83 エピローグ
夏の終わりが、朝の空気にほんのりと滲み出していた。澄みわたる青空にはまだ夏の名残が残るものの、風の中には微かに秋の気配が混ざっている。
今日は始業式。二学期の始まりだ。……にもかかわらず、家の前は朝からやたらにぎやかだった。
「せんぱいっ、準備できましたか? もう待ちくたびれちゃいましたよっ♡」
晴れやかな声とともに、門の前でスキップしているのは――来栖ほたる。蜂蜜色のツインテールが朝日に照らされ、ぴょこんと跳ねるたびにきらめいていた。
「まったく朝からうるさいな……。てか、まだ7時15分だぞ。そんな早く行く必要ないだろ」
「それがいいんじゃないですかっ! 静かな朝に、先輩と二人で、ちょっぴり特別な登校……♡」
言葉の端々がいちいち過剰だ。けれど、そのテンションが戻ってきたこと自体が、やっぱりどこか嬉しくもあった。
靴を履いて外に出ると、ほたるは嬉しそうに僕の隣に並んで歩き出す。
「……で、朝からうちの母親と盛り上がってたみたいだけど」
「うふふ、それはですね~、先輩が私の命を救った感動エピソードをですね! 熱く語らせていただきました!」
「だからその話は未来永劫やめろって。聞いてるこっちが居たたまれないわ……」
「でもでも、事実じゃないですか〜」
「そういう問題じゃないって言ったろ……」
僕がため息をつくと、彼女は屈託なく笑いながらスキップのリズムをさらに弾ませた。
「せんぱい、もっと胸張っていいと思いますっ。私の中では、“命の恩人”ランキングぶっちぎりトップですよ♡」
「ちなみに、そのランキング、他に誰がいんだよ」
「えーと、お財布拾ってくれた駅員さんと、小学校のとき蜂から守ってくれたおじさんと……あと、保健室の先生ですっ!」
「そうか、ランキングトップになっても嬉しくないな」
そんなバカ話をしながら坂道を下りていくと、曲がり角の先に、ふわりと揺れる桃色の髪が見えた。
「おはよう、悠真くん。……来栖さんも、元気そうだね」
花園桜――僕の同級生で、静かながらも柔らかな雰囲気を持つ女の子だ。
「――現れましたね、スイカ泥棒!!」
「……え?」
唐突な非難に、桜がきょとんと瞬きをする。
「え、えぇ……スイカ泥棒ってなに? 泥棒なんてしてないよ、わたし……?」
「してます! あなたは私がするはずだった“先輩とのスイカ割り”という清らかで甘酸っぱい夏の思い出を……強奪したのですっ!」
「やめろ」
僕はほたるの頭を軽く叩く。
「いたっ! せんぱい、ほたるの脳細胞が弁護士連れてきますよ!? 先輩との甘い夜の記憶が吹き飛んだらどうするんですかっ!」
「そんな記憶は元から存在しない。すでにいろいろと飛んでしまったようだな」
桜が、くすっと笑う。
「ふふ、ふたりは相変わらずだね」
「む~~~っ!」
「まったく、なんでおまえは、そんなに花園さんに突っかかるんだよ……」
ほたるを宥めていると、遠くから走ってくる足音が響いた。
「加賀崎くーん、おっはよ〜っ☆ あ、桜ちゃんも発見〜! やっほ〜!」
朝の光を跳ね返すような声とともに現れたのは、ひときわ目立つ女の子――星乃みゆ。全国的に名の知れた“トップモデル”。その明るいオーラは、普通の通学路をステージに変えてしまいそうだった。
「わっ、みゆみゆだ……。すっごく可愛い……っ♡」
星乃さんを見たほたるはすでに目をキラキラと輝かせている。
「え、えっと……そちらの子は?」
「……ああ、こいつは――」
「私は来栖ほたるっていいますっ! 悠真先輩の彼女で〜す♡ 初めましてっ、よろしくお願いしますっ!」
「ふぇっ!? か、彼女って……えっ、えぇぇぇ!?!?」
