12 星の距離と青
日曜日、十二時四十五分。
科学館のガラスドームは快晴の空を写し、正面ロビーには週末客のざわめきが渦を巻いていた。僕はカフェスタンド脇の柱に寄りかかり、手帳型のチケットホルダーを確認する。
――ブルーのニットは、やっぱり派手じゃないか?
昨日、榊に「地味脱却」と言われ購入したライトブルーのハイゲージ。いつもの僕からすれば冒険だが、鏡で合わせると悪くなかった。そう言い聞かせ、胸ポケットに差した解説メモの角を整える。
十三時ちょうど。自動ドアが開き、ライトブルーのロングカーディガンを羽織った氷室玲奈が現れた。
薄水色のブラウス、細いシルバーのペンダント。制服では隠れていた鎖骨が柔らかい曲線を描く。思わず目を奪われ、次の瞬間、胸に針のような自意識が刺さった――ブルー同士、おそろいみたいに見える。
「待たせた?」
「い、いや。今来たところだよ」
声が裏返りそうになり、慌てて咳払い。氷室は気づいたのか、袖口を軽く指で摘む。
「そのニット、綺麗な色ね」
「き、昨日たまたま……」
頬が熱くなる。計算されたコーデでもないのに、偶然のリンクが妙にくすぐったい。
受付でペアチケットを提示すると、係員が「カップルのかたはこちらへ」と自然に案内してきた。氷室はちらりと僕を見やり、ほんの一瞬目尻をゆるめる。――否定も肯定もしない、けれどその沈黙が甘い誤解を温存した。
吹き抜け中央にそびえる直径二十メートルの球体スクリーンが、周囲の照明を吸い込むように暗転した。次の瞬間、紫紺と群青を混ぜ合わせた星雲の映像が天幕いっぱいに広がり、銀の光が霧のように舞い落ちる。音もなく零れ落ちる星塵に、ロビーの空気がさらりと冷えた気がした。
「……わあ」
氷室の唇から漏れた息が、まるでスノードームの中で白く結晶しそうな温度で耳に届く。人垣が波のように前へ押し寄せ、自然と僕らは横並びで立ち見エリアの最前列に押し出された。肩と肩の隙間は教科書一冊も入らない。
司会の女性がマイク片手に、球体下の小さなステージへ歩み出る。「——夜空は大切な人と見上げてこそ輝きます」
最後の一節がホール全体に柔らかく響くと、周囲から控えめな拍手が起きた。
合わせるように僕も手を打ちかけ、隣を向く。灰色の瞳と視線が正面衝突。氷室も拍手を止めて、目をぱちりと見開いていた。二人同時に「……」となり、わずかに首をすくめて笑う。笑ったと言うより、思わず呼吸がほころんだだけかもしれない。だが頬の内側がじんわり熱くなる。司会者の言葉を真に受けたわけじゃない。なのに、たった二秒の沈黙に、星雲の紫紺が頬へ滲んだような気分だった。
「綺麗ね」
小さく囁く声は講演の余韻に溶け、僕の耳だけを震わせる。
「うん。実際の星雲はもっと淡いんだけど、映像処理で強調してるんだ」
「強調してる方が、心に残るから?」
「そう。人間の目は暗い紫を認識しづらいからね。色域を広げてあげると——」
「へえ、工夫されてるのね」
ふっと笑った横顔。距離は変わらないのに、妙に近く感じるのは照明が落ちて背景が闇一色だからだろうか。スクリーンに映る星雲が、僕らの肩先にも淡く映り込んでいた。
ホールを抜けると、天井まで届くライトパネルが連続して並ぶ長い回廊。そこは“深宇宙ゾーン”と名付けられ、銀河団やクエーサーの画像が光のタペストリーになって客を迎える。
「これはハッブル望遠鏡が撮影したマルカリアンの鎖」
自然と解説モードにスイッチが入る。右手でポイントスティックを差し示すガイドの癖が出て、思わず人差し指を立てる。
「銀河同士が重力で“数珠つなぎ”になってる現象で——」
「“鎖”ってそういう意味なのね」
氷室は胸元の薄いリボンを押さえ、手帳サイズのノートを取り出した。表紙は深い群青に銀の箔押し。昨日ギフトショップで買った星図ノートと同じシリーズだ。ペンが走るたび、淡く光を反射する。
「友人のためにメモ?」
「ええ。でも——」
と筆を止め、表紙をそっと閉じる。
「自分の興味でもあるわ。知らないことを知るの、好きだから」
その指先が、ごく僅かに震えていた。反射的に続きを解説しようとして、喉奥で言葉がからまる。灰色の瞳が、ライトパネルの輝きを集めた水面みたいに揺れて僕の横顔を映している。
咳払い一つで態勢を立て直し、「たとえばこっちの——」と次の画像に視線を導く。
「これは“アンテナ銀河”。二つの銀河が衝突して——」
「衝突、するの?」
「うん。億年単位で中心ブラックホールが合体する。星と星はほぼ衝突しないけど、ダークマターが……」
「ブラックホールが合体……資料で読んだだけじゃ想像できないわね」
彼女は唇の端をほんの少し上げ、まるで重力レンズで光が曲がるみたいに笑った。
「じゃあ合体CGを移動しながら見てみようか」
歩幅を合わせながら次のモニターへ向かう。ほんの数分前まで緊張で強張っていた自分の背筋が、気づくとほどよく弛緩している。解説の合間に氷室が小さく「なるほど」と頷くたび、銀河の衝突より静かな衝撃が胸に降ってきた。
通路の照明が青から白へ切り替わる瞬間、二人の影が床で重なり合う。足音まで星雲の粒になったみたいに軽い。理論と感情、その境界はもうデータベースには載っていなかった。




