67 みんな揃った青空の下で
「くらえっ、ビーチボールアタックッ!」
「おいおい、フェイントかよ! 反則だろそれー!」
「ルールとか存在しないから!」
水しぶきがあがるたび、笑い声が重なった。
僕と榊は足元の波をかき分けながら、ビーチボールを奪い合っている。
海は思ったよりぬるくて、朝の陽射しもちょうどいい。照りつけるというより、背中を押してくれるようなやさしさがあった。
そのすぐ横では、桜がゴーグルをつけて水に潜ったり、顔をあげては大きく息をついたり。
「ねぇ榊くん! 水の中、めっちゃ小魚いたよ〜!」
「マジで? あとで見せて!」
彼女は海と相性がいいようだ。
浮き輪も使わず、波のタイミングを読むように軽やかに泳ぐ姿は、まるで魚みたいだった。
見ていてこっちまで気持ちよくなる。
気づけば僕たち三人は、もう海に夢中になっていた。
太陽の高さと共に、だんだんテンションも上がっていく。
でもふと、砂浜に目をやると、そこだけ空気の色が違って見えた。
日除けテントの下、星乃さんが麦わら帽子を深くかぶって座っていた。
風で少し揺れる髪が、陽に透けて淡い金に近く見える。
その手には、さっき僕が渡した麦茶のボトル。水滴がついたまま、指の先でそっと押さえている。
「悠真ー! ボール!」
「おっと、ごめん!」
榊の声に慌てて体をひねり、逃げたビーチボールを拾って投げ返す。
だけど、どうしても視線はテントの方へと吸い寄せられてしまう。
麦わら帽子の下で静かに微笑む彼女の存在が、さっきから気になって仕方がない。
数分後、息が上がってきたタイミングで、「ちょっと休憩するわ」と言って砂浜に戻った。
そして、星乃さんの隣に腰を下ろす。
冷たい麦茶のボトルを持つ彼女は、僕に気づくと軽く目を細めて笑った。
「……みんな、すっごく楽しそうだね」
「うん。やっぱり海って、テンション上がるよ」
「見てるだけでも、ちょっとだけ気持ちが軽くなる。波の音って、不思議と落ち着くしね」
「わかる。こう、頭の中がスーッとリセットされる感じするね」
「……」
少し間が空いて、星乃さんが唐突に口を開いた。
「そ、そういえば最近、相談できていなかったじゃない?」
「ん? ああ、夏休みに入ってから“定例恋愛コンサル”は一旦休止だったからね。なにか相談?」
「うん……できれば、ちょっとだけ」
「どんな悩み?」
星乃さんは帽子を少しだけ深くかぶり直し、視線を海のほうへ向けた。
そして、ぽつりと。
「え、えぇと……その、好きな人に……好きな人がいるかもしれないの」
僕はちょっとだけ姿勢を直して、彼女の横顔をうかがった。
まっすぐ言葉を選ぶような声。
けれど、どこか頼るようでもあった。
「そっか……。まあ……星乃さんの“その相手”が誰かは知らないから、表面的なアドバイスしかできないけど、いい?」
「うん、それでいいの。むしろ、それがいいの」
その答えに少し不思議なニュアンスを感じたけど、深くは追わなかった。
「前にも言ったけど――星乃さんが“誰かに告白したらOKを出す人”はかなり多いと思う。でも絶対ではないんだよね」
「……うん」
「たとえばさ、星乃さんが今、好きな人いるとして。その人とは別に、仮にだけど……KENJIっているじゃん、あの人気アーティスト」
「うん、知ってる。あの高音やばい人でしょ?」
「そう。そのKENJIに、突然“付き合ってください”って言われたらどうする?」
星乃さんは一瞬目を瞬かせて、それからふっと笑った。
「えぇ、そんなことないと思うけど……でも、仮にそうなっても、断ると思う」
「理由は?」
「……だって、私が好きなのは……」
そこで、言葉がふっと濁った。星乃さんは小さく目線をそらして、麦茶のボトルを握り直す。
「……ううん、なんでもない。とにかく、私は……その人じゃなきゃダメなの」
「うん。今の星乃さんの答えって、めちゃくちゃ大事なんだよ。
KENJIみたいなハイスペックなイケメン相手に告白されても断るってことは、どれだけ魅力的な人でも“本命”には勝てないってことじゃん」
「……たしかに」
「逆もしかり。星乃さんの好きな人に、もし本命の誰かがいるなら――その人だって、たとえハリウッドスターに言い寄られたって、振り向かないかもしれない」
