13 流星トライフル
展示フロアをくまなく歩き回り、二人で合計七千歩を超えた頃、併設カフェのガラス扉を押した。窓際に設えられたサイズの違う星形ランプがゆらゆら揺れ、小さな宇宙船の模型が卓上で回転している。メニューは天体になぞらえたスイーツ揃いで、期間限定品には銀色の星マーク。
氷室はその中でもひときわ華やかな“流星トライフル”を即決した。長いシュガービスケットが斜めに刺さり、ホイップとベリーが彗星の尾のように広がる——まさにインスタ映えの惑星。
「甘いもの、好きだったんだ?」
運ばれてきた皿を見て思わず聞くと、彼女はスプーンをくるくる回しながら小さく笑った。
「こう見えて、糖分には弱いの。徹夜で論文読むときはチョコ必須」
ブラウスの袖口をそっとまくり、星型クッキーを半分に割る。
「半分どう?」
差し出された欠片を受け取った瞬間、サクッという乾いた音が脳天まで染み渡った。砂糖衣とバターの香りが口いっぱいに広がる。
「……おいしい」
「でしょ?」
氷室は満足げに目尻をほころばせる。いつもの無表情をほんの一瞬だけ脱ぐ、その表情に心臓がピクセル単位で拡大する。
「甘さ控えめに見えるけど、意外と濃いね」
「ガナッシュに隠しラム酒。お酒弱い人でも平気らしいわ」
「詳しいね」
「調べておいたの。せっかく来るなら“映える”ものを食べてみたかったし」
淡々と告げる言葉の背後で、スプーンがクリームをすくい上げるリズムが弾んでいる。紫のベリーソースがブラウスの青を引き立て、カップの水面が散った光を開いた瞳に映す。
僕らは小皿を交換し、ホイップの残り具合やベリーの粒感について学生らしからぬ真面目さで語り合った。糖分が血中に回るたび、理詰めの解説が甘い渦に溶けるようで、時間感覚がやや緩んでいく。ふと気づくと、二人のストローが星型グラスの中で交差しかけていた。
「……あ」
どちらともなく引っ込め、同時に視線を逸らす。次の瞬間には笑いがこぼれ、スプーン同士が軽く当たった。トライフルの底でパフェ用クッキーがカラリと鳴る。ホールのざわめきも微弱化し、照明のオレンジが頬の上で甘いフィルターになった。
最終回上映まで残り五分。館内を縫うように歩き、ギリギリでドームシアターに滑り込む。傾斜シートはカーブ状に並び、半球ドームを見上げるように倒れ込む設計だ。空調が一段静まると同時に場内が暗転、指揮者のタクトを思わせる弦の序奏が小さく始まる。
「間に合った……」
と安堵して腰を落ち着けた瞬間、肘掛けが互い違いで一本しかなく、氷室の肩が自然と寄りかかった。空間がほぼ真っ暗のため視覚はほぼ無効化され、触覚がやけに鋭敏になる。
天井いっぱいの星々がゆっくり回転を始める。スクリーンの投影が繊細に明滅し、鼓動がそれと同期するかのように高まる。横からそっと呼吸が伝わってきて、暗さの中で顔の向きを探ることすら躊躇われる。
ナレーションが「光年の彼方で出会うふたつの星——」と語ったとき、手の甲がかすかに触れ合った。氷室は引かなかった。むしろ指先が、ごく弱い力で触れてくる。
胸の内側で何かが瞬き、脈拍が星の瞬きに追いつこうと速度を上げた。映画館や暗い教室で偶然触れた時のような反射的な後退はなく、代わりに不思議と落ち着いた温度が流れ込む。
投影が銀河系の外縁を巡る映像に切り替わる頃、二人の指先は静かな重力で寄り添ったまま動かなかった。遠くの星が核融合する光より、肘掛けのわずかな温度の方がずっと強く感じられた。
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上映が終わり、ゆっくり照明が戻ると、足元の誘導灯がかすかに青くにじんだ。まだ胸に残る余韻を抱えたままドームを出ると、すぐ脇のショップの棚には色とりどりの宇宙グッズがぎっしり並んでいる。
氷室は迷わず星型のブックマーカーを手に取り、「今日の記念に」とほほえんだ。横にいる僕は、手のひらに収まりそうな星図ノートから目が離せない。ページに散りばめられた金箔の星々が、さっき見た星空の残像を呼び戻してくる。
会計を済ませ、レジ袋が小さく揺れる。出口へ向かおうとしたとき、彼女はその袋をふいに僕の胸元へ差し出した。
「今日の解説のお礼」
「え、僕に?」思わず指を袋に伸ばしながら問い返す。
氷室は照れたように目を細め、「……使って」と、そっと包み込むように手を添えた。
灰色の瞳が一拍伏せられる。
袋の中には、群青の星図ノート。裏表紙に銀箔で《Cartes du Ciel》と刻まれている。“天空の地図”。胸ポケットに入れると、紙の温度がじんわりと伝わった。ノートが胸の鼓動に合わせて微かに揺れるのを感じた。
十六時四十分。ガラスドームを夕陽が朱に染め、床タイルの上に二人の影が長く伸びる。出口前で道が左右に分かれ、自然と歩が止まった。
「今日は、ありがとう。解説、本当にわかりやすかった」
「僕も解説できて楽しかったよ」
台詞が被り、同時に笑う。肩が近づき、ブラウスとニットの布擦れが小さく鳴る。
「また――相談、お願いできる?」
「もちろん。喜んで」
会話はそれだけ。だが視線が離れない。橙色に染まる灰色の瞳は名残惜しさを隠しきれず、僕の声もわずかに掠れていた。仕事の延長のはずが、胸を満たしているのは“成果”ではなく甘い残響だった。
小さなバイバイを交わし、互いに背を向ける。振り返る勇気は出なかったが、足取りが妙に軽い。紙袋のノートがコートポケットの中で揺れ、胸の高鳴りと同期して拍を打っていた。
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夜十九時。
ライトブルーのニットを脱ぎ捨てベッドへ顔を埋める。抑え込んでいた熱が布地に跳ね返り、頬をさらに火照らせた。
そのタイミングでスマホが震え、画面に短いメッセージ。
氷室玲奈 19:00
今日の解説、星空みたいに素敵だった。ありがとう。
即座に返信を打つ。
悠真 19:00
こちらこそ。
ノートもありがとう。大切にするよ。
送信を押してスマホを伏せる。点滅する通知ランプがベッドサイドの薄闇で瞬き、プラネタリウムの星と重なって見えた。




