30 ツインテールは止まらない
朝のHR前。プリントを配り終えた拍子にふと黒板側へ視線を移すと、斜め二列前――氷室玲奈と目が合った。
一瞬だけ、灰色の瞳が揺れる。次の瞬間、玲奈は小さく息を呑んだようにまつ毛を震わせ、頬を淡く染めてそっと視線を逸らした。
(……やっぱり避けられてるのかなぁ)
胸の奥にひゅっと小さな隙間風が吹く。それでも僕は深くは追わない。「クライアント以上、友達未満」という間合いを崩すのは得策じゃない――そう自分に言い聞かせた。
チャイムが鳴り終わるやいなや、相談室のドアが元気よく開く。
「せ・ん・ぱ・いっ♡」
ほたるだ。ツインテールが揺れ、腰巻きカーディガンのリボンが跳ねる。今日は白ブラウスに紺のミディスカート――“清楚系トライアル ver.3”らしい。
「お、今日はだいぶ大人しい色味じゃないか」
「でしょでしょ? “清楚ほたる”第三段♡」
くるりとターンして見せるが、足元は真っ赤なハイカットスニーカー。早速ツッコミどころを提供してくれる。
「……靴、派手すぎないか?」
「えへへ、そこは“ほたる成分”の残り香♡ 全部抑えちゃったら誰かわかんないでしょ?」
たしかに。思わず苦笑しつつ椅子を勧めると、ほたるは腰掛けずに背筋を伸ばし、両手をスカートの前で重ねた。
「まずは“姿勢と所作”チェックお願いしますっ!」
「了解。じゃあ歩いてみ」
廊下をウォーキングモデルよろしく3歩進んでターン――までは良かったが、勢い余ってツインテールがブンと広がり、髪ゴムがぽーんと弾けて飛んだ。
「きゃっ!?」
転がるゴムをキャッチして差し出す。
「動作はゆっくり、って昨日言ったろ。ヘアアクセが逃げる速度は清楚じゃない」
「むむむ……清楚むずかし〜。でもめげないっ♡」
髪をまとめ直す手つきは相変わらず器用で、くるんと整ったらまた満面の笑み。こちらの注意もどこ吹く風だ。
「次。声のトーン三割減、試してみよう」
「こ、こんにちは……先輩……♡」
吐息混じりの――というよりは蚊の鳴くような声。しかも“♡”の語尾だけしっかり聞こえるという器用さ。
「小さすぎ。語尾でハート飛ばすの禁止」
「えぇー!? ほたるのアイデンティティがぁ!」
「清楚系とアイデンティティ、どっち取る?」
「……清楚系……♡」
仕方なさそうに答えるが、最後のハートは外さない。ここまで来ると感心するほかない。
バッグからメイクポーチを取り出して「清楚系に合うリップ選んだ♡」と見せてくる。
淡いピンクベージュ――悪くない。だがポーチの奥にはビビッドオレンジとグリッターグロスが詰まっているのを僕は見逃さない。
「……現場で色替えする気満々だな?」
「ば、ばれた?」
「清楚は継続しないと意味ないぞ」
「3分だけ清楚モード♡ 残りは元気ほたる♡ ハイブリッドだよ!」
「ウルトラマンか」
談笑していると、廊下からバッシュの音。榊が顔を出す。
「悠真、ちょっといいか?……あ、すまん、相談中だったか」
「榊先輩、こんにちは♡」と腰を折って上品にお辞儀
「おぉ、一年の来栖か、清楚系にイメチェンか? 案外似合ってるな!」
「えぇ、先輩にご指導いただきましたから♡」
「ちょいと話したいことがあったんだが、また今度でいいや。邪魔したな」
榊はすぐに扉を締めて出ていった。
清楚モードで上品にしていたのもつかの間、榊が去るや否やほたるは椅子をくるくる回転させながら「どうどう、先輩っ☆」と戻ってくる。持続時間、約20秒。
「清楚モード、短けぇ!」
「見逃して♡」
「で、今日は実質“雑談デー”か」
「うんっ♡ 先輩としゃべるだけで清楚ゲージ上がるんですよ」
「ゲージ制なのか……。まぁストレス溜めないでやる方が長続きするけどな」
ホワイトボードに《清楚度:45%》と書くと、ほたるが「えーっ、低すぎっ!」と頬を膨らませた。
「ここから伸びしろだろ?」
「伸びしろ……それ、好き♡」
にぱっと笑って、ミントキャンディを二粒差し出してくる。
「ねぇ先輩、ミントじゃなくて今度は甘いやつも置いといてっていつも言ってるじゃないですか」
「ほたるが静かに“清楚モード”を10分キープできたら考えよう」
「えっ、10分!? ハードモード!」
「さっき20秒だったからな」
「うぐ……が、がんばる! 10分黙って微笑みますっ!」
そう宣言して背筋を伸ばし、口元にほんのり笑みを浮かべる。一秒、二秒――
五秒目で「せんぱい♡ タイマー入れて!」と破綻。僕は思わず噴き出す。
「先輩のせいだもん!」
「はいはい。まずは一分から練習するか」
ミントの清涼感と、ほたるの止めどない元気。室内には終始笑いが絶えなかった。
氷室さんに避けられたことで曇りかけていた胸の奥が、軽くなる。
10分キープは――まだ遠い目標だ。
でも、ほたるが「せんぱいと一緒にいられる時間♡」と呼ぶこのひとときが、確かに僕の世界にも彩りを加えている。
そう気づいた瞬間、ホワイトボードに書いた “45%” の数字を、そっと “47%” に書き換えた。




