54 星が砕けても
売店の脇にあるベンチに腰掛けて、私はようやく一息ついた。
プルトップを開けたアイスティーの缶から立ちのぼる、冷えた紅茶の香り。じわっと汗ばんだ喉をくぐって、涼しさが身体をゆっくり落ち着かせてくれる。
「……ふぅ〜〜、生き返る〜」
ひとりごと混じりにそう呟いて、私はスマホを取り出した。ロック画面には、今日撮ったばかりの写真が並んでいる。くるくる回るティーカップで無邪気に笑う桜ちゃん。その隣で照れ笑いを浮かべる榊くん。そして――私と加賀崎くんが、一緒に写ったツーショット。
「ふふっ、いい笑顔してるじゃん……」
ぽつりと小さく笑って、自分のスマホを裏返す。視線の先には、ピンクのスマホケース。可愛いキャラクター《ポポピヨン》の限定イラストが、そこに愛らしくプリントされていた。
気づけば私は、そのスマホを胸にそっと抱きしめていた。
(こんなの……嬉しすぎるよ……)
まるで、心の奥にそっと触れてくれるような贈り物。今だけは、世界のどこよりも幸せな気持ちになれる気がした。
少しだけ立ち上がって、売店の裏手にある手洗い場へ。鏡の前に立つと、私はそっと帽子を取って、ウィッグのチェックを始める。
「……ん〜、やっぱりズレやすいな……」
サイドの髪が少し浮いているのを見て、前髪の根元を指で抑え直す。ピンもきつすぎると痛くなるし、緩すぎると外れそうになる。いつもより長時間つけている今日は、頭皮も少し疲れてきていた。
(でも、これがないと……”私”じゃいられないから)
帽子をかぶり直して、鏡に映る自分に小さく微笑みかける。――うん、大丈夫。変装完了。
「……あっ、結構時間経っちゃった……!」
スマホを確認すると、だいぶ時間が経っていた。みんな、きっと待ってる。
急いで足を返そうと、売店を出た――その瞬間。
ドドドドーン!
「わっ……!」
大音量の音楽とともに、目の前の広場に光が溢れ出した。突如として鳴り響いたブラスバンドとキラキラしたテーマソング。パレードの開始を告げるファンファーレだった。
「……あちゃあ、もう始まっちゃった……?」
すでに観客が通路にぎっしり詰めかけている。ぐんぐん膨らむ人の流れに押されながら、私は足を止めるしかなかった。
パレードがはじまると、園内の空気が一変する。華やかな音楽と眩い照明、色とりどりの衣装をまとったキャストたち――すべてが夢の中のようだ。
その中心で、私はスマホを構えてつぶやいた。
「うわぁ……きれい……」
キラキラした光の粒が、夜空に浮かぶ星みたいに舞い上がる。
歓声と音楽に包まれて、私はまるで夢の世界にいるみたいだった。でも、その中で私はたった一人、静かに立ちすくんでいた。
この瞬間を、残しておきたいと思った。
けれど――
パレードの光は、確かにきれいだった。
まるで夢のなかにいるみたいで、目を閉じれば、そのままどこか遠くへ連れていかれそうで――
でも。
それはあくまで、"みんな"にとっての夢の世界。
私のまわりだけ、ぽっかりと穴が空いたみたいだった。
ひとりぼっちの場所に立って、浮かれた声と笑顔を遠くから見ているような。
何かが、胸の奥で微かに軋んでいた。
「きゃっ……!」
後ろから不意に誰かがぶつかってきて、私はバランスを崩し、手からスマホが滑り落ちた。コンクリートに落ちたスマホが、音を立てて跳ねる。あわてて拾おうとしゃがみこんだ。
「すみません……ちょっと、通してください……!」
けれど、パレードの熱気と人の波のなかで、私の声は掻き消される。周囲は誰一人立ち止まらず、まるで“そんなものは見えない”というように、ただ流れていった。
――パキッ。
耳に刺さるような音が響いた。
目の前で、誰かの足が、私のスマホ――いや、私の宝物を無造作に踏みつけた。
「……えっ……」
