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第六章・上

 藤島が二次会の場から忽然と姿を消してから、時間はすでに二時間近く経過していた。酒の席での冗談にしては長すぎる。何者かに支配されつつある不安を誰もが口には出さぬまま、胸の奥に抱いていた。


 佐伯は苛立ちを隠せず、テーブルを指で小突きながら「アイツ、ふざけてんのか」と呟いた。

 だが広田はその横で、黙ったままグラスの氷を転がしていた。視線は動かず、思考だけが鋭く回転していた。


(これは偶然じゃない。藤島の消失も、これまでの不可解な状況も──すべて“彼”の計画の一部だ)


 広告代理店での仕事柄、彼は「物事の裏」を読む癖が染み付いていた。派手に騒ぐ佐伯や怯えきった松井よりも、広田は冷静に全体を俯瞰できる。

 そして、ひとつの答えに行き着く。


(俺たちは監視されている。……いや、誘導されていると言うべきか)


 広田は周囲を見渡した。ネオンの明滅、ざわつく店内。だが、その喧噪のどこかに“見えない眼”が潜んでいる気がした。


 佐伯に悟られぬよう、広田は静かにスマホを取り出した。画面に浮かぶ地図アプリの小さな点を睨む。位置情報を切っていたはずの端末が、なぜか時折ノイズのように震えるのだ。外部に抜ける道がすでに遮断されているのではないか──そんな仮説が脳裏をかすめた。


 彼は小さく息を吸った。

(ならば、俺が打って出るしかない)


 会計を済ませるふりをして、広田は席を立った。

 佐伯が「どこ行く」と声を荒げるが、軽く手を振って「タバコ」とだけ返す。真琴や岡部は不安げに目を泳がせたが、誰も強くは引き留めなかった。


 外に出ると、夜気は思いのほか冷たかった。街路灯が照らす歩道に、広田の影が細長く伸びる。彼は迷うことなく裏通りを選んだ。──この街で最も人通りの少ない道。そして、持ち前の頭脳で鋭く思考をめぐらす。肌寒い風が酒の良いを覚ますのに適していた。


(もし本当に誰かが仕掛けてきているのなら……俺の頭脳で返り討ちにしてやる)


 その自負が、広田の足を速めた。


 だが、角を曲がった瞬間、空気が変わった。

 つい最近建設途中で放棄された廃ビルが、闇の中に口を開けて待っていたのだ。


「……なるほどな」

 広田は自嘲気味に笑った。

 ここまで導かれたことに気づいたからだ。自分が“自ら選んだ”と思った道筋も、すでに敷かれたレールだったのだ。


 背後から、足音。

 振り返らずとも分かる。あの青年──悠が立っている。


「広田誠。君は昔から、計算高い男だった」

 静かな声が夜気に溶けた。

 広田の背筋を冷や汗が伝う。


「……俺をどうする気だ」

「どうするかは、君次第だよ」


 その言葉に、広田の脳裏で無数のシナリオが弾ける。逃げ道、反撃、交渉──。

 だが、すべてを読み切って先回りしているかのような悠の眼差しに、ひとつずつ潰されていく感覚があった。


 廃ビルの口が、彼を飲み込もうとしていた。

 心理戦の幕が、音もなく上がった。


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