73 真夏の約束
――夏は、ときどき時間が止まったように感じる。
扇風機の首振り音が、ぼんやりした空気をゆっくりと横切っていく。
テーブルの上のアイスは、まるで時間の代わりに流れていくみたいに、静かに汗をかいていた。
窓の外では蝉が鳴いている。
その鳴き声をBGMに、悠真はソファに寝転びながら漫画を片手にページをめくっていた。
そこへ――麦茶の入ったグラスが、すっと差し出される。
「せんぱいっ、お疲れさまです♡」
「……あ、悪い」
視線を横に向けると、ちゃぶ台の向こうで、ほたるがクッションを抱えてちょこんと座っていた。
その目は、なぜかじっとこちらを見つめている。
「……なに。なんか用?」
「いえ。そろそろ、言っておかないとと思いまして」
「言っておかないと?」
ほたるは背筋をぴんと伸ばして、目を真剣な色に変える。
「来週の金曜日。29日。……私、誕生日なんです」
「……ああ。言ってたな。夏休み最後のほうって」
「そうです! だから、その日――ぜったいに、予定空けておいてください!」
妙に圧のある語気に、思わず姿勢を正す。
「お、おう……そんな気合い入れて言うことか?」
「入れますよー! だって、年に一度の誕生日ですから!」
ほたるは抱えていたクッションをぽんっと置き、にこっと笑って言う。
「その日、ちょうど夏祭りがあるんです。出店もいっぱいあって、夜は花火もあがって……。すっごくにぎやかで、わたし、小さい頃から大好きで」
そう言って、彼女はちょっとだけ照れたように目をそらす。
「……毎年ひとりで花火を見てたんです。誰かと行きたいって思っても、家族はいないし、友達と予定が合わないことも多くて。だから今年は、ちゃんと――一緒に見たくて」
言い終えると、彼女は少し不安そうな表情を浮かべた。
「わかったよ、その日は予定を空けておく」
その一言を聞いた瞬間、ほたるの肩が小さく揺れた。
「……絶対ですよ?」
「あぁ、大丈夫だ」
その声を聞いて、ほたるはほっとしたように息を吐き、すとんと座布団の上に戻る。
「ふふ……よかったぁ。
今年の誕生日、わたし、ずっと楽しみにしてるんです。
たぶん……今まででいちばん、わくわくしてるかも」
グラスの中の氷がカランと音を立てた。
「あ、浴衣は、もう買いましたっ♡」
「……準備いいな?」
「ピンクにちょっと藤色が入ってて、帯もレースっぽい柄で……なんていうか、“可愛すぎず、大人っぽすぎず”って感じで、すごく気に入ってるんですっ!」
言ってるうちにテンションが上がってきたのか、ほたるはぴょこんと立ち上がってくるくる回り始める。
「すごく可愛いので期待していてくださいねっ! 早く先輩に見せたいです〜♡」
指をぴしっと立てながら言うその顔は、なんとも得意げだ。
悠真はそれを見ながら、ふとつぶやく。
「……じゃあ俺も、浴衣とか着た方がいいのか?」
「えっ……!? 着てくれるんですか!?」
「いや、別に着たいわけじゃないけど……。せっかくだし、合わせた方がいいかなって」
「それっ、絶対! 絶対にお願いしますっ!」
嬉しそうに前のめりになって、両手を組んだほたるの頬はほんのり染まっていた。
「せんぱいが浴衣着たら……ふふっ、想像しちゃいました……♡」
「へんな想像するな」
「変な想像なんてしてませんもん! かっこいいだろうなって思っただけですもん!」
両手でほっぺたを押さえながら、ほたるはソファの上でくるくると回り続ける。
「うわぁ~、楽しみすぎて……やばいです。毎日、予行練習しないと!」
「予行練習って何の?」
「歩く練習と、写真のポーズと、花火のときのセリフと……あ、あと!」
「もう当日迎えてから考えろよ……」
そう言いながらも、悠真の口元には少しだけ笑みが浮かんでいた。
ほたるはそれに気づいて、またにっこりと笑う。
「早いくらいが、ちょうどいいんですよ~。だって、せんぱいと一緒に過ごす誕生日ですからっ♡」
窓の外では、蝉の声がまだ元気に鳴き続けている。
夏の真ん中、止まりかけたような午後の時間。
扇風機の風が二人の間をふわりと通り抜けていった。
彼女の笑顔は――
真夏の空よりも鮮やかで、胸の奥に、そっと焼きついていった。




