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74 氷の音と、夏の距離感

蝉の声が耳を打つ、午後二時。


街路樹の陰を抜けて駅から数分、こぢんまりとしたカフェの扉を押すと、冷房のひんやりとした空気が肌に心地よかった。


店内には、控えめな音楽が静かに流れている。

僕は奥の席に腰を下ろし、水を一口。


ほどなくして、ドアベルが鳴った。


ーー氷室玲奈。


白のノースリーブに淡い水色のスカート。

シンプルで涼やかな服装が、彼女の整った顔立ちをより引き立てている。

けれど歩みには、どこかぎこちないものが混じっていた。


「お待たせ、してないかしら?」


「ううん、僕も今来たところ」


席をすすめると、玲奈はそっと腰を下ろした。


「ここのお店、初めてだったけど……いいわね。静かで」


「でしょう? ここ、穴場なんだ。たぶん、夏休みでもそんなに騒がしくならないと思って」


玲奈は頷いて、ふっと微笑む。


「……えぇ、素敵な場所を選んでくれて、ありがとう――悠真くん」


名前を呼んだとき、彼女の目元が少し照れたように揺れた。

そして、氷をストローの奥でカランと転がす。


しん、と空気が落ち着く。

午後の光が、ふたりの間に静かに降りていた。


それは気まずさではなく、言葉を撚り合わせる前の、穏やかな沈黙だった。


「それで、“直接聞きたいこと”って?」


僕が口を開くと、玲奈は一度視線を落とし、ゆっくりと顔を上げた。


「……そうね。“友達”のこと、なんだけど」


「確か、前回は“好きな人と下の名前で呼び合いたい”っていう相談だったよね。

あれから一ヶ月くらい経つけど、どうだった?」


「えぇ、悠真くんのアドバイスのおかげで……名前で呼び合えるようになったって。すごく喜んでたわ」


「そうか、それはよかった」


玲奈は目を細め、静かに頷いた。


「ありがとう。――それでね、今回の相談なんだけど」


声のトーンが少し落ちる。


「最近、夏休みになってから……前より気軽に話しかけづらくなって。

なんとなく、距離ができちゃった気がするの」


ストローの先を見つめながら、氷をゆっくり回す。

その沈黙が、そのまま“距離”を物語っていた。


「学校って、自然と顔を合わせられる場所だったからね。特別なきっかけがなくても、話しかけやすいっていうメリットがあるよね」


「えぇ……そうね。でも今は、夏休みでお互い違う世界にいるみたいで……」


僕は小さく頷き、テーブルのグラスに視線を落とした。


「前にも言ったけど、“自然に会う理由”って恋愛の最初の段階では特に大事だよね。

例えば、勉強の相談とか課題の話題は定番だけど――夏休み中は、メッセージの工夫で繋がるのもアリだと思うよ」


玲奈が、続きを促すようにうなずく。


「たとえば、“共通の興味”を話題にして、そこから“行ってみない?”って誘う。

以前のように展示会のような感じでもいいし、単純にレジャーとして楽しむ映画、期間限定のスイーツなんかも良いんじゃないかな」


「でも、夏休み中だと、なんか距離を感じてしまって……。連絡ひとつ取るのも、ちょっとためらってしまうの」


玲奈がそうつぶやくように言うと、僕は少し考えてから口を開いた。


「うん、わかるよ。会わない時間が長くなると、ほんの一通のメッセージさえ、重く感じることあるよね」


言いながら、僕はテーブルの端に置いたグラスに視線を落とした。


「でも、距離ができたように感じるのって、相手も同じだったりする。

だからこそ、ちょっとした一言や誘いが、思った以上に響いたりするんだよ」


玲奈は静かに頷いた。

その仕草には、少しだけ迷いが混じっていたけれど、同時にほんのわずかな希望の色も見えた。


「実際に、僕もこうして玲奈さんと久しぶりに会えて嬉しいよ。相談相手として頼りにされているって実感もあるしね」


そう言うと、玲奈はほんの少し目を見開いたあと、ふっと小さく笑った。


「……よかった。なんだか、少し安心するわ。

この前までは、メッセージの文面だけ見て悩んじゃってて……。

どう書いたら重くならないかとか、距離感とか。

そういうの、ぐるぐる考えすぎてたから」


氷がひとつ、グラスの中で静かに音を立てた。


玲奈は視線を落としながら、ぽつりとつぶやく。


「……ただ“話したい”って言うだけでいいのにね」


僕はその言葉を反芻するように、軽く息を吐いた。

「話したい」――そのシンプルな気持ちすら、踏み出すには勇気が必要だ。


だからこそ、言葉に頼らなくても伝わる方法を、そっと手渡すように続けた。


「こんな言い方もできる――“ちょっと最近気分が沈みがちで、顔を見て話せたら気が楽になるかも”って」


玲奈の指先が、グラスの縁をなぞっていた。


「……それって、甘えてるみたいに聞こえないかしら?」


「意外と、“信頼されてる”って感じるよ。

もちろん、相手との距離感にもよるけど。

案外、そう言われて嬉しいって人も多いと思う」


玲奈は目を伏せて、ほんの少しだけ微笑んだ。


「そう……じゃあ、“友達”にも、そう伝えてみるわ」


「うん。距離感が近づいているなら、もう少し遊び心があってもいいと思う。

“アイス食べたいから付き合って”とか“夏っぽいことしてないから、ちょっと遊びに行きたい”とか。

むしろ、“用事っぽくない誘い方”の方が、相手も構えずに済むかもしれないし」


「……確かに。そういう自然さって、大事なのかもしれないわね」


ふたり、同時にグラスに口をつけた。

氷がひとつ、静かに音を立てる。


外では、照り返しの強い日差しと、蝉の声。

けれどカフェの中は、それらと無関係に、ゆっくりと時間だけが進んでいた。


会話が一段落したところで、ふたりの間にまた、穏やかな沈黙が落ち着いた。

飲み終えたドリンクの氷が溶けてきたころには、店内の空気も少しずつ午後の柔らかさを帯びはじめている。


「……そろそろ、出ようか」


僕がそう声をかけると、玲奈は小さく頷いた。

グラスをテーブルの端に寄せて、バッグの中を少し整える。


レジで会計を済ませ、ふたり並んでカフェの扉を押すと、外の熱気がすぐに肌を包んだ。

けれど、さっきよりも不思議とその暑さがやわらかく感じた。


「これから、どうするの?」


玲奈が隣で問いかける。


「ちょっとショッピングモールに寄ってから帰ろうかな。後輩の誕生日が近くてさ。プレゼント用意しておいたほうがいいかなと思って……」


そう言うと、玲奈は一瞬だけ何かを迷うように口元を結び、それからおそるおそる言葉を選んだ。


「あの……私も、ついて行ってもいいかしら?」


「もちろん、いいけど。……なにか用事でもあるの?」


「えっ? あ、ううん……そうじゃないんだけど……。ちょっと、見たいお店もあったなって思い出して」


わざとらしくない範囲で、それっぽく笑ってみせる玲奈。

でも、その言い方の奥にある気持ちは、なんとなく伝わってきた。


「じゃあ、一緒に行こうか」


「うん」


そうして僕たちは、駅前の「セントレア・ガーデンモール」へ向かって歩き出した。

ガラス張りの天井と広い吹き抜けが印象的なそのモールは、平日でもほどよく人がいて、夏の午後をすごすにはちょうどいい場所だった。


並んで歩く足取りは、最初よりも、すこしだけ近づいていた。

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