29 偶然の隣、計画のうち
午後の授業が終わると同時に、僕は教科書を鞄に押し込み、素早く昇降口を抜けた。
速歩きで帰宅し、シャツを脱ぎ、髪を整え、私服に着替える。
着替えながら何度も時計を見て、スマホで予約画面を確認して――
「うん、ただの相談の延長だ、シミュレーションだからね……」
上映開始20分前。僕は最寄りの映画館前に着いた。
ロビーに入ると、冷房の風が薄いポップコーンの匂いを運んでくる。
チケットアプリを開き、スクリーン番号と座席を確認。
右端のH-17番、すぐ隣のH-16は“誰か”がすでに予約済み。――もちろん、偶然じゃない。
スマホに表示されたLINEのトーク画面に、星乃みゆとのやりとりが残っている。
☆みゆ☆ 15:02
H列の端から2席並びでとれたよ☆ あとは…お楽しみ☆
悠真 15:03
入場時間は15分前で合わせよう。ロビーで見かけてもスルーで
☆みゆ☆ 15:03
了解、知らない人ムーブ徹底しまーす☆
同じ映画をあらかじめWeb予約で隣同士の席を確保。
ただし、入場は別々。あくまで“偶然隣になった”という体で、上映中にだけ、そっと距離を近づけていく。
目的はただ一つ。
「人に知られずデートを成立させる」
モデル業との両立のために、恋人がいることを誰にも知られてはならない。だけどデートがしたい。
それを実現するための秘密のデート案の一つ。昨日の恋愛相談のときに出た星乃さんのアイディアだ。
とはいえ、今日は実際のデートではなく――“秘密のデート”のリハーサル。
星乃さんから受け取った発券コードを提示して入場ゲートを抜け、スクリーン8の入り口で係員にチケットを提示し、暗い通路を進む。
中は既に7割ほどの客が入っているようだ。そして、右端の席へ目をやると……いた。
シートに座っている女の子――
グレージュのニットワンピに、ライトブラウンのウェーブロング。
小ぶりなピアスがきらりと揺れ、爪先はグロス仕上げ。
そのどこか垢抜けた雰囲気に、最初は一瞬ためらいかけたが……目が合った瞬間、彼女は小さく笑った。
“星乃みゆ”だった。
ただし、“ギャル風”の星乃みゆ。
ローファーではなく厚底のレースアップ。
肩からかけたトートには、大ぶりのチャームとキャラクターのラバーストラップ。
マスクを外したその横顔は、昼休みに見かけるみゆとはまるで別人。
隣に座ると、彼女はまったく目を合わせず、まるで本当に“知らない他人”のようにスマホをいじっていた。
……徹底してるな、と思う。
上映まであと数分。僕も鞄から静かにペットボトルを取り出し、目の前のスクリーンをぼんやり見つめた。
やがて、照明が落ちる。
シアターに静寂が落ちると同時に、
――肘掛けの上で、そっと、彼女の指先が重なってきた。
少し震えていた。
でも、それでも離れずに、彼女はそのまま静かに手を預けてくる。
マニキュアの端が当たり、香水とは違う、柔らかなハンドクリームの香りが微かに届いた。
あくまで“偶然、隣に座っただけ”。
でも、知っている。
この手を繋ぐことが、彼女にとってどれだけ勇気のいることだったか。
まばゆい予告編が流れ、スクリーンが銀色に輝き始める。
やがて、音楽とともに物語が動き出す。
――“偶然の隣”。
でもその偶然は、誰よりも綿密に準備された恋のシナリオだった。
映画が始まってからしばらく、ふたりの手は触れたままだった。
汗ばんでもいないのに、彼女の手のひらはほんのり温かくて、時折、指先だけそっと力が入る。
画面の動きに反応してるのか、それとも――僕の反応を探ってるのか……。
映画が終わり、エンドロールが流れ出すと、彼女の手は静かに離れていった。
席を立つタイミングも、あくまで自然を装うように。
僕は少し遅れて出口に向かい、ロビーに出た頃には彼女の姿はすでになかった。
一瞬、あれだけの“偶然”が夢だったような気さえする。
……が、スマホが振動した。
☆みゆ☆ 19:43
映画どうだった?
私は……なんか、ちょっと泣きそうになった。
そのメッセージを読んで、ようやく現実に引き戻される。
今のこれは、確かに“計画された偶然”だったんだと。
悠真 19:44
わかる。あのヒロインのセリフ、ちょっとグッときた
数秒後、既読がつき、すぐに返事が来た。
☆みゆ☆ 19:45
うん……「ちゃんと手を握ってくれる人が、私の味方だった」ってやつでしょ?
私も、すごく好きなセリフ☆
僕はふとその言葉をスクリーンショットにして、画像フォルダに保存した。
恋愛相談――のはずなのに、なぜかこの一行が妙に胸に残る。
再びスマホが震える。
☆みゆ☆ 19:46
今日のこと、また“相談レポ”にまとめて提出するね☆
あとで送るからチェックよろしく〜(ニコニコスタンプ)
仕事としての恋愛コンサル。
でも、“コンサル”という距離感ではないよな……なんて感じ始めてきている。
☆みゆ☆ 19:48
今日はありがとね!
あまりデートっぽくないからどうかなって思ったけど、ドキドキしてすごく良かった
その一文だけで、鼓動が軽く跳ねた。
指先がスマホの上をなぞる。返信を打とうとして、一度消し、また書き直す。
悠真 19:49
僕も、ちょっとドキドキしたよ。
ああいう“偶然”って、なんだかリアルだったね。
すぐに既読がついて、「ふふっ☆」という声が聞こえてきそうなタイミングでスタンプが返ってくる。
猫がくるんと丸まって、尻尾でハートを描いているやつ。
僕の親指がスマホのホームボタンを押すまで、わずか数秒。
けれどその間に、ほんの少し、胸の奥の境界線が曖昧になった気がする。
星乃みゆは“クライアント”だ。
そう、デートじゃなくて“シミュレーション”。あくまでコンサルの一環で、相談に応じただけ。
勘違いしないように気をつけなくては。




