66 変わりゆく潮風のなかで
「こっちにテント張ろう!」
桜が先頭で砂浜を歩きながら、振り返った。
朝の潮見浜は、早朝とは思えないほど明るかった。
午前7時半。真夏の太陽はすでにじんわりと熱を帯びて、砂浜を照らしている。
でも、まだ“灼熱”と呼ぶには遠く、海から吹く風がその熱気をやわらげてくれていた。
澄んだ空の向こう、波の音がゆっくりと耳に馴染んでいく。
「いい場所〜! ちょっとだけ奥まってて、でも海も見える!」
「木陰も少しあるしな。ここならテント張りやすいな」
僕と榊が持ってきたレジャーシートと荷物を広げて、
その横で、星乃さんが折りたたみの日除けテントを開いている。
「榊くん、運んでくれてありがとね〜☆」
「荷物持ちなら任せてくれ! で、これ、どっちが前?」
「えっとね、こっちが入口側。そこ引っ張ってくれる?」
「了解」
日除け対策ガチ勢の星乃さんは、大きな帽子・サングラス・長袖ラッシュガードという完璧装備。
指先にまで神経が行き届いてるみたいに、彼女は日焼け止めを丁寧に塗り直していた。
その仕草がなんとなく愛らしくて、笑うというより、目が離せなかった。
「なに?」
「いや……本当にちゃんとしてるなって思って」
「当然でしょ。お仕事なんだよ?」
その一言に、ふふっと笑いをこらえる桜。
「みゆが一番“本気”で海に挑んでる」
「うっ……挑んでるって、別に戦ってないよ!」
「でも日差しに対して敵意を感じるんだよなぁ……」
「……全力で予防してるだけだよ!」
ちょっとだけムキになってるのがまた可愛くて、僕は変な笑いを飲み込んだ。
榊はというと、ビーチボールをふくらませながら、
「そういや、さっき電車降りるときみんなして笑ってたのなんだったんだ?」
「うふふ、榊くん、寝てたでしょ? 電車降りるとき寝癖すごくてみんな笑っちゃったんだよ」
「な!? それは見られたくなかった……」
「え〜、でも可愛かったよ? ほら、ふにゃ〜って寝起きの顔して」
「やめろ、その再現度の高さやめろ……」
「あはは、ごめんごめん」
「笑いながら言ってる人が謝っても全然響かねぇ……」
苦笑しながらも、桜と榊の距離感は安定してて。
あの遊園地のときと違って、今はもう“友達以上”の空気をほんのり感じる。
(……なんか、いいな)
その一方で――星乃さんは。
「……よし、これでOK☆」
テントを張り終えて、砂を軽く払って、
星乃さんは小さく一息ついた。
髪はいつもより少し短く見えて、風に揺れてる。
まぶしそうに目を細めた表情が、なぜかやけに静かで。
「ねぇ加賀崎くん、日焼け止め、もう塗った?」
「え? ああ、まだだ」
「なら、これ貸すよ。SPF50+、PA++++。ちゃんと落ちにくいやつ」
「……ブランド物? 効果も強そうだな」
「最強だよ☆ 海でナメたら一瞬で焼けるからね」
サラサラとした高級感のある感触のボトルを渡され、僕は一応、手の甲に出してみた。
「うわ、冷た……」
「うん、冷蔵庫で冷やしてきた。気持ちいいでしょ?」
「完全に準備万端すぎる……」
笑う僕に、彼女はちょっとだけ照れたように目を逸らした。
「……せっかくの思い出なのに、後で後悔したくないからね」
(その言い方、ちょっとずるいな)
胸の奥が少しだけ、くっと鳴る。
準備がひと段落した頃、ようやく一息つく時間ができた。
「さて……どうする? 先にちょっとだけ海入る?」
「うん、せっかくだし! 最初の“ざぶん”って一番気持ちいいもんね!」
「俺、ビーチボール持ってくわ〜!」
「じゃあ私、ゴーグルあるから水中チェック係やるね」
桜と榊がタッグを組んで、さっそく水際へ走っていく。
その後ろ姿を見送ったあと、ふと隣を見る。
「……星乃さんは?」
「……私は、もうちょっと後で入ろうかな」
「体調?」
「ううん、まだ心の準備が……」
「……こういう場で、水着姿を見せるのってね……やっぱり、すごく“自分”を見られる気がして。ちょっと怖いの」
「モデルの仕事で水着着たりするんじゃないの?」
小さく笑って、でもどこか不安そうで。
「もう、そういうのとは違うんだから……でも加賀崎くんは、そういうの、気にしないよね」
「まぁそりゃ男だしね……でも、“自分で納得したタイミング”が一番いいと思うよ」
その言葉に、星乃さんは目を見開いて、少し黙ったあと――
「……ありがとう」
太陽が高くなってきて、砂の温度もほんのり上がってきた。
潮風が横から吹いて、彼女の髪をやさしくゆらす。
言葉にはしないけど、きっと、今日のこの空気の中で。
少しずつ変わっていけたらいい。
そんなことを思いながら、僕は浜辺の先にいるふたりを追いかけて、
水際へと足を向けた。
波がさらっていく足元の砂と一緒に、何かがほどけていく気がした。
今日という一日が、忘れられない夏の光に染まっていく。
そんな予感を胸に、僕は一歩、海へと踏み出した。




