81 鍵をかけたまま、笑っていた
――白い天井が、ぼやけた。
まぶたの裏にあった暗闇が、ゆっくりとほどけていく。
まるで夢の続きみたいに、意識がぼんやりしていた。
目を開けたつもりなのに、世界はまだ、もやの中にある。
乾いた空気。鼻にツンとくる匂い。消毒液――
ここは……どこ?
「……あ」
微かに声を漏らすと、すぐに誰かの気配が動いた。
視界の端で、白い制服の女性が小さく息を呑む音がした。
「来栖さん、目が覚めましたね。……わかりますか?」
優しい声だった。
ゆっくりと首を横にふると、あまりのだるさに全身が沈み込んだ。
まるで水の中にでもいるみたいに、重くて、動かない。
「大丈夫、無理に話さなくていいですからね。今、先生呼びます」
バタバタと足音が遠ざかり、その間も、ぼんやりと天井を見つめていた。
明るい光が、妙に冷たくて、現実感がなかった。
でも――少しずつ、思い出してきた。
熱、だるさ、苦しさ。
動けなかったこと。
呼吸が苦しくて、なにも考えられなくて。
――先輩の声。
(あれ……夢じゃ……なかったの?)
やがてドアが開く音がして、スーツの男性と白衣の人が入ってきた。
「来栖さん、わかりますか? 私は主治医の小嶋です」
「……はい……」
かろうじて声になった言葉に、医師が微笑む。
「大丈夫、ちゃんと目覚めましたね。安心しました。
あなた、かなり危ない状態でした。高熱と脱水症状が重なって、意識を失っていたんですよ」
(……あぁ、やっぱり……)
「もう少し処置が遅れていたら、命の保証はできなかったかもしれません。
発見が早かったのと、応急処置がとても的確だったので、回復が早かったんです。
あなた、とても幸運でしたよ」
――命の保証はできなかった。
その言葉が、ゆっくりと胸に沈んでいった。
喉がきゅう、と締めつけられる。
「お友達が、あなたを見つけてくれたんです。
きちんと救急通報して、到着までの処置も落ち着いて対応されてました。
医療関係者のような冷静さで……本当に、驚くほどでしたよ」
「……せんぱい、が……」
やっぱり、来てくれたんだ。
あの声は、幻じゃなかった。
気づいてくれて、助けてくれたんだ。
あのまま、誰にも見つけられなかったら――
私はもう、ここにいなかったかもしれない。
その現実が、怖さよりも、先にじんわりと胸を温めた。
先輩の顔を思い浮かべる。
不器用だけど、真っ直ぐで、いつも放っておけなくて……
でも、誰よりもちゃんと見てくれる人。
コンコン、と小さく控えめなノックの音が響く。
「どうぞ」
先生が静かに返事をし、扉に手をかけて開く。
「では、来栖さん、お大事に」
先生が一歩下がりながら、ちょうどそこに立っていた人に軽く会釈をして道を譲った。
影から現れたその顔を見た瞬間――胸がぎゅっと詰まった。
「……せんぱい」
少し寝ぐせがついた髪。着ている服は少し皺が入っていて、焦ってそのまま駆けつけてきたのがすぐにわかった。
でもその目だけは、真っすぐに私を見つめていた。
何かを確かめるように、一歩、また一歩とベッドに近づいてきて――
目が合ったその瞬間、先輩の顔がふっと歪んだ。
「……よかった……」
小さく、そう呟いて、眉を寄せる。
その目のふちに、光るものが見えた。
一筋、二筋……気づけば、頬に伝っていた。
え、なんで……
なんで、泣いてるの……?
「先輩……どうして、泣くんですか……?」
弱々しくそう聞いた途端、自分の胸の奥が、熱くなる。
喉の奥から、なにかがこみ上げてくる。
それでも笑わなきゃ、って思ってたはずなのに。
「……あれ、なんで……わたしも……」
視界がぼやけて、じんわりと涙がこぼれていくのがわかった。
先輩の顔を見た瞬間、心の奥で何かが決壊したみたいに、止められなかった。
ずっと、泣かないって決めてた。
泣いたら嫌われるって思ってた。
笑ってれば、誰かがそばにいてくれるって思ってた。
でも今、目の前で泣いてるこの人は、
私がどんな顔をしていても、ちゃんと見つけてくれた。
「……先輩に、つられて、泣いちゃっただけです……」
震える声でそう言ってみたけど、自分でも嘘だってわかってた。
つられて泣いたんじゃない。
本当はずっと、泣きたかったんだ。
誰にも見せられなかった涙を、ようやくこぼすことができた。
笑ってなきゃ、置いていかれる気がして、
“元気な私”を演じ続けてきた。
でも今――泣いてる私の隣に、先輩はいてくれる。
何も言わずに、ちゃんと隣で、同じように涙を流してくれてる。
それが、たまらなく嬉しかった。
嬉しくて、悲しくて、安心して、涙が止まらなかった。
ずっと守ってきた笑顔の奥で、本当の私が、ようやく声をあげて泣けた気がした。




