45 名前
放課後の旧視聴覚室ーーつまりDr.Luvの相談室。
ドアを開けると、すでに部屋の奥に彼女の姿があった。
いつも通りの清楚な制服姿。
背筋を伸ばし、膝の上に手を揃えて座る姿は、どこか緊張感すらまとっていて――
でも、その横顔には、前よりも少しだけ柔らかさが宿っている。
「こんにちは、加賀崎くん」
「うん、今日もよろしくね、氷室さん」
そう返すと、彼女はそっと視線を落として、ふわりと微笑んだ。
それだけで、何となく僕の心も和らぐ。
「それで……今日は、どんな相談?」
玲奈は一瞬だけ迷ったような間を置いてから、静かに口を開いた。
「えっと……“友人”の話なんだけど」
彼女はいつも“友人”を主語にして相談を始める。
でもその視線や指先の緊張から、どこか他人事には思えないことがすぐに伝わってくる。
「その子ね、加賀崎くんのアドバイスのおかげで……最近、少しずつ“好きな人”と仲良く話せるようになってきたの」
「それは嬉しいな」
「でも、まだちょっと距離がある気がする、って悩んでて……」
玲奈はそっと息を吐くと、少しだけ口調を落とした。
「それでね……“彼の名前を呼んでみたい”って思うようになったみたいなの。あと、“自分の名前も呼んでもらえたら嬉しい”って」
「なるほど」
「……でも、付き合ってもいないのに、下の名前で呼ぶなんて……早いのかなって」
その言葉に、僕は思わず少し笑みをこぼす。
「たしかに、名前の呼び方って……距離感に直結するから、悩むよね」
「……加賀崎くんは、どう思う?」
玲奈の瞳が、そっと僕を見上げる。
一瞬だけためらいが宿るが、それでも逃げずにまっすぐ見てきた。
「……その友人の話として言うなら、別にいいと思うよ。関係性が自然なら、名前呼びって案外あっさり馴染むものだし」
「そ、そう……よね」
玲奈は少しだけ視線を逸らし、膝の上で手を重ね直した。
どこか言いにくそうに、でも言いたげに――しばらくの沈黙。
「……じゃあ、加賀崎くんは……」
ぽつりと漏れた声は、今まででいちばん小さくて、でも確かに届いた。
「もし……私に下の名前で呼ばれたら……どう思う?」
僕は、その問いに一瞬だけ言葉を飲み込む。
でも、嘘はつけないから、正直に答えた。
「……嬉しいと思うよ。悠真って呼ばれたら」
玲奈の肩が、ぴくんと小さく震える。
僕は、続けた。
「ただ……氷室さんの場合は、もし男子生徒の下の名前呼んだりしたら校内ニュースになるかもだけど」
「えっ……!?」
玲奈は目を見開く。
視線を逸らして、ぷいと横を向いたまま、唇を少し尖らせた。
「……じゃ、じゃあ、“二人きりのときだけ”とか、条件つきなら……どう、かなって」
小さな声だったけれど、その言葉はちゃんと、まっすぐだった。
僕はその照れ隠しに、少しだけ笑って返す。
「じゃあ、今ここにはふたりだけだし……練習してみる?」
「――~~~……!」
玲奈は、言葉にならない声を喉の奥でくぐもらせて、目をぱちぱちさせた。
「……っ、……ゆ……」
その口元は、小さく震えていた。
「……ゆう、ま……くん……」
かろうじて掠れるような声でそう言ったあと、彼女は顔を伏せて、肩まで真っ赤になってしまった。
「……言った、から……」
まるで罰を受けたかのような小声で、呟く。
僕は思わず、優しく微笑んだ。
「うん。ありがとうーー玲奈さん」
彼女の指先がぴくりと動く。
そして、そっと、微笑みが浮かんだ。
ふたりで顔を赤くしたまま、旧視聴覚室の空気はどこか甘くて気恥ずかしい余韻に満ちていた。
お互いにどこを見ていいかわからなくなって、しばらく意味もなく机の端を撫でたり、ノートをめくったり。
僕はなるべく自然な顔を装っていたけど――
正直、心臓の鼓動がうるさいくらいだった。
(まさか氷姫に“悠真くん”って呼ばれる日が来るなんてな……)
そんなことを考えていた矢先、玲奈がそっと息を吸って、口を開いた。
「……そろそろ、時間ね」
時計をちらりと見て、彼女が小さく微笑む。
いつものクールな表情じゃない、少し照れたような、でも穏やかな笑顔だった。
「……あの、加賀崎くん」
「うん?」
玲奈は一瞬だけ視線を落としたあと、迷いを振り払うように顔を上げた。
「……その、今日の練習……」
「うん」
「……これからも、続けてもいいかしら」
少しだけ震える声だった。
でも、その目はまっすぐで、僕に“ちゃんと尋ねている”まなざしだった。
僕は、静かに頷いた。
「もちろん。僕でよければ、いくらでも」
その言葉に、玲奈の肩がふっと和らいだように見えた。
「……ありがとう」
そっと手帳を閉じて、立ち上がる。
その仕草は、最初の頃よりもどこか軽やかだった。
「じゃあ、また来週……よろしくね、“悠真くん”」
それは、まだ少しぎこちなくて、少し照れていて。
でも確かに――心からの言葉だった。
「……うん。また来週、“玲奈さん”」
ドアが閉まる直前、ふと彼女が振り返って、
ほんの少しだけ笑って、静かに手を振った。
僕の胸には、熱のような余韻が静かに灯っていた。




