06 変装とブックカフェ
放課後、旧視聴覚室――僕の相談室のドアをノックしたのは、先日のモデルオーラをすっかり脱ぎ捨てた星乃みゆだった。三つ編みに黒縁メガネ、グレイのカーディガン。控えめな姿は廊下ですれ違っても気づかれないだろう。
「ふふ、どう? 変装モード。これならファンでも気づかないでしょ?」
彼女が得意げにくるりと一回転する。
「うん、そうだね。でも地味にしてても、星乃さんの可愛らしさは十分伝わっちゃうから気をつけて」
言葉が出た瞬間、みゆの頬にじわっと朱が差した。メガネの奥の瞳がぱちぱち瞬き――珍しく照れている。
「そ、そそんなことないよ☆ でも……ありがと」
気まずさをごまかすように、みゆは手帳を開いて切り替えた。カラフルな付せんで埋め尽くされたページの見出しには〈バレないお忍びデート作戦☆〉と可愛らしい文字が踊り、十個のプランが整然と並んでいる。
「ここ、ブックカフェ案。ここは図書館テラス。あと文化祭準備室を利用した放課後作業デート――って感じで十個考えてきたの!」
ずらっと説明を聞き終えると、僕は感心して頷いた。
「すごい。どれも実現性高いし、リスク低いね」
「よかった☆」と弾んだ声をあげた――かと思えば、眉を寄せて手帳を抱きしめた。
「……あのさ、加賀崎くんは彼女が表立ってデートできないのって嫌かな?」
突然の不安げな声音に、思わず身を乗り出す。
「毎回こんなふうに手間かけたり、学校でも公言できなかったり……。そんな付き合い方、加賀崎くんならストレス感じる?」
「僕はまったく気にしないよ」
ゆっくり言葉を選ぶ。「相手がモデルでも、デートが秘密でも。一緒にいる時間を大事にできれば問題ないと思う」
みゆの肩から一気に力が抜け、ホッとした息がこぼれた。
「そ、そう? ……よかったぁ。そう言ってもらえると自信出る☆」
頬の赤は先ほどより濃い。安心と嬉しさが混ざった色だ。
「それでね。最初は放課後にブックカフェを試したいんだけど、口実が勉強会だけだと薄いかな?」
「相手も勉強目的なら自然だけど、動機が弱いと周囲に不審に思われるかも」
「だよね〜。じゃあ、テキスト交換の復習会を名目にすればいい? “授業ノート共有会”みたいな☆」
「それなら実際に教科書を開くから盛り上がりやすいね。まだ恋人になってない状態でいきなり誘うのが不自然なら男女混合のグループ勉強会にした方が誘いやすいし断られにくいと思うよ」
みゆは「なるほど、確かに……」と頷きながら、僕の指差す箇所をサインペンで囲み、◎印をつけていく。行動がモデルの「魅せる」テンポではなく、完全に計画づくりのそれで、逆に新鮮だった。
次に彼女が取り出したのは折りたたんだ路線図と校内地図のコピー。
「社用スマホはGPSのお守り機能あるからロッカーに置いとくとして……移動ログを残さずブックカフェまで行くルートを考えたいの」
「夕方の時間帯なら裏門から出て、コンビニを経由して迂回すれば監視カメラに映る場所が少ないし学生も少なめだよ」
僕は地図にラインを引いていく。
「ただ、治安が悪い……というほどじゃないけど、星乃さんはナンパとかされそうだからその辺りも考慮してルートは考えた方がいいかもね」
みゆの顔がほっと緩む。
「加賀崎くん、ほんと頼りになるね☆」
ひと通りルート線を描き終えると、みゆは「よしっ」と小さく気合いを入れてスマホを取り出した。カメラを構え、地図とプランをパシャリ。
「このルート図とデートプラン、加賀崎くんにも写真送るね!」
そう言って画面をこちらへ向ける。白地に黒いブロックの QRコード が大きく表示されていた。
「はいっ☆」
(星乃さんも氷室さんと同じく、男子とは連絡先を簡単に交換しないタイプだと思っていたけど……。こんなあっさりでいいのかな?)
内心の戸惑いを隠しつつスマホをかざす。読み取り音と同時にトーク画面が開き、交換完了のポップアップが弾けた。その瞬間、みゆの指がほんのわずか震える――本人は平静を装っているが、やはり緊張しているのだろうか。
──ピコン。
間を置かず、ネコが片耳を上げるスタンプが飛んできた。
⭐︎みゆ⭐︎ 17:49
よろしくね☆
“星乃みゆ”のアイコン写真をスマホ越しに見ると、画面の向こうと目の前の彼女が急に地続きになった気がする。
悠真 17:49
こちらこそ、よろしく
送信ボタンを押した直後に既読が付く。0秒。その数字が跳ねるたび胸の奥に小さな鼓動が増幅するのを自覚した。
みゆはスマホをそっとしまうと、三つ編みを指でするする撫でて整え、カーディガンの裾を軽く押さえた。深呼吸ひとつ。
「じゃ、じゃあ今から“ブックカフェ勉強会”のルート試してみよう?」
早口気味の提案に、僕が目を瞬かせる。
「今すぐ? しかも制服のまま?」
「せっかく着替えたんだし、このまま実地テストしたいの。大丈夫、私この姿で学校出入りするの初めてだし☆」
確かに少し野暮ったいメガネに地味なカーディガン姿の彼女なら、一見しただけではモデルの星乃みゆと気づく人は少ないだろう。けれど、当の本人はそわそわと足元で靴先を合わせ、ちらりとこちらを伺っている。
「えっと、デートなのに僕と行くの?」
言葉にすると少し照れくささがこみ上げる。教室の片隅まで届いてきそうな沈黙が、空気を少しだけ冷やした。
「て、テストだから! いきなり本番とか無理だし……」
みゆが首をすくめ、小さな声で続ける。
「それとも、加賀崎くんは私とデートするのはイヤ?」
子犬のようにうるんだ瞳。今にも泣きそうな声色に、慌てて手を振った。
「全然イヤじゃないよ。僕でよければ問題ない」
思ったより強く、はっきり口にしたら、みゆの顔がパッと明るくなった。
「そ、そっか! じゃあ、デート開始だね☆」
夕焼け色の非常扉を開ける。変装中の星乃みゆが満足げに一歩踏み出し、僕はその半歩うしろから歩幅を合わせた。廊下に長く伸びたふたり分の影がゆっくり重なり、やがて昇降口へ向かって伸びていく。次の地点はブックカフェ。テストと称した疑似デートが、本格的に動き始めた。