私は手を伸ばす。けれど、それより先に目に入ったのは、ヒビの入ったピンク色のケースだった。ついさっき、彼がくれたばかりの――“ポポピヨン”限定コラボカバー。
『これ、星乃さんずっと見てたから。このキャラクタースタンプでもよく使ってるから好きなんだろうなって』
そう言って、軽く笑いながら手渡してくれた。さりげない気配りに、胸がいっぱいになった。
私はそれを、大切なものとしてずっと胸に抱いていたのに。
「……あぁ……いや……」
かすれた声が喉の奥から漏れた。
さらに、横をすり抜けた通行人の鞄が私の帽子に引っかかり、ウィッグが揺れる。手を伸ばしたけれど間に合わず、髪が大きくズレてしまう。
――大切な宝物が壊れた。
――変装の髪も崩れてしまった。
ふいに、胸がぐしゃりと潰れた。
彼にもらったケースが、ひび割れた瞬間、まるで“私の心そのもの”にヒビが入ったみたいだった。
拾おうとしても、誰も気づいてくれない。
誰も私を見てくれない。
陽気なパレードの音も、歓声も、今は全部、遠くに響くだけ。
みんなが夢を見てる中で、私だけが目を覚ましてしまった気分だった。
手を伸ばしても、届かない。
声を出しても、誰にも届かない。
ただ私だけが、この場所に取り残されてしまったみたいで――
あの、誰からも助けてもらえない、冷たい場所のことを思い出す。
なぜか、涙があふれてくる。
でも、もう止まらない。
悲しさも、悔しさも、情けなさも、全部いっしょくたに胸の奥で暴れてる。
どうして私は――
こんなにも、弱いんだろう。
耐えきれず、私はその場でうずくまった。喉が詰まって、声にならない。頬を伝う涙が止まらなくて、まるで子供のように肩を震わせた。
スマホを拾って、みんなの場所に戻るーーそれだけ。
たった、それだけ、でも、それすらできない。
もう、どうしていいか分からなかった。
そんなときだった――。
「……大丈夫?」
聞き慣れた声がして、そっと誰かが私のスマホを拾いあげた。
「……っ!」
気づけば、私の背中に手を添え、片方の手が、静かに、でもしっかりと私の手を引いた。
「こっち。大丈夫、落ち着いて歩こう。ゆっくりでいいから」
肩に触れた腕が、帽子とウィッグをそっと押さえてくれている。何も言わずに、でも確かな力で、人混みから抜け出す道を作ってくれる。
この声、この手の温もり。――あのときと、まったく同じ。
思い出す。まだ中学の頃、変装していた自分に、ただの「地味な女の子」でしかない私を助けてくれた、たったひとりの男の子。
それが、今、目の前にいる彼。
“彼だけが、助けてくれた。”
“彼だけが、私を見てくれた。”
涙がまた、頬を伝う。けれどその涙は、先ほどのような悲しいものではなかった。
やがて、光と音の渦から離れた場所。静かな木陰のベンチへ。
彼はそっと、スマホを私の手に戻してくれた。
「うん、本体は無事だよ。スマホケースは……ヒビ入っちゃったから、新しいの買おうか」
私は首を振って、小さく笑った。
「……ううん、これがいいの」
このケースは、彼からもらったはじめてのプレゼントで。ヒビが入ったときは、胸が張り裂けるほど苦しかった。でも今は、このひび割れが、“助けられた記憶”を封じ込めた宝物みたいに思える。
そっとそのケースを胸元に抱えて、私は顔を上げた。
赤くなった目を、少しだけ細めて、笑ってみせる。
「……あのときも、こんな感じだったよね」
「え? “あのとき”?」
彼はきょとんとした顔で、私を見つめ返す。
私はふるふると首を横に振った。
「……ううん、なんでもないよ。……ありがとう、加賀崎くん」
照れ隠しのように微笑んだその瞬間、パレードの残り火がふたりの後ろできらめいた。
夕闇に沈む遊園地の中――私の中に、ひとつの確信だけが灯っていた。
この人が、ずっと好きだった。
そして今も、変わらずに――。




