プロローグ
川沿いの空気は、昼間の熱をわずかに残しながら、夜の湿り気を孕んでいた。
河原には夏草が揺れ、虫の声が響く。水面には月の光が細く伸び、流れの動きに合わせて形を変えている。
その穏やかな景色の中に、不釣り合いな声が混じっていた。
「おい、まだ動くぞ。もっと押さえろ」
「……やめ、やめて……っ」
海斗の声は、掠れて途切れ途切れだった。顔には殴打の跡が幾筋も走り、片目は腫れで塞がっている。両腕を藤島と佐伯に押さえつけられ、膝から崩れ落ちそうな体を必死に支えていた。
その隣で、美咲が細い息を吐く。唇は血で濡れ、呼吸のたびに小さく胸が震える。腕を縛られたまま、広田に髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられていた。
「まだ意識あるじゃん。ほら、見ろよ」
広田の声は妙に平板で、感情の色を感じさせなかった。
河原の石の上は、打ち捨てられたペットボトルや空き缶、煙草の吸い殻で散らかっている。鼻を刺すような生臭い匂いが漂い、夜風の清涼さを塗り潰していた。
松井はその場に立ち尽くし、視線を泳がせていた。手にはロープの端を持ちながらも、握力が弱く、今にも手放しそうだった。
「もう……やめようよ。これ以上は、本当に……」
「はあ? 何びびってんの」岡部が鼻で笑った。スマホを構え、レンズ越しに二人を映しながら、シャッター音を何度も響かせる。
「こういうの、記念になるでしょ」
その言葉に、西岡が高い笑い声を上げた。「あんたマジでセンスあるわ」
海斗が最後の力を振り絞って佐伯を睨む。その目には恐怖よりも怒りが濃かった。
「お前ら……絶対に許さねえ……」
その言葉に、佐伯の口角がわずかに上がる。「じゃあ、許さなくていいよ。どうせ――」
藤島の拳が、再び海斗の腹にめり込んだ。鈍い音が骨の奥まで響く。海斗の体が折れ、吐しゃ物と血が地面に落ちた。
その瞬間、虫の声が一瞬途絶えたように感じられた。
広田が時計を確認し、「そろそろだ」と呟く。
「面倒になる前に終わらせよう」
海斗と美咲の足首にロープが巻きつけられる。重しとして、近くにあった大きな石が結びつけられた。松井はその作業に加わることを拒んだが、藤島に睨まれ、震える手で結び目を引き締めた。
川はこの町の中では珍しく深みがあり、昼間は子供たちの遊び場になっている場所だ。夜になると人影はなく、水音だけが静かに響く。
今、その流れが二つの命を受け入れようとしていた。
「やだ……やだ……」美咲の声は掠れ、誰に届くこともなく川風に散った。
佐伯が腕を引き、二人を川辺まで引きずる。水面が足元で揺れ、月光が細かく砕ける。
その景色は、美しかった。
水は澄み、岸辺の草は風に揺れ、空には無数の星が瞬いている。
けれど、その美しさが逆に残酷さを際立たせていた。
「さよなら」
佐伯が軽く押すと、二人の体は石の重みと共に川へと沈んだ。
水音が一度だけ高く跳ね、すぐに静寂が戻る。
松井はその場から目を逸らし、肩を震わせた。岡部はなおもスマホを構え、画面越しに水面を追っていた。西岡は腕を組み、「終わった?」とだけ聞いた。
「これでいい。誰にも見られてない」広田が確認し、藤島が深く息を吐く。
佐伯は最後に一度だけ川を見下ろした。流れの奥では、月の光がぼやけ、やがて完全に形を失った。
誰も声をかけないまま、彼らは順に川を背にして歩き出した。
草の間を踏みしめる音と、遠くの犬の吠え声だけが夜の中に響いた。
このとき、悠は自室のベッドで横になっていた。熱と頭痛に耐えながら、布団の中で浅い眠りを繰り返していた。
翌日、二人が「行方不明」になったという知らせを聞くまで、この夜の詳細を知る者は、あの六人だけだった。