第七章・上
重苦しい空気が、個室の壁紙にすら染みついているかのようだった。
藤島が消え、広田の姿も戻らない。松井の精神状態も崩壊しかけている。ふざけ合いで始まったはずの夜は、いつの間にか沈黙と苛立ちの巣窟へと変貌していた。テーブルに残されたグラスの氷が、時折、細い音を立てて崩れる。それがやけに大きく聞こえ、皆の神経を逆撫でした。
「……私、もう無理」
西岡真琴が、ぽつりと呟いた。
真っ赤なネイルの指が、カタカタと震えながらバッグの持ち手を握りしめる。視線は床に釘付けで、上目遣いに誰の同意も求めない。ただ逃げたい一心の声だった。
「待て」佐伯俊哉が低く制する。「外に出れば、余計に狙われる」
「ここにいるほうが危ないの!」真琴は悲鳴のように叫んだ。「次は私かもしれないじゃない!」
場に沈黙が落ちる。
誰も反論できない。全員が、心のどこかで同じ恐怖を抱いていたからだ。
真琴はその隙を突くように立ち上がり、ヒールの音を響かせて個室を出ていった。背中は震え、肩は強張り、勝ち馬に乗ることしか知らなかった彼女の目には、この場に残ることが最も愚かに思えたのだ。
廊下を抜け、階段を駆け下りる。都会の夜気が頬を打ったとき、彼女は深く息を吸い込んだ。
──助かった。そう思った矢先、背筋にひやりとしたものが走る。
「逃げるのか」
闇の隙間から現れた声。冷たく、乾いた響き。
その瞬間、真琴の足が止まった。見慣れた顔──いや、七年の歳月を経て鋭さを増した"彼"の瞳が、街灯の明滅の下で彼女を射抜いていた。
「……なんで……」
声が掠れ、喉が渇く。バッグを握る手が汗で滑った。
悠は一歩、また一歩と近づく。
「覚えてるか。七年前、お前が言った言葉を」
真琴の胸に、嫌な記憶がざわりと蘇る。
──『もっとやっちゃえば? どうせ誰も助けないんだから』
あの夜、泣き叫ぶ海斗と美咲の前で、彼女が無邪気に投げつけた言葉。
「あの動画の中のお前は笑ってた。あいつらが殴られて、血を吐いて……それを“面白い”って。止めるどころか、煽っていた」
悠の声は低く、静かで、それゆえに刃物より鋭く胸に突き刺さった。
真琴は両手で耳を塞いだ。「やめて……! そんなの、覚えてない!」
「覚えてるはずだ。だから逃げたんだろ。ここに残れば、自分の言葉が突きつけられるのが分かっていた」
悠の一歩ごとに、真琴の足は後ずさりする。夜の街灯が彼女の影を細長く引き伸ばし、コンクリートの壁に縫い止めるようだった。
「私……あのときは……ただ、みんなに合わせただけで……!」
「そうだな。お前はいつも勝ち馬に乗ってきた。佐伯の彼女でいれば、強い側にいられると思った。けど、あの日お前が吐いた一言で──海斗と美咲は、地獄に突き落とされたんだ」
真琴の膝が折れた。アスファルトに尻もちをつき、口紅が震えて滲む。
「ごめんなさい……もう、やめて……」
悠は答えず、ただ冷たい眼差しで彼女を見下ろしていた。その視線にさらされるだけで、真琴の心は崩れていく。逃げ道はもう、どこにもなかった。




