25 屋上
放課後のチャイムが鳴ってから十分ほど経った頃。
屋上の扉をくぐると、まだ風の冷たい初夏の空気が、肌を撫でた。
僕と玲奈は、ほとんど言葉を交わさず屋上へ向かった。
鉄柵越しに見える空は澄み渡っていて、夕焼けの前の透明な青が広がっている。
やがて、足音がもう一つ加わる。
ドアの向こうから現れたのは、演劇部の桐生皐月だった。
腕にはいつも通り衣装袋を抱えている。
玲奈の顔を見ると、少し驚いたように目を丸くして、
だがすぐにいつものように明るい笑顔を浮かべた。
「玲奈ー! こんなところに呼び出すなんて、なんか青春だね? なに、ドラマの台詞稽古でもする?」
その調子は、あくまで“友達のまま”だった。
玲奈は、一瞬だけ躊躇うように唇を結ぶ。
だが、顔を上げて静かに言った。
「皐月……ごめんなさい。でも今日は、少しだけ……違う話をしに来たの」
「んー? なになに?」
玲奈の背後に静かに立っていた僕は、ゆっくりと一歩前へ出た。
彼女をかばうように桐生皐月と向き合い、目を逸らさず、低く澄んだ声で告げる。
「――すべて、把握してる。氷室さんへの誹謗中傷の大半は、ひとりの投稿者によるものだった」
「そして、それを行っていたのは……君だ。桐生皐月」
その名を明確に口にした瞬間、桐生の肩がピクリと揺れた。
一拍置いて、笑み――けれどそれは作り物のように引きつった笑顔が浮かぶ。
「……は? なにそれ? 証拠でもあるっていうの?」
「私がそんなことするわけないでしょ。玲奈とは友達なのよ? そんな人のこと悪く言うなんて、ありえないから」
僕は無言で、手にしていた紙束を彼女の前へ差し出す。
それは掲示板の投稿ログ、接続記録、User-Agent、時刻表記――すべてが時系列順に印字された資料だった。
最上部には、正式な取得申請の証明書。川澄先生の印が押されたコピーがホチキス留めされている。
「証拠ならある。君が投稿した内容の一覧。氷室さんだけじゃない。他の生徒たちへの陰湿な書き込みも含まれている」
「読めば、自分が書いたものだとわかるはずだ」
桐生の目が見開かれ、頬がみるみる赤く染まっていく。
一瞬で感情が暴発する。
「ふざけんなッ!!」
紙束を引きちぎるように奪い取り、その場でビリビリと引き裂いて空中に放り投げた。
風が吹き抜け、無数の紙片が屋上に舞い落ちていく。
「なに!? 勝手にログを盗み見たの? それって犯罪じゃないの!? いいわ、
今すぐ言ってやる。あんたが捏造して、私を陥れたって!」
玲奈が小さく息を呑み、一歩だけ後退する。
だが僕は動じず、冷静に返した。
「これは正規の手続きで取得した情報だよ。先生も確認済みで学校の許可を得て取得したデータだ」
「それに、ログの整合性はシステムを知っている者なら簡単に確認できる。……証拠としての信頼性は、十分ある」
「ふざけんなよ……っ、こんなの、くそっ、くそっ――!」
彼女の呼吸が乱れはじめる。
両肩が上下し、押し殺した声が怒りの形で弾ける。
「皐月……。 ど、どうしてこんな事をしたの? 私、あなたに何かしたかしら……」
「……なにか? あんたがいけないんだよ! 玲奈が! なんで、なんであんたばっかり!」
それはもう、取り繕いようのない“本音”だった。
「去年は演劇部の部長がパンフレットの表紙だったのに、今年は私の番だった。準備だってしてたのに……あんたが全部持ってった」
玲奈の目がわずかに揺れる。
けれど口元は、怒りも反論も浮かべてはいなかった。
ただ、寂しそうに目を伏せるだけだった。
「それだけじゃない! 佐藤くんも……あんたばっかり見てた。話したこともないくせに、なんで……なんであんたばっかり……!」
声が震えていた。
怒鳴り声の奥には、悔しさと惨めさと、幼い嫉妬が入り混じっていた。
僕は深く息を吐いた。そして、最後の言葉を投げかける。
「きみが今、反省して、それ以上誰かを傷つけないと約束してくれるなら……この件は、学校には報告しないつもりだ」
桐生は唇を噛み、睨み返す。
だが、その瞳に“謝罪”の色はなかった。
「こちらとしても事を荒立てたくはない。それに、君が氷室さんをこれ以上傷つけるようなことがあれば――これを使わせてもらう」
そう言って、僕は制服のポケットから小型のボイスレコーダーを取り出した。
ごく自然な所作だったが、それを見た桐生の瞳が揺れる。
「……録音、してたの……?」
声が掠れる。
その瞬間、彼女の顔が歪み、張り詰めた感情が一気に爆発した。
「最低ッ……!!」
咆哮とともに僕に飛びかかり、頬をはたきレコーダーを強引に奪い取る。
そして、ためらうことなく地面に叩きつけた。
パキンッ! という高く乾いた音。
黒い樹脂の破片が、夕日に照らされて飛び散る。
しばしの静寂。
桐生は肩で息を荒げ、勝ち誇ったように口角を上げた。
「はっ、これでもう終わりね。証拠なんて、全部パー! ざまぁ見ろっての!!」
だがその声に、別の声が静かに重なる。
「おいおい、それ、俺のだぞ、ちゃんと弁償してくれよな……」
屋上の消火設備の陰から、榊が姿を現す。
手にはスマートフォン。画面の向こう側、こちらにレンズが向いている。
「録音は破壊されたけど、さっきの全部、動画に撮ってある。紙を破ったとこも、悠真に暴行を行ったとこも」
桐生は言葉を失い、青ざめた顔でよろける。
「ついでに、“あんたが悪い”って自白してたとこもバッチリ撮れているぞ」
視線が玲奈に向けられるが、彼女の目はまっすぐで、優しいが、逃がさない。
「……なんで……うあああぁぁ……」
呟きのような声。
玲奈は悲しそうに、けれど優しく、問いかけた。
「……皐月……もうやめて」
桐生の表情に浮かぶのは、恐怖でも怒りでもない――
完全な“敗北”の色だった。




