07 お忍びデート シミュレーション
西門を抜ければ、風はすっかり夕方の冷たさだった。住宅街へ続く細道を、僕と星乃みゆは肩が触れない程度の距離で並んで歩く。
二人で昇降口を抜け、裏門へ回る。
夕方の校舎は部活の掛け声だけが遠く響き、人影は少ない。みゆは半歩横に並び、歩幅を合わせてきた。
「この距離、変じゃない?」
「自然だと思う。肩が触れない程度が目立たなくていい」
「へぇ……先生みたい☆」
彼女は微笑み、足取りを弾ませる。やがて校門を抜け、街路樹の並ぶ小道へ。カーディガンの袖が風で揺れ、そのたびに甘いシャンプーの残り香が届いた。
ブックカフェの看板が見える角で、みゆが立ち止まった。
「よし、シミュレーション第一段階クリアかな。次は勉強会デートってことで☆」
モデルスタイルを封印したままでも瞳はきらきらと輝いている。
「了解」
僕が頷くと、みゆはカーディガンの裾を握り直し、木々の向こうに見える小さな建物を指さした。〈Leaf & Latte〉と手書きされた木看板に、ドライリーフのリースが掛かっている。ガラス越しの柔らかなランプの灯りが、淡いオレンジ色で歩道を照らしていた。
入口の真鍮ベルを押し開けると、かすかな鈴の音と同時に焙煎豆とパルファムのような紙の匂いが鼻先をくすぐった。店内はL字型に本棚が並び、文庫から洋書まで背表紙の色がランプの光を受けて艶めく。窓辺にはドライフラワーのガーランド、壁際には古いタイプライターや蓄音機がインテリアとして置かれ、静かなジャズピアノが低く流れている。
カウンター前で立ち止まったみゆは、周囲をぐるりと見渡した。三つ編みの揺れが小さく弾む。
「……素敵。照明もあったかいし、本当に落ち着くね」
変装用の黒縁メガネ越しでも、彼女の可愛さが伝わってくる。モデルとしての姿とは違う、純粋な興味と高揚――それでも声量は抑えめで、周囲への配慮を忘れないあたりはプロらしい。
「奥の窓際、二人席が空いてる。あそこなら通路から死角だから安心だよ」
「あっ、ほんとだ。じゃあ場所取りお願い、私先に頼んでくるね☆」
カウンターへ歩いていく背中を目で追いながら席へ向かう。ヴィンテージの肘掛け椅子にカーディガンが触れる瞬間、カップとソーサーがぶつかる控えめな音が近くのテーブルから聞こえた。店全体が“静かに話して大丈夫”と囁いているようだ。
ほどなくして、トレイを抱えたみゆが戻ってくる。
「私はハーブティー。カモミールとラベンダーがブレンドされてるんだって。加賀崎くんは浅煎りのコーヒーでいいかなと思って頼んじゃったけど……よかったよね?」
「ありがとう、香りも良いね。でも、僕がコーヒー好きって話したことあったっけ?」
みゆは一瞬きょとんとしたあと、メガネの下で視線を右往左往させる。
「え、えっと……うん、なんとなく。勉強会って言えばコーヒーかなって思って」
耳朶がわずかに朱に染まり、三つ編みが肩先で揺れた。
「そっか。実は浅煎りやフルーティーなコーヒーが好きなんだ」
カップを傾けると、赤褐色の液面からベリーのようなフルーティーな香りが立ち上る。浅煎り豆特有の爽やかな酸味が舌に広がり、思わず目を細めた。
「……うん、好みぴったり」
少し慌て気味のみゆに頷いてみせると、彼女は胸をなでおろすように息をついた。
カップを受け皿に戻す彼女の指先が震えないことを確認して、僕もカップを置く。メガネの奥でほっと緩んだ表情がランプの灯りに映え、湯気は金色の輪郭を描いてふわりと空へ融けていった。
「それじゃあ――“勉強会デート”シミュレーション、スタートだね☆」
みゆはそう囁くと、手帳を胸元で開き、眩しそうに笑った。変装のままでも隠しきれない輝きが、カフェの本とランプの間にそっと溶け込んでいった。
「じゃ、ここから“勉強会”開始! 加賀崎くんは参考書役ね」
「参考書?」
「うん。私が質問を投げて、自然に盛り上がる流れを試すんだよ。デートっぽく見えない“勉強っぽさ”を演出するのがポイント☆」
みゆはカーディガンのポケットから手のひらサイズの単語帳を取り出した。表紙には〈生物基礎‐暗記シート〉の文字、ふちが見事に色分けされた付せんで分厚くなっている。
「まず、“DNAの複製”って一言で説明すると?」
「一言か……“半保存的に二倍に増える”」
「半保存的……?」
首をかしげて単語帳を差し出す彼女に「見せて」と身を乗り出す。机の中央で肩と肩のラインが重なるほど近づくが、みゆは臆せず視線をノートに落とした。
「じゃあ、テロメアって何?」
「染色体末端の繰り返し配列。細胞分裂の回数カウンターみたいなものかな」
