58 新しい日常
「ただいまです〜♡」
――もはや驚くこともなくなっていた。
その声が玄関から聞こえたとき、僕はソファの上でマンガを片手に振り向いたが、もはや“誰かが勝手に家に入ってきた”という感覚はなかった。
すでに何度目かの来訪だし、この調子なら来週には表札に「来栖」の名前が加わっても不思議じゃない。
今日は母と一緒にスーパーへ買い出しに行っていたらしい。
袋を片手にキッチンへと進むほたるは、玄関で靴を揃えるのもそこそこに、当然のようにエプロンをつけていた。
(……なんで当然のようにうちのキッチンに立ってんだ)
僕が眉をひそめていると、ほたるが振り返り、にこにこと笑った。
「せんぱいっ、お昼ごはんもうすぐできますよっ♡」
「……あ、ありがとう」
「ふふ、今日はですね〜、特製ふわとろオムライスです♡ ケチャップはハート型にしてあげますね!」
「……いや、別に普通でいいけど」
「却下です♡」
「今日のオムライスは自信作ですからね! 楽しみにしていてください♡」
「自信作って……ほとんど母さんが作ってないか?」
母さんはチキンライスを皿に山型に盛り、フライパンでとろとろに焼いた卵を、ナイフで中央から割る。
ふわりと開いた黄色の絹のような表面が、チキンライスを優しく包み込んだ。
「わぁ、お見事」
横でほたるが拍手を送る。
「ふふ、ほたるちゃんと一緒にご飯作るの楽しいわ」
「えへへ〜、私も料理教えてもらえるの嬉しくって♡」
「じゃあ次は、カレーも教えてあげようかしら」
「ぜひっ! あっ! スパイスから煮込んでみたいです〜っ」
僕はテーブルの端に座りながら、その様子を眺めていた。
もはや僕がいなくても会話は成立している。いや、むしろいないほうが円滑なのでは――そんな錯覚すら覚える。
ほたるがふと少し表情を和らげた。
「私、家ではずっとひとりなので……こうしてお話しながら料理教えてもらえるの、すごく楽しいんです」
「……あら」
「うちの両親、今はずっと海外で……私の誕生日も、たぶん連絡すら無いと思いますし」
一瞬だけ、部屋の空気がふっと静まる。
「だから、こうしてごはん作ったり、一緒に買い物したりするのが、ほんとに新鮮で。ちょっと夢みたいなんです」
母はそっと彼女の背に手を置き、優しく微笑んだ。
「ほたるちゃん、これからも、好きなときにうちに来ていいんだからね」
「えっ……本当ですか……?」
「もちろんよ。 あ、もし悠真が寝ていたら門の横の植木鉢の下に鍵を置いておくからそれ使ってね」
「わっ♡ いいんですか!? じゃあその時は先輩を起こしてあげますね〜!」
「いやいやいやいや、ちょっと待って!? 待て、母さん!」
ようやく事の重大さに気づいた僕が叫ぶ。
「母さん、それセキュリティ的にアウトだから! 今どき外に鍵隠すって時代錯誤もいいとこだよ! 空き巣に“どうぞ”って言ってるようなもんだぞ!?」
「大丈夫よ、ほたるちゃんが空き巣に入るわけないじゃない」
「いや、そういう話じゃなくて……もっとこう、防犯的な……」
その横で、ほたるがいたずらっぽく指を立てた。
「私はドアの下のタイルの下に隠してますよ~。手で引っ張れば取れるけど、絶対に気づかないから安心ですっ♡」
「こいつら、セキュリティ意識皆無かよ……!」
「絶対気づかないんですよ? めっちゃ自然に見えるから大丈夫です♡」
「“気づかれない”って聞こえはいいけど、実際それ“気づかれたら終わり”なんだよ!?」
母とほたるが顔を見合わせて、声を上げて笑った。
「……まったく」
僕が呆れながらそうこぼすと、ほたるがトコトコ近寄ってきて、屈託のない笑顔で小声で囁いた。
「先輩にならうちの合鍵を預けても良いですよ?」
「いらん。ていうか、おまえな……」
言いかけた言葉を飲み込む。
もう、なんか疲れた。言ったところで、この子には通じない気がする。
ほたるはにこにこと笑ったまま、くるりと踵を返してキッチンへ戻っていった。
母と並んで楽しそうにエプロンの紐を結び直しながら、何か言って笑っている。
その姿は――まるで、ずっと昔から家族だったかのように自然で、僕の知らない「日常」の一部になりつつあった。
扇風機の音がまわり、窓から射す光が床に淡く伸びている。
いつもの夏。変わらない風景。だけど、その中に、ひとつだけ――新しく加わった気配があった。
非日常だと思っていた存在が、気づけばごく自然に、この部屋の一部になっている。
そんな、ありふれたけどちょっと特別な夏休みの午後だった。




