第六章・下
彼らを飲み込んだ暗闇の廃ビルに、風の抜ける低い唸りが響いていた。窓ガラスはほとんど割れ落ち、残骸のように残った鉄骨が軋むたび、広田誠は胸の奥を掴まれるような息苦しさを覚えた。
藤島が忽然と姿を消した混乱の中、ただ一人冷静に見えたのは自分だけだと信じ込んでいた。だが、目の前に立つ悠の表情は、それを容易く否定する。
「――あんたが考えてることなんて、全部分かるよ」
悠の声は低く、凍りついた夜気のように広田の鼓膜を刺した。
どんなに頭を回しても、次の一手を先読みされる。逃走経路を探ろうとすれば、悠はその方角を先に塞いで立ちふさがる。助けを呼ぼうと携帯を握れば、圏外の表示を突きつけられる。
「お前が考えてた“策”は、もう全部崩れてるんだよ」
悠が一歩近づくたび、広田は後ずさる。足元に転がるガラス片が砕け、甲高い音を立てた。
「ふざけるな……俺は……俺は違うんだ。佐伯や藤島とは……」
広田の声はかすれ、やがて縋るような響きへと変わる。
「全部あいつらが主導したんだ。俺はただ、従ってただけだ。そうだ、まだ他にもいる。西岡だって岡部だって、松井だって――」
必死の言葉は、まるで水面に縋りつく溺者の泡のようだった。
だが、それを聞く悠の目は冷徹だった。
「そうやって、また誰かを差し出すのか。七年前と同じように」
広田の喉が詰まり、言葉が途切れる。悠の一言が、彼の過去を突き破った。昔、佐伯たちが暴力を振るい、藤島が力で黙らせ、西岡や岡部が笑いながら煽る中、広田は段取りを指示し続けていた。直接手を下すことは少なくても、彼がいなければ被害者を閉じ込める「舞台」そのものは成立しなかった。
「……違う、俺は……ただ、安全な場所にいようと……」
「安全圏なんて、もうどこにもない」
悠の声は静かで、それだけに逃げ場を完全に奪う。広田の背中が壁にぶつかり、逃げ道は尽きた。コンクリートのひんやりとした感覚が彼の背中に伝わる。
「頼む、見逃してくれ……! 俺なら役に立つ、情報だって――他の連中の居場所だって教える! なあ、それで……」
必死の懇願。しかし、その「取引」は、彼が最後に残した薄汚れた策に過ぎなかった。悠は答えなかった。代わりに、右手の工具――錆びた鉄パイプを持ち上げ、冷たく見下ろした。
「――お前の役目は、ここで終わりだ」
振り下ろされた衝撃音が、暗い廃ビルに鈍く響く。広田の身体が力なく崩れ落ち、静寂が戻った。
悠は深く息を吐き、広田の懇願が虚しく消えた空間に目を向ける。彼の耳には、広田が最後に吐き散らした「仲間を売る言葉」だけが、冷たくこだましていた。
それは策士の末路だった。
人を操ることで生き延びてきた男は、恐怖に追い詰められ、自らの舌で自分を切り捨てたのだ。
悠は静かに鉄パイプを床に置き、夜風を受けながら廃ビルを後にした。
次の標的の顔が、闇の中に鮮明に浮かび上がる。
復讐の連鎖は、まだ終わらない。




