71 スイカまで奪われた
朝の台所には、まだ陽が本格的に昇りきらないうちから、明るく響く声が満ちていた。
「悠真先輩、私を置いて、海! 海に行ったんですよ! ずるいと思いません?」
甲高く弾む声が廊下にまで響き、階段の途中でそれを聞いた悠真は、ひとつため息をつく。
“またか”という、もはや慣れた諦めに近い感情だった。
足をリズムなく踏み下ろして台所に顔を出すと、やはり――というか予想通り、フライパンを片手にした母が楽しげに笑い、横ではほたるがエプロンを握ってぶんぶん振り回していた。
「私、海なんてもう何年も行ってないのに……! なのに先輩ったら……!」
ほたるはふくれっ面で訴えているが、その声には怒りというより、子どものような拗ねた色が混じっていた。
「たしか榊くんと一緒に行ったのよね。 昔から仲いいのよねぇ〜」
母がほたるの肩に手を置きながら楽しげに応じると、ほたるはさらに一歩踏み込み、
「それだけじゃないんですっ! 先輩ったら清楚っぽい女の子と行ったんですっ!」
「まぁ、ほたるちゃん以外にも仲の良い女の子がいたなんて」
「……朝からテンション高いな、おまえら」
ようやく台所に足を踏み入れた悠真がぼそりと呟くと、ほたるは勢いよく振り返って、満面の笑みを浮かべた。
「あ、おはようございます、先輩っ♡」
その様子に、悠真は額に手を当ててうめく。
「お前、人んちの親に何話してんだよ……」
「それより先輩、花園さんといっしょに海に行って、変なことされませんでしたか?」
「されるわけないだろ。お前は花園さんをなんだと思ってるんだ」
麦茶をコップに注ぎ、リビングのソファに腰を下ろす。
グラスに口をつけると、冷たい液体が喉を潤し、ようやく一息つけた気がした。
料理の支度がひと段落したのか、ほたるも隣にやってきて、悠真の横にちょこんと座る。
「そういえば、先輩、みゆみゆと榊さんは、どうでした? どんな雰囲気でしたっ?」
「……どうもなにも、なんもなかったぞ」
「えぇ〜〜〜? そんなの先輩の口から聞いても説得力ありません〜。どーせ、“守秘義務”とか言うんでしょ?」
「いや、そういうんじゃなくて……。実際、榊は星乃さんのこと好きとかじゃないんだって」
「はいはい、クライアントの秘密は話せないですもんね。わかってますよ」
「だから……普通に間違っているんだが……、はぁ、まぁいいわ。前にも言ったけど口外だけはするなよ」
「秘密ガーディアンほたるちゃんにお任せください!」
ほたるは胸に手を当てて、自信満々に言い切る。
「……あぁ、信用してるよ」
「えへへ〜っ♡ 任せてください! わたし、口は堅いんですから!」
(いや、おまえ、朝から母さんにいろいろ喋ってただろ……)
心の中で突っ込みながらも、悠真はもはやそれすら微笑ましく思えてくる自分に気づいていた。
「でもでも、先輩は私とやるはずだったスイカ割り……やっちゃったんですよね? ずるい……もう、もう〜〜〜〜〜〜っ!」
ほたるは頬をぷくっとふくらませて、ぷいっと顔をそらす。
「……なんで知ってんだよ」
「みゆみゆのSNS見ましたっ」
そう言って、ほたるはスマホを取り出し、悔しそうにInstagramの画面を差し出してくる。
そこには、水着姿の星乃さんがスイカに棒を振り下ろす瞬間の写真が並び、「ど真ん中ヒットでした〜☆」というコメントが添えられていた。
(投稿早いな、星乃さん……。投稿されている写真の隅にはチラッと花園さんらしき姿が写ってるけど、僕と榊の姿は見事に写ってない。……炎上対策も完璧か)
悠真はスマホを一瞥して、小さくため息をついた。
「悪かったよ。花園さんがスイカ用意してきてくれてな。本当に用意いいんだよ、あの人」
「むむむむ……また花園さんですか……。まさか、花園さんにスイカまで奪われるなんて……っ!」
「何張り合ってんだよ……。そんなにスイカ食いたかったのか? じゃあ代わりに駅前のパフェ専門店でも行くか? “スイカフェア”の看板見たぞ」
その言葉を聞いた瞬間、ほたるの表情がぱあっと輝く。
「えっ、ほんとに!? わーいっ♡♡♡ 行きます行きます! なにしてるんですか、早く支度してくださいっ!」
「おい、まだ店開いてすらねーっての……気が早ぇな」
「だってだって、先輩とパフェデートですもんっ♡」
ほたるは跳ねるように立ち上がり、動き出す。
「いやいや、待て。行くとは言ったけど、まだ朝メシも食ってねーし……」
「あ!そうそう、今日のウインナーはほたるが焼いたんですよ♡ あ、盛り付け手伝わないとっ」
「……はあ」
悠真はため息をつきながらも、思わず口元をほころばせていた。
息つく間もなく動き回るほたるの姿に、呆れと、ほんの少しの安心が入り混じる。
(まったく……せわしないやつだ)
リビングの窓の外では、蝉の声が絶え間なく鳴いている。
あの騒がしい夏の音が、今日も変わらず世界を照らしていた。
――そして、その中心にいるのは、いつものように、あの賑やかな後輩だった。