みゆの顔が見る間に驚愕に染まっていく。
「みゆ。来栖さんの“彼女発言”は、ただの冗談だから」
桜が苦笑まじりにフォローを入れる。
「むーっ! 冗談じゃありません! やっぱり、スイカだけでなく先輩まで強奪するつもりですね!」
「だから、やめろって」
僕は再びほたるの頭を軽く小突く。
みゆは小さく胸をなで下ろすと、控えめに問いかけてきた。
「えっと……ほんとに、付き合ってるってわけじゃないんだよね?」
「ない。こいつはただの後輩」
「そっかぁ……」
みゆが小さく安堵の息をもらしたのを、ほたるは見逃さなかった。そして「……まさか?」と、ほんの一瞬だけ表情を曇らせた。
その微妙な空気を打ち払うかのようなタイミングで、後ろから元気な声が響いた。
「おーい、悠真!」
振り返ると、スポーツ刈りのイケメン――榊智也が、息を弾ませながら走ってきた。
「ーーあっ!? は、花園さん!? お、おはようございますっ!」
花園さんと目が合った瞬間、ピンと背筋が伸びる。
(相変わらずだな……)
「ふふ、おはよう、榊くん」
「おはよっ☆ 榊くんっ!」
「あぁ、星乃さんも、おはよう!」
一通りあいさつが終わったそのあとで、隣にいた、ほたるが「うーん?」と小さく首を傾げた。おそらく、榊が星乃さんに好意を抱いてると思い込んでいたほたるにとって、榊の挙動は、完全に予想外だったのだろう。
「……何を考えているのかはなんとなく想像つくが、余計なことは言うなよ。秘密守ってくれるんだろ?」
僕が小声で釘を刺すと、ほたるはコクンと頷いた。
「……もちろんです。秘密守れるほたるちゃんですから」
いつもの調子だけれど、その目は冗談じゃないことを語っていた。僕は小さく頷いて、歩調を合わせる。
夏の終わり、こうして“仲間たち”と並んで登校できることが、ただただ嬉しかった。
下駄箱の前に差しかかる頃、まだ朝の光が昇りきらない廊下に、ひときわ冷ややかな気配が差し込んできた。
「おはよう、悠真くん」
振り返ると、廊下の向こうに立っていたのは――氷室玲奈。学内では“氷姫”と呼ばれるほど、涼やかで近寄りがたい美貌の持ち主だが、その声は意外なほど、穏やかで落ち着いていた。
「おはよう、玲奈さん」
(あ、しまった――つい、名前で呼んでしまった……)
周囲がぴたりと静まり返る。しかも、近くにいたみんなにそのやりとりを聞かれてしまう。
「えぇぇぇぇ!?!? なんで、なんで氷姫と名前呼びなんですか!?!?」
「落ち着けって、おまえ、声でか――……あー、その……ちょっとした縁が……」
僕がしどろもどろになっている横で、桜とみゆがそれぞれ「え……」と目を丸くし、榊だけがひたすらニヤニヤしている。
玲奈はそんな騒ぎを受け流しつつ、ふとほたるの手元に目をやる。
「あ……」
玲奈の視線が、ほたるの手首に揺れるブレスレットに吸い寄せられる。
「この子が“後輩”なのね……」
玲奈は誰にも届かないように、静かに独り言のように呟いた。その目には、どこか読み取れない光が揺れていた。
「ねぇ、先輩ってば! 知り合いなんですか? 氷室先輩と……」
「い、いや、あの、ちょっと前に……」
みゆは玲奈と悠真の親しげな雰囲気に戸惑い、桜はそんなみゆの様子を気遣うようにちらりと見つめる。榊は相変わらずニヤニヤしていて、ほたるは「説明責任を果たして!」とか騒いでいる。
(はぁ……これは、前途多難な二学期になりそうだ……)
そんなことを思いながらも、新しい日常の始まりを、心のどこかで楽しみにしている自分がいた。
(この先、何が待ってるんだろうな……)
夏が終わり、季節がめくれても。僕たちの“物語”は、ここからまた、賑やかに始まっていく。




