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78 焦る気持ち

スニーカーの紐を結びながら、もう頭は外に向いていた。

玄関を飛び出して、扉が閉まる音も背中で聞き流す。

ただ、心の中で繰り返すのは――


(何事もないといいが……)


道路に出ると、朝の空気が熱を含み始めていた。

セミの声がどこか遠くで鳴いている。

季節は、ただ当たり前のように夏を続けていた。


だけど、僕の足は速まる一方だった。

走るには早すぎるかもしれない。それでも、歩いている場合じゃない。

心のどこかで、「大丈夫だろ」と言いかける声を振り切るように、

交差点の信号を待ちきれず、道を回り込む。


ほたるが連絡をよこさない。

誕生日なのに。

あれだけ楽しみにしてたのに。


スマホを取り出して確認するたび、胸の奥が少しずつ冷えていく。

未読のままのメッセージ。

応答のない通話履歴。

既視感のある画面に、返ってくる言葉はひとつもない。


(本当に……何があった?)


歩道の脇を抜けて、見覚えのある通りに出る。

地図で見た風景が、現実に姿を変えて迫ってくる。

見慣れた公園、池、木陰――その奥に続く住宅街。


曲がり角をひとつ、またひとつ。

視界の先に、白い壁と2階のピンクのカーテンが見えたとき――

心臓が、ドクンと音を立てた。


(……ここだ)


白い壁が陽に照らされ、ややまぶしいくらいに反射している。

小さめの門の奥に、控えめな植え込みと、砂利の敷かれたアプローチ。

門柱には、表札が取り付けられていた。


「……来栖」


その文字を目にした瞬間、胸の奥にあった不確かなものが、はっきりと形を持った。

間違いない。ここが――来栖ほたるの家だ。


(やっぱり……ここだったか)


先ほどまで抱えていた迷いや不安は、すっと引いていく。

代わりにこみ上げてきたのは、緊張と、焦燥。


白い二階建ての家は、整った造りをしていた。

どこか几帳面な印象を受けるその佇まいは、無人の静けさの中で、やけに孤独に見えた。


玄関脇には植木鉢がいくつか並べられていたが、手入れの行き届いた形跡はない。

郵便受けには数枚のチラシが刺さったまま。

生活の気配はあるが、人の声も足音も聞こえてこない。


視線を上げると、2階の西向きの窓――

例のSNSの写真に写っていたのと同じ角度。

そこに、確かに見覚えのある、薄いピンク色のレースカーテンが窓越しに見える。


(あの部屋だ。たぶん、ほたるの……)


スマホを取り出し、再びLINEを開く。

未読のままのメッセージが、変わらずそこにある。


「……ほたる」


もう一度、門の前で息を整える。

心臓の音が、自分の耳の中ではっきりと響いていた。


意を決して、門柱のインターホンに手を伸ばす。

指先がボタンに触れ、ほんの一瞬ためらったのち、ゆっくりと押し込んだ。


――呼び鈴が、静かな住宅街に小さく鳴り響いた。


ピンポーン……。その音が、虚しく家の奥へと吸い込まれていく。


だが、待てども応答はない。

耳をすませても、足音も、気配すら感じられなかった。


もう一度、念のためにインターホン押す。

反応は――やはりない。


玄関のドアノブを握ってみるが、当然のように鍵がかかっている。


(……だよな)


深く息を吐いたその瞬間、ふと記憶がよみがえった。


──「もし、悠真が寝ていたら門の横の植木鉢の下に鍵を置いておくからそれ使ってね」

母さんが以前、うちに来たほたるに対して無頓着に言っていた言葉。


その後の会話も、妙に印象に残っていた。


──『私はドアの下のタイルの下に隠してますよ~。手で引っ張れば取れるけど、絶対に気づかないから安心ですっ♡』


僕はしゃがみこみ、来栖家の玄関前を見下ろす。

きれいに並んだ正方形のタイルたち。

だが、よく見ると――その一角、右端の一枚だけ、わずかに隣と浮きの角度が違う。


(これか……?)


指をかけてそっと持ち上げてみる。

わずかな抵抗ののち、タイルが「カツン」と音を立てて持ち上がった。

その下に、銀色に光る鍵が、ビニールに包まれて埋められていた。


……あった。


でも、手に取った鍵を見つめたまま、僕はすぐには動けなかった。


(いや、これ……もし、家に誰かいたら……)


最悪、ほたるの両親が帰宅していたら?

ほたるが家にいなかったら?


勝手に家を特定、さらに鍵を使って無断で家に侵入――完全に不法侵入だ。

言い逃れができないレベルで犯罪だ。


胸がドクンと脈打つ。


(落ち着け。焦るな。最後に、できることは……)


僕は鍵を握りしめたまま、家の周囲を回ることにした。

玄関の右側へ回り、裏手へと足を進める。

外壁沿いの細道。草が少し伸び、誰も通っていないことが伝わってくる。


裏側にまわったとき、ふと、1階の窓から部屋の様子が見れるのに気づいた。


(昼間なのに……電気がついてる?)


昼間なのに、部屋の明かりがついたまま。

誰かが家にいる可能性が高い。


(やはり、ほたるが家にいるのか?)


念のため、もう一度電話をかける。

スマホを耳に当てながら、再び家の中へと視線をやる。


――そのときだった。

ごくごく微かに、室内から着信音が聞こえた。

かすかに、でも確かに。

どこか遠くで鳴っているような、透明な音。


「……!」


さらに目を凝らすと――見えた。

カーテンの隙間からわずかに覗く、倒れた人影。

床に、うつ伏せのような姿勢で誰かが倒れている。

動かない――まるで、時間が止まったように。


カーテンの隙間から見えたのは、淡いピンクのパジャマ。

それが“ほたる”であることを、疑う余地なんてなかった。


「……ほたるっ!」


考えるより先に、足が動いていた。

玄関に戻り、躊躇うことなく手にした鍵を差し込む。


「頼む……」


小さく回すと、「カチャ」と音を立てて、鍵は回った。

僕はすぐさまドアを押し開け――そのまま家の中へ、駆け込んだ。

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