「……そっかぁ。もしかしたら、そういう人がいるのかも……」
星乃さんの声が、少しだけ小さくなった。
けれどその目は真剣で、どこか不安に揺れていた。
「じゃあ、気になるその人に“本命”がいるのかどうか、知りたい?」
「うん! 知りたい。すっごく!」
予想以上に食い気味な返答に、僕はちょっとだけ面食らって笑ってしまった。
「じゃ、じゃあ説明するね。完全じゃないけど、ある程度“その人の気になる人”を探る方法はある」
「え?なに?……もう、もったいぶらないでよ、早く教えて?」
星乃さんは、帽子のつばの奥からまっすぐにこちらを見ていた。
その真剣さに気圧されながらも、僕は海の向こうを見つめながら話し始める。
「たとえば、視線の向きとか、誰といるときに笑顔が多いかとか。さりげないリアクションとかね。あと、自然と名前を出す頻度も結構ヒントになる」
「名前……かぁ」
「そう。“その人の話を出すときだけ、ちょっと声が弾む”とか、“他人の恋愛の話をしてるのに急に黙る”とか、案外わかりやすいものなんだよ」
「……へぇ、思ってたより観察系なんだね」
星乃さんが、どこか冗談めかして言った。けれど、その声はほんの少しだけ揺れていた。
帽子のつばの影に隠れて表情までは読めないけれど、目線はまっすぐ僕を見ていた。
「うん。恋って、自分じゃ隠してるつもりでも、意外と出てるから」
そう返すと、星乃さんは一瞬だけ視線を落とした。
けれどすぐに、何かを噛みしめるように口を結び、また顔を上げた。
ほんのわずかに、だけど確かに――
その表情が変わった気がした。何かがほどけたというか、肩の力が少し抜けたような。
帽子のつばの影から見える瞳が、ふたたび海の方へと向かっていく。
さっきまでただ眺めていただけだった海を、今度は違う目で見ているようだった。
少しだけ明るく、少しだけ決意を含んだ横顔。風が吹いて、髪が揺れる。
そして、ぽつりと。
「うん、まだ大丈夫かも……ちょっとだけ、勇気出たかも」
僕は思わず聞き返す。
「え?」
星乃さんは帽子の下からそっとこっちを見上げた。
その視線は、どこか柔らかくて、でも芯がある。
まるで、自分の中で何か答えが出たあとの人の顔だった。
「私も……ちょっとだけ、泳いでみようかなって。……一緒に行ってくれる?」
その一言に、不意を突かれて言葉を失う。
さっきまで砂の上から見守っていた彼女が、自分から「行く」と言った。
それだけのことなのに、なぜかすごく大きな一歩に見えた。
「もちろん」
僕がそう答えると、星乃さんは静かに立ち上がった。
長袖のラッシュガードのファスナーを少しずつ下ろし、脱いでいく。
その下に現れたのは、シンプルなネイビーのワンピース水着。露出は少ないけど、むしろその控えめさが、彼女の美しさを引き立てていた。
目が釘付けになった僕は、慌てて視線を逸らす。
「……ど、どうかな? 変じゃない?」
「似合ってる、っていうと月並みかもしれないけど……正直、ちょっとドキッとした」
その瞬間、星乃さんの頬がほんのり赤くなったように見えた。
照れたように、でも安心したように、小さな笑みをこぼす。
彼女が波打ち際へ一歩ずつ近づいていく。
足元に白い泡が寄せては引いて、くすぐったそうに足をすくう。
そのたびに星乃さんが少し跳ねて、軽く笑った。
桜が水中から顔を出して、星乃さんの姿を見つける。
「みゆ〜! こっち来て〜!」
「……うんっ☆」
弾んだ声で返事をして、手をぶんぶんと振る星乃さん。
その姿は、さっきまでとはまるで違って見えた。
(……なんか元気になった?)
どこかで緊張していた顔が、今は太陽みたいにまぶしい。
少し冷たい海の水が肌を撫でてくる。だけど、夏の光がそれをすぐに包み込んで、あたたかく変えてくれた。
水しぶきがまた上がる。
榊の笑い声、桜のはしゃぎ声。
そして――
「わっ、冷たっ! ……でも気持ちいい!」
星乃さんの声も、そのなかに混じった。
ああ、よかった。
この空の下、今は“みんな”がそろってる。
そのことだけで、こんなに満たされるなんて、思ってもいなかった。
潮見浜の空は、雲ひとつない完璧な青。
夏の1ページが、きらきらと音を立ててめくられていくようだった。




