69 距離の測り方
「ふぅー……花園さんのお弁当、美味しすぎて食べすぎたかも」
榊がごろんと仰向けになって、テントの天井をぼんやりと見上げた。その隣では桜が麦茶のペットボトルを口に運びながら、穏やかに笑っている。
「でも、食べ終わったらちょっと眠くなってきたね……」
「確かに。満腹と波の音のコンボ、かなり強い」
「お昼寝ターン入る? それとも何かやる?」
話しながら、みんなそれぞれの姿勢でくつろぎモードに入りつつあった。僕はレジャーシートの上で少しだけ足を伸ばし、背もたれ代わりに折りたたみチェアに寄りかかる。
すると、隣に座っていた星乃さんが、少しだけ身体をこちらに寄せた。
「ねえ、加賀崎くん☆」
「ん?」
「さっきの話、さ」
「さっきのって……恋愛の“観察方法”の話?」
「うん☆ さっそく試してみようかなって」
星乃さんはそう言って、ちらりと視線を向こうへ走らせた。その先には、仰向けになったまま両手を頭の後ろに組んでいる榊と、その隣で笑いながら麦茶を飲んでいる桜の姿がある。
僕もそちらを見やった。
「ふふっ……榊くんって、わかりやすいよね」
星乃さんがぽつりと呟いた。
「まぁ、そうだな……」
「視線の話。本当にそのとおりだね。 勉強会の時もそうだったけど、今日も一日、ずっと桜ちゃんのことばかり見てる」
――たしかに、そうだった。
そして榊が会話の中で名前を呼ぶときは、たいてい「花園さん」だ。言い回しも自然で、照れくさそうな様子もなく、ただまっすぐ。
今も「花園さん、それ取ってくれる?」「花園さんの料理ほんとうまかった」と何気なく繰り返していた。話しかけるときの顔つきも、やたらと笑顔が多い気がする。肩の力が抜けていて、気を張ってない、けど無意識に“距離を詰めたい”って感じがにじんでる。
「うん。名前、めっちゃ呼んでるな」
「表情もわかりやすいし、声のトーンもちょっと柔らかいよね」
「まぁ僕らが知っているから余計そう感じるってのもあると思うけどね」
僕は苦笑しながら頷いた。榊のそれは、隠そうとしていないのか、隠せてないのか――とにかく、わかりやすい。むしろ、ここまでくると花園さんの方がどこまで気づいてるのか気になるくらいだ。
一方で、肝心のその花園さんはというと――
「桜ちゃんは、まんべんなく話しかけるタイプだよね」
「うん。誰か特定の人の名前ばかり呼ぶとか、視線で追っちゃうって感じはしないね」
実際、花園さんは今も榊だけでなく、僕や星乃さんにもごく自然に話しかけていた。「みゆ〜、麦茶足りてる?」とか、「加賀崎くん、日焼け止め塗り直した?」とか。誰にでも平等に接する感じで、あたたかい。たぶん、恋をしているならそれは“まだ芽が出てない段階”なのか、“ここにはいない誰かが好き”なんだろうなと思う。
「……じゃあ、加賀崎くんは?」
「え?」
「誰かについ視線を向けちゃったりしない?」
僕は少し考えて、それから肩をすくめた。
「うーん、僕は……特に好きな人とかいないから。そういうクセ自体、出てないんじゃないかな」
「そうかな?」
星乃さんは僕の横顔をじっと見つめながら、どこか探るように言った。だけど僕は、視線を少しだけ海のほうへずらす。
「でも、そういうのって無意識ででちゃうものだから、もしかしたらなにかクセが出ちゃってるかもね」
星乃さんがこくんと小さくうなずいた。その仕草が妙に真剣で、僕は思わず言葉を継ぐ。
「でも、僕のこと観察して何かわかる? 僕も花園さんと同じで極端な傾向は出てないと思うけど」
「うーん……正直わからない。 私、加賀崎くんが他の女の子と一緒にいるところ見たことないし」
「いや、普段から笑顔の頻度もたぶんフラットだし……視線もそんな偏ってない……はずだよ」
「……はず、って自分で言う?」
「いや、ちょっと自信ないけど……観察されると緊張するな」
思わず笑いながら言うと、星乃さんも「ふふっ」と笑った。その笑い方が、さっきまでより少し砕けていて、なんだか嬉しかった。
「でもさ、ほんとに誰にも気がないの?」
「……なんで?」
「ただの確認。ほら、観察の一環だよ」
「なるほど……。でも、今のところは誰もいないよ」
僕はさらりと答えた。嘘はついていない。
けれど――
今年に入ってから、女の子と深く関わる場面は確かに増えた。氷室さん、ほたる、そして――今、隣にいる星乃さん。彼女たちはあくまで“クライアント”であって、恋愛対象ではない。少なくとも、そう決めている。だからこそ、公平に接するべきだし、線引きはきちんとしておかないといけない。
……なのに。
気がつくと、僕は彼女たちを目で追っていることがある。そのたびに「これは仕事の一環」と自分に言い聞かせてきた。でも――それだけじゃない気がしているのも、事実だ。
また、星乃さんと目が合った。少し照れたように笑って、すぐに視線を逸らす。その一瞬だけで、胸の奥がふわっと温かくなるような感覚があった。
星乃さんが僕の名前を呼ぶとき、どこか柔らかい。声のトーンが、他の誰かに向けるときとは微妙に違うような気がする。頻度も多いし……何より、視線がよく合う。
僕はさっき、「好きな人に向けたサインは意外と出てしまう」と自分で言った。でも、そんなの絶対じゃない。人によって差があるし、本人が気づかないだけかもしれない。
(それでも――)
もしかして。星乃さんが、僕のことを「そういうふうに」見ていたら……なんて。
……やめよう。星乃さんには、好きな人がいるんだ。それに僕は、あくまで“恋愛コンサル”。クライアントに感情を持ち込まない。これは、自分で決めたルールだ。信頼を損なうようなこと、していいはずがない。
なのに。時々、その笑顔に、ちょっとだけ気持ちが揺れる自分がいる。
そのとき、風が吹いた。星乃さんの髪がふわっと揺れ、僕の肩に少しだけ触れる。帽子のつばの影から、まっすぐに僕を見つめる目。
「そっか。……でも、観察はもうちょっと続けるね」
そう言って、彼女はにこっと微笑んだ。その笑顔に、なぜだか一瞬、息が詰まりそうになる。
「えっと、ほどほどにしてね……?」
どこか頼りなく返すと、星乃さんはまた少しだけ肩を寄せてきた。
――午後の太陽が、じんわりと傾きはじめる。潮の音と風の匂いが混じり合いながら、テントの中に流れていた。
ほんの少しだけ近づいた距離を、誰もまだ、はっきりと言葉にはしていなかった。




