05 偶然をデザインする二十分
水曜日の放課後、先週と同じ旧視聴覚室。
扉の向こうで待っていた氷室玲奈は、定刻きっかりに椅子へ腰を下ろした。相変わらず背筋は直線で、表情は温度計の針を持たない。
「今日も時間、ありがとう」
「こちらこそ。――さっそくだけど“友人”の件で追加の相談があるの」
彼女は「友人」の二文字に微細な抑揚も付けず、手帳を開く。
「彼女は好きな人と“偶然”会う頻度を増やしたいらしいの。でも、あからさまに待ち伏せするのは不自然で――」
なるほど、まずは「仲良くなる段階」を深掘りするわけか。ホワイトボードに線を引きながら答える。
「接触ポイントを本人の“行動パターン”に合わせて配置すればいい。たとえば――」
1. 図書室の午後三時台
- 期末前は誰でも利用する。静かでも会話の口実は作れる。
2. 購買~中庭の帰り道
- 昼休みの動線上だから偶然を装いやすい。
3. 自習室の入り口付近
- 席を探す時間は会話が生まれやすい。
「……想像以上に具体的ね」
ペンを止めた氷室がホワイトボードをじっと見つめる。その目にわずかな光が宿り、視線が僕の顔へ戻る。
「もう一つ。偶然会えたとしても、印象に残る会話ができるか不安らしいの」
「会話は最初の十秒で方向性が決まるってデータもある。短くて良いから“共有キーワード”を用意しておくと楽だよ」
「共有キーワード?」
「その場にあるものを褒めるとか。同じ参考書を持っていたら“それ使いやすいよね”と切り出す」
氷室は小さく頷き、手帳に「共有KW:環境×褒め」と書き込む。
この辺りは誰であってもすぐに実践しやすい内容だろう。
「もう一つ聞きたいのだけれど、男子は女子に何を頼まれると嫌じゃないかしら?」
「“授業ノートを見せてほしい”とか“小テストの解き方を聞きたい”くらいなら歓迎されやすい。重いお願いは避けた方が無難かな」
「なるほど。ノートと質問、ね……」
肩のラインがわずかに揺れ、氷室は小さく息を吸い込んだ。ふだん微動だにしない彼女の仕草に、こちらも自然と背筋が伸びる。
「加賀崎くんは、そういうお願いが来たら嫌?」
声は平坦だが、どこか探るような色が混じっている。
「むしろ嬉しい方かも。教えるのは嫌いじゃないから」
そう答えると、氷室の睫毛がわずかに震えた。
しばしの間をおいて、視線を伏せたまま言葉を重ねる。
「じゃあ……もし、私がお願いしたら勉強を教えてくれたりするのかしら?」
黒髪が頬にかかり、淡い夕陽がその輪郭を縁取る。まさか“氷姫”本人から直で勉強を頼まれる日が来るとは。
「勉強を教えるのは自分の理解も深まるし、歓迎だよ」
なるべく平静を装って返事をする。
「じゃ、じゃあ……」氷室が口ごもる。その様子は珍しく、思わずこちらが助け船を出す。
「まぁ、学年主席の氷室さんに教えられることはないと思うけど……」
「……そんなことはないわよ」すぐに否定の言葉が返る。「総合では私のほうが上かもしれないけれど、数学や科学ではあなたのほうが点数いいわよね」
「まぁ、九十八点と百点の差で少しだけどね」
自嘲気味に笑うと、氷室の頬がほんのり熱を帯びたように見えた。
彼女はペン先で手帳の端を軽く叩き、落ち着きを取り戻した声で続ける。
「……で、でも難しい問題は、どうしても解説を読むだけじゃ理解できないの。だから今度、教えてくれる?」
視線の向こうで灰色の瞳がわずかに揺れている。
「ああ、僕でよかったら。気軽に聞いてくれていいよ」
口に出した瞬間、自分の声が少し上ずっていたことに気づき、耳の裏が熱くなる。
「ありがとう、嬉しいわ」
短い言葉ながら、感情のこもった「嬉しい」が静かな部屋に落ちる。真剣に返されただけなのに、胸の奥がくすぐったくなり、僕は手に持ったペンのキャップをいじって誤魔化した。
メモを閉じた氷室が、ホワイトボードに並んだ接触ポイントのリストを見上げる。
「そういえば加賀崎くんは、好きな場所だと説明が長くなるって言ってたわね」
「あぁ、先週そんな話をしたっけ」
「実際、どのくらい長くなるの?」
「星の進化論でも十分以内にまとめる努力はするけど……相手の反応次第では数時間でもいけちゃうよ」
口にした瞬間、氷室がほんのり唇の端を上げた。
「ふふ。楽しみだわ」
淡い冗談――いや、彼女なりのからかい? 頬がわずかに緩んで見えたのは錯覚だろうか。
壁掛け時計は十九分三〇秒。氷室はペンを置き、鞄の口を閉じる。
「……来週も二十分お願いできる?」
「もちろん。水曜日の放課後、またここで」
「助かるわ。……ありがとう」
彼女が去り際に浮かべた笑みに少し驚く。
夕映えの中、灰色の瞳が一瞬だけ温度を帯びる。
扉が閉まった後、ペンのキャップをはめ、胸の奥で訓練された感情の整理手順を起動する。
しかし、なぜ氷室さんはあんなにも僕に対して自然に話してくれるのだろうか。相談を請け負っているとはいえ氷姫と呼ばれる彼女と、先ほどまでの氷室さんは別人のように思えた。