08 ヒミツ
ブックカフェを出た頃には、街灯がオレンジ色の円を歩道に落としていた。店先の看板に灯る電球がまだ温かく、ハーブとコーヒーの名残り香が袖口に漂う。
帰りの道順を確認するためにスマホで地図を拡大していると、ふと胸の内に引っかかる疑問が浮かんだ。十箇条のプランを詰めたけれど――そもそも“好きな人”が誰なのか、僕はまだ知らない。
「ねえ、星乃さん」
歩幅を合わせながら切り出すと、みゆは「ん?」と首を傾ける。
「そういえば、星乃さんの好きな人って誰なのか聞いてもいい?」
カーディガンの袖を直していた手が止まった。夜風が三つ編みの先を揺らし、メガネの奥の瞳がわずかに泳ぐ。
「えっと……」
いつものような元気さがなく、少し真面目な口調だ。
「真面目で、人の話を整理してくれて、距離の取り方が上手っていうか……。あと、理系の話をしてるときにちょっとだけ子どもみたいに楽しそうになる人、かな」
抽象的と言えば抽象的だが、自分とも共通する点があり胸がくすぐったい。
「なるほど。――名前は秘密?」
みゆは視線を歩道のタイルへ落とし、小さく息を吸った。頬がほんのり桃色に染まっていく。
「今は……内緒にさせて。告白がうまくいったら、真っ先に加賀崎くんに報告するね」
声色はほんの少し震えていて、まるで冗談を装った本音の告白のようにも聞こえた。
駅へ続く分かれ道の手前で、立ち止まる。
「今日はありがとう。初デートすごく楽しかった☆」
「こちらこそ。プランの完成度、高かったよ」
「へへっ、次は別の変装で他のスポット行こうね☆」
みゆはカーディガンの袖を揺らしながら後ろ歩きで手を振り、三つ編みのシルエットを夕闇に溶かしていった。
足取りが見えなくなる頃、スマホが震え、スタンプが飛び込む。
星乃みゆ 18:31
今日はありがと(ハートのスタンプ) 次も楽しみにしてる☆
画面いっぱいの豪華ハートに苦笑しつつ、【お疲れさま。また相談待ってる】と返す。
バレない交際をコンサルするはずが、いつの間にか自分が彼女の“秘密”を一つ共有した気分だ。
駅へ続く交差点でみゆの姿が人波に消え、僕が校舎方向へ向き直った――その瞬間、背後から静かな声が届いた。
「か、加賀崎くん」
振り返ると、街灯の影に氷室玲奈が立っていた。制服のまま、黒髪が夜風にそよいでいる。帰宅途中だろうか。
「あれ、氷室さん? どうしたの?」
「あなたが女の子と並んで歩いているのが見えたの。楽しそうだったから声をかけれなくて……」
羞恥でも非難でもない淡いトーン。それでも、どこか探るような含みがある。
「えっと……恋愛相談を受けていたんだ。内容は守秘だから話せないけれど」
正確に、簡潔に。クライアント情報は漏らさない――僕の決めごとだ。
玲奈は小さく頷いた。
「そう。相談が順調なら何より。加賀崎くんはたくさんの人に頼りにされているのね」
それきり特に詮索もせず、トートバッグの持ち手を握り直す。街灯の光が瞳に映り、ほんの一拍だけ何かを確かめるように僕を見た。
「来週の定例、予定通り水曜日でいいかしら」
「うん。放課後、いつもの相談室で」
「ありがとう」
夜風が強まり、落ち葉が歩道を滑る。玲奈は襟元を押さえながら半歩だけ後ろへ退いた。
「……寒いわね。風邪を引かないように」
それだけ言い残し、校舎とは逆方向の住宅街へと歩き出す。黒髪が暗がりへ溶ける前に、スマホの通知が震えた。
氷室玲奈 18:39
来週、楽しみにしているわ。(ウサギのスタンプ)
短い一文と、ウサギのスタンプ。
スクリーンの淡い光を胸ポケットに戻しながら、僕は深く息をついた。冷たい空気が肺に満ちても、鼓動だけは妙に温かかった。