16 図書館ブース
放課後のチャイムが鳴り終わるころ、僕は校舎裏の渡り廊下に立っていた。風で軋む窓枠の向こう、図書館へ続くドアが静かに開く。
現れたのは見慣れぬ女の子――ネイビーのキャップを深く被り、グレーパーカに黒のジョガー。長いキャラメルブラウンの髪は高い位置でひとつに束ねられ、リズミカルに揺れている。
「へへ、驚いた? これは成功だよね☆」
声で即座にわかった。星乃みゆ。けれど“モデルオーラ”はキャップと眼鏡とスポーティーな装いで封じられ、雰囲気はまるで陸上部の美人マネージャーだ。
「本当に君か疑った。前回の三つ編み眼鏡の委員長風も驚いたけど、今日はスポーツ寄り?」
みゆはキャップのツバをコツンと叩いて笑った。
「うん、前回は“知性+真面目”モード。今日は“健康+図書館”モード⭐︎ 恋の非公然実験がテーマだよ⭐︎」
「恋の非公然実験って、デート感ゼロってことか?」
「さすが、加賀崎くん☆」
肩をすくめる僕の横で、彼女は軽いステップを踏み、腰から下でリズムを取る癖が抜けないらしい。
「時間もったいないし、さっそく図書館いこ?」
図書館カウンターに生徒証を提示し、二人席ブースの鍵を受け取り、狭い通路を抜けて小部屋に入る。
「しーっ、だよ?」
左右に簡易防音パネルはあるが、お静かにご利用くださいの張り紙があるように大きな声で話すのは禁止されている。
声量を抑えたみゆが人差し指を唇に当てる。キャップのツバが僕の視界を半分覆い、それだけで空気が甘くなる。
「あぁ、わかってる」
「じゃーまずは議題確認☆ 今日は“告白セリフBeta版”と“バレにくいデート案”の添削をお願いします☆」
「うん、わかった。とりあえず聞かせてくれる?」
「あ、あと私の物理レポート地獄救出もお願い☆」
彼女はトートから厚い“物理図解アトラス”を取り出し、ドンと机に置く。表紙はブラックホールのCG。モデルというより理系女子の荷物だ。
「ホントに自力でやるつもりだったのか、これ」
「努力するモデルは好感度アップだから⭐︎ でも、まずは告白セリフ、チェックお願い!」
タブレットを滑らせて寄越すと、手書きメモが映った。
『君の世界線内で、私を不変量にしてくれる?』
「……ぶっ」
思わず吹き出す。
「えぇ? なんで笑うのさ。“世界線”とかトキメキワードでしょ?」
笑いを噛み殺したつもりだったが、すぐ隣のブースから「ゴホンッ」という咳払いによる注意が飛び、二人して肩をすくめる。
みゆは頬を膨らませ、モニターに告白文を映し出す。
「じゃあ加賀崎くん、恋愛係数を上げる添削、お願いしますっ♡」
「恋愛係数……まぁいい。主語を“私”より“わたし”に変えて硬さを抜こう。あと“不変量”ではなく“特別な定数”くらいに……というか係数だとか定数なんて言っても伝わらないからやめたほうがいい」
「ちゃんと伝わってるでしょ?☆」
「僕に伝わっても意味ないでしょ。相手も僕みたいな感じのタイプなの?」
「え、えっと、そう。加賀崎くんみたいに理系の話題が好きそうだからこういう告白文にしてみたの」
「なるほど、それなら伝わるかもしれない……が、ネタとして取られてしまう可能性もあるからどちらにしてもやめたほうがいいかもしれないぞ」
「というか星乃さんは普通に可愛いんだからシンプルな告白のほうが良いと思うけど」
星乃は顔を赤くして、照れたように俯いた。
「……ごめん、距離近い?」
「え、えぇっと、だ、大丈夫!」
慌てて星乃の声が少し大きくなる。
「しーっ」
今度は僕が指を立てる。声を出せず視線で謝ると、みゆはキャップのツバを指でコツン。
「静かにドキドキだね☆」と唇だけで言う。
甘い息が零れ、こちらの心拍が物理公式のグラフから外れていく。
タブレットの横に、彼女は小袋を置いた。
「糖分補給。ノンシュガーだけどプロテイン17グラム!」
「さすがモデル仕様」
「加賀崎くんにもあげる。脳のグリコーゲン枯渇防止☆」
差し出されたバーはキャラメル風味。封を開けると、ほのかな甘さが密室に溶ける。
添削の赤字が半分ほど進んだところで、みゆが小声でもう一つの資料を出す。A4一枚、ポップなフォーマットに〈バレにくいデート案 改〉とタイトルが躍る。
「清掃ボランティアデートは“ほうき星”にかけた渾身ダジャレなんだけど☆」
「それ、気づいてもらえなかったら寒いだけだぞ」
「じゃあ保険に“星座占いトーク”付け足す!」
「占いに保険かけるなよ」
くすくす笑いが止まらず、再び「ゴホンッ」と咳払いで怒られ、二人で肩を寄せて頭を下げる。
その体勢のまま、みゆは囁くように言った。
「図書館って静かだけど……加賀崎くんと一緒だと星が瞬くみたいに楽しいね」
言葉自体は甘いのに、ボーイッシュキャップが照れ隠しの役目を果たし、ぼそっと吐息に混ざるだけ。ツバの影に隠れたスタースマイルが、不意打ちで頬を焦がしていった。
ペン先がタブレットを滑るたび、キャップのツバが微妙に揺れ、そのたびに蜂蜜色の瞳が覗く。眼鏡越しでも、星屑のようなフレークがライトを拾って煌めいた。
――チャイムが次の利用時間を告げる少し前。
添削ファイルを保存し終え、彼女がキャップを取った。高い位置のポニーテールが弾むと同時に、緩いウェーブが肩下にふわりと滝を作る。
キャップの内側に隠れていた蜂蜜アンバーの瞳が目の前できらめいた。——が、ハーフアップでもなく、ピンもなし。モデルオーラが真空から一気に膨張し、僕は危うく息を呑みかけた。
照明が鳴らす終了ベル。彼女はキャップをかぶり直し、ツバをコツンと叩いてから静かにブースを出た。ドアの小窓越しに振り返り、囁き声より小さく唇を動かす。
「次は美術準備室でシミュレーション、ね☆」
図書館の灯りが彼女を飲み込み、扉が閉まる。
図書館の静寂がまた僕の鼓動を反射し始めた。




