82 エピローグ:扉の向こうにある日常
夏休みが終わって、また日常が戻ってくる。
今日は始業式。二学期の始まりだ。
窓の外から差し込む光はすでに強く、セミの声もやけに張り切っていた。
――なのに、まだ7時前だというのに、どこかやたら賑やかな声がリビングから聞こえてくる。
「それでですねっ、昔ちょっと話しただけの会話も全部覚えてくれたんです!」
「あ〜あの子、昔から記憶力だけはよかったからねぇ」
「中学時代の話とか、SNSの写真の背景とか! 鯉のいる公園とか……もうほんっと探偵みたいで!」
……SNSの写真? 鯉のいる公園?
耳が覚えてるキーワードに、眠気がスッと引いていく。
僕はゆっくりと体を起こし、ぼさぼさの髪をかき上げながら階段を降りた。
まだ完全に覚醒しきっていない頭で、重たい足を引きずってリビングの扉の前に立つ。
手をかけたドアノブの感触が、なぜか新鮮で、
ほんの少しだけ、扉の向こうがまぶしく感じた。
ゆっくりとドアを開ける。
そこには、案の定というべきか――いた。
ダイニングテーブルの一角、朝の光を浴びながら嬉々として紅茶をすする少女。
「しかも合鍵までタイルの下から見つけてくれたんですよ? もう映画のワンシーンですよね!?」
「まぁまぁ……本当に映画みたいじゃないの。ほたるちゃんはヒロインって感じするし。うふふっ」
蜂蜜色のツインテールが、今日もやけに元気よく揺れている。
隣に座る母は、すでに完全に懐柔されていて、あたたかい笑顔を浮かべていた。
「おい……もう夏休み終わったってのに、なんでうちにいるんだよ……」
眠そうな声でぼやくと、ほたるが勢いよく振り向いて、にぱっと笑った。
あの夏の朝に見ることができなかった“満面の元気な笑顔”。
「おはようございますっ、せんぱい♡ 今朝は始業式ですし、一緒に登校するのがいいかと思いましてっ!」
「……せめて事前に連絡くらいしろよ」
と言いながらも、完全には否定できなかった。
こうしてまた、元気な声と笑顔を見られることが――正直、ただただ嬉しかった。
もし、あのとき僕が動かなかったら。
あの声を聞き流していたら。
何もせず家で既読がつかないスマホを眺め続けていたら。
僕はきっと、一生後悔していた。
真夏の後悔。季節が変わっても消えない罪悪感。
そんなものを抱えて、生きることになっていたかもしれない。
だけど今、彼女は。
あの日の出来事を笑って話している。
「先輩って、ほんとに観察力あるっていうか……SNSの写真から部屋の向きまで特定するなんて、正直ちょっと引きました♡」
「おい、やめろ。それ言うと本当にアウトな感じになるから……」
「でも、私の命を救ってくれたことには変わりありませんからっ♡」
僕が思わず頭を抱えると、ほたるはくすくすと笑いながら紅茶を口に運んだ。
それを見て母さんも微笑む。
あの日には考えられなかった、賑やかで、あたたかい朝の風景が、今ここにある。
「ほたる、絶対その話、外ではするなよ? ストーカー扱いされて僕が社会的に死ぬから……」
「え〜〜! もったいないですよ〜っ! 命の恩人の話なのに〜!」
「いや、結果オーライではあったが、状況次第では恩人じゃなく犯罪者になっていてもおかしくなかったんだからな……」
「……でも、ほんとにありがとうございました」
言葉のトーンがふと変わった。
視線を落としていたほたるが、静かに顔を上げる。
「先輩が来てくれてなかったら、私、助からなかったって先生に言われました。
……だから、あの日、先輩が助けに来てくれたのは、私にとって――最高の誕生日プレゼントでした」
そう言った彼女の手首には、見慣れたブレスレットが揺れていた。
誕生日に僕がこっそり用意して、夏祭りで渡せずに終わってしまったあの贈り物。
「……もちろんこっちのプレゼントも、すっごく大事な宝物ですけどねっ」
ほたるはそう言って、手首のそれを小さく揺らしてみせた。
その笑顔は、ただ明るいだけじゃない。
あの涙を超えてきた人にしか浮かべられない、穏やかで深い笑顔だった。
窓の外では、蝉の声が最後の力を振り絞るように鳴いていた。
夏の名残が、まだ少しだけ空に滲んでいる。
今日は始業式。
また、いつもの日常が始まる。
だけど、あの朝を越えて迎える今日は、もう「ただの一日」じゃない。
僕らの中には、あの夏に積み上げた想いが、静かに、確かに根を下ろしていた。
それは、これから続く毎日の中で、ふとした瞬間に顔を出す、小さな灯火みたいなものだった。
靴を履いて、ドアノブに手をかける。
――扉の向こうには、いつもの日常が続いていた。




