22 氷のヴェールの向こう側
夕方の柔らかな日差しが廊下を染める月曜の放課後、相談室の扉が、ぴたりと時間通りにノックされた。
「どうぞ」
僕がそう答えると、静かに扉が開き、氷室玲奈がゆっくりと入ってきた。
淡い光が彼女の黒髪に触れ、静かにその輪郭を浮かび上がらせる。横顔は、まるで触れれば壊れそうなほど繊細だった。
普段はどんな場面でも揺るがないはずのその視線が、今日はほんの少しだけ下を向いているように見えた。
「それで、今日はどうしたのかしら……相談の日じゃないわよね?」
穏やかな声色には、かすかに迷いが混じっていた。
いつもの無表情ではない。でも笑顔でもない。
彼女の指先が、制服の袖をそっとつまんでいた。気づけば、何度も。それが言葉より雄弁に、不安を語っていた。
「……ああ」
言葉が、うまく出てこなかった。
気安く「大丈夫?」なんて聞くのは違う気がして、ただその場で立ち尽くす。
そんな僕の空白を、玲奈のほうが先に埋めた。
「……もしかして、炎上の件かしら」
その声に、僕はうなずいた。
彼女はそっと目を伏せ、ひと呼吸置いてから、静かに口を開く。
「大丈夫よ」
けれど、その言葉とは裏腹に、彼女の声にはわずかな震えがあった。
「……こんなこと、初めてじゃないし。だから、そんなに心配しなくてもいいの」
そう言いながらも、その目は決して僕を見ようとしなかった。
自分の中でどうにか飲み込もうとしている――そんな風に見えた。
「……でも」
ふと、玲奈の指先がぎゅっと袖を握る。
ほんの一瞬、歯を噛むような仕草のあとで、ぽつりと続けた。
「私が……降りれば、きっとすぐに収まるのよね」
「パンフレットの件……やっぱり、辞退しようと思っているの」
「せっかく、あなたに写真のこと相談して、笑顔も褒めてもらったのに。申し訳ないけど……」
言い終わるころには、そのまつ毛が小刻みに震えていた。
泣き顔ではない。けれど、見ていられないほど胸を締めつける表情だった。
「氷室さん」
僕は椅子から立ち上がり、机を回って彼女の正面に立つ。
そして、言葉を選ばずに、まっすぐ伝えた。
「……任せて。僕が、ちゃんと何とかする」
玲奈の目が、大きく見開かれる。
その中に浮かぶのは、驚きと――少しの戸惑い。
「氷室さんには一切非が無いんだ。逃げる……といったらいい方は悪いが、君が引く必要はないんだ」
「でも……」
「安心してよ、ちゃんと調べて、事実を明らかにして、君が後ろめたさを感じる必要がないようにする。
氷室さんは、何も悪くない。だから、何も気負う必要なんて無い」
そこまで言って、少しだけ笑う。
「……こういうのも、一応“恋愛コンサル”の延長みたいなもんだからな。
クライアントのメンタルケアも、僕の仕事のうちだよ」
玲奈はしばらく僕を見つめたまま、何も言わなかった。
けれど、やがてふっと目を細める。
その瞳に光が戻っていくのを、僕ははっきりと感じた。
「……あなたが、そう言うのなら」
彼女は小さくうなずき、そして――頬に、ほんのりと赤みが差す。
「もう少しだけ、頑張ってみようかしら」
その言葉は、どこか照れを含んだ優しい響きだった。
「ありがとう、加賀崎くん」
彼女の目を見た瞬間、胸の奥が一度だけ跳ねた。
けれど、僕は平静を装ったまま、わずかに背筋を伸ばして言う。
「任せておいてよ。必ずなんとかするから」
彼女の唇が、そっと弧を描く。
それはほんのわずか――けれど、たしかに見えた。
氷のヴェールの奥から、こぼれ落ちた“本音の笑顔”。
それは、ほんのわずかだったけれど――
氷のヴェールの奥からこぼれた、確かな“本音の笑顔”だった。




