い調子。岡部の甲高い冗談。西岡の短い相槌。松井の沈んだ返事。
六人全員の声を、悠は一瞬で識別した。耳が覚えている音だ。七年前と変わらない響き。
彼らがエレベーターに乗る音がして、やがて扉が閉じる。
その瞬間、悠はゆっくりと息を吐いた。
これで位置は確定した。あとは時を待つだけだ。
非常階段の影から、夜の街を見下ろす。
信号の光、ビルの窓に映るテレビの明かり、遠くで響く救急車のサイレン。すべてが、これから起こることとは無関係に回っている。
その無関心さが、悠には心地よかった。
時計の針は、ゆっくりと進む。
日付が変わる頃、悠は動き出す。
二十三歳になった瞬間、二人の分と、自分の分の復讐を始めるために。