「カウンター……イメージしやすい!」
そう言って、みゆはメモ欄に〈カウンター◎〉と書き込み、続けざまにページをめくる。
「“セントラルドグマ”を三行で!」
「DNA → RNA → タンパク質、情報は一方向、逆転写だけ例外――はい三行」
「おぉ、早い! 逆転写だけ例外ってポイントだね、メモメモ……」
集中すると少し唇を尖らせる癖があるらしく、その表情が思いのほか真剣で、モデルの顔とリンクしない。
「じゃあ次、オペロン説!」
「大腸菌ラクオペロン。プロモーター・オペレーター・構造遺伝子が……」
手帳に図を描き込みながら説明を付け加えると、みゆは「なるほど」と頬を緩めた。
「やっぱり加賀崎くんに聞くとわかりやすい!」
「教えると自分の復習にもなるし、一石二鳥って感じ」
そう返すと、彼女の口元のラインがふわりとほどけた。一瞬、雑誌で見る“作られた完璧な微笑”ではなく、授業中にわかった瞬間の素の笑顔。ランプの光がメガネのレンズに反射して、ほんの少し頬の赤みを隠しきれずにいる。
「……加賀崎くんって、本当に先生みたいだね」
「先生役も悪くないかも。教える相手が熱心だと、やりがいあるし」
「ふふ、それじゃあ遠慮なく質問攻めにしちゃおうかな☆」
単語帳をめくる手が再び軽快に動き始め、ハーブティーの湯気と浅煎りのコーヒーの香りが混ざり合う。店の奥で流れるジャズピアノが、レッスンのテンポを静かに後押ししていた。
「じゃあ次は“普通の雑談”に切り替えようか。勉強会だけじゃ本物のデート感ないでしょ?☆」
「それもそうだね」
みゆはハーブティーをひと口すすり、湯気を浴びるようにマグを両手で包んだ。
「加賀崎くん、休日は何してるの?」
「図書館で論文を読んだり、科学系のポッドキャストを聴いたりかな」
「うん、すごく、加賀崎くんっぽい☆」みゆは嬉しそうに笑みを浮かべる。
「星乃さんは?」と問い返すと、みゆはマグを揺らしながら「うーん、そうだなぁ」と少し首をかしげた。
「撮影がなければカフェ巡りかな。今日みたいに静かで、写真も撮れるお店、大好きなんだ♪」
「写真はSNS用?」
「ううん。お仕事のときはSNSだけど、オフの日は“自分だけのお気に入りフォルダ”に入れてる。誰にも見せない秘密のコレクション☆」
照れくさそうに笑う横顔が、暗い木壁を背景に柔らかく浮かび上がる。
ミルクポットの銀がランプを反射して瞬き、店の奥からはページをめくる静かな音。ジャズピアノがオスカー・ピーターソンの小粋なフレーズに変わる。自然と会話もスウィングしはじめた。
「加賀崎くん、コーヒーってどこで飲むのが好き?」
「家では市販の深煎りをドリップすることが多いかな。こういうお店で良い豆を味わう方が好きだけど、一緒に来る友達もいなくて、足を運ぶのはたまにだよ」
「そっか。……ねぇ、加賀崎くんのコーヒー、一口だけ飲んでみてもいい?」
「え? あ、うん、どうぞ」
みゆはハーブティーのカップをそっと受け皿に置き、僕のマグを両手で包むと、そのまま口元へ運んだ。浅煎り特有のベリー系アロマがまたたく間に彼女の唇を過ぎていく。
「わっ、ほんとにフルーティー!」
満面の笑みでマグを戻すみゆに、僕は「香りが強すぎないから飲みやすいよ」と言いかけて、ハッと止まる。今、カップの縁には彼女が触れたばかり。――つまり、次に飲めば間接キスだ。
(気にするな。ただのテイスティング)
自分に言い聞かせつつも、耳の裏がわずかに熱い。
「加賀崎くん、私のハーブティーも飲んでみて☆」
言われたとおりハーブティーのカップを手に取り淡い琥珀色の液体をひと口含む。カモミールの柔らかな甘さの奥で、ラベンダーの香りが静かに追いかけてくる。
「花の香りが強すぎなくて飲みやすい。さっきのコーヒーと正反対だけど、落ち着くね」
「でしょ? こういう優しい味、大好きなの♪」
カップを交換しただけの簡単な所作なのに、胸のどこかがくすぐったい。
言葉の端々で笑いがこぼれ、二人の声は店の雑音に溶けていった。気づけばハーブティーは半分以下、コーヒーも湯気が薄れはじめ、ランプだけが変わらず温かな円を描き続けている。
ふと視線を店内へめぐらせると、周囲の客は誰もこちらに注意を払っていない。ノートを開いて談笑する“勉強会風の二人組”としてしか映っていないらしい。
みゆも同じことを感じたのか、胸の前で小さくガッツポーズを作り、囁くように言った。
「作戦、成功だね」
「うん。気づかれる気配、ゼロ」
「……ふふ、初デートはバッチリ☆」
ハーブティーの茶葉がゆらゆら揺れ、ひそかな宣戦布告のように金色の光を返した。