11 準備はデータより難しく
土曜の午前十一時。
自室の姿見の前で、Tシャツとシャツを交互に胸元へ当てたまま固まっていた。
明日の宇宙写真展は「解説役」という名目だが、氷室と二人――状況だけ見たら限りなく“デート”寄りだ。しかし、デートではない。
いや、少なくとも表向きは。ただその“限りなく”の部分が、判断をややこしくしている。
制服を避けるのは決めた。休日に堅苦しいし、写真展の場にはそぐわない。
けれど、私服で何を選べばいいかとなると、とたんに思考が空転する。
他人の服は、論理と統計でいくらでも選べる。
顔色・骨格・TPO・相手の心理的効果――条件がそろえば、合理的に導ける解。
だが、自分のこととなると話が違う。客観視のしづらさはもちろんだが、何より「どう見られたいか」が、明確に定まらないのだ。
そもそも、見られたい自分という像が存在しない。
氷室にどう思われたいかと考えると、急に思考にノイズが走る。
“好かれたい”のか、“嫌われたくない”のか。そこすら曖昧なまま、鏡に映る自分がただ無言で立ち尽くす。
無地ネイビー……理系オタク味が強い
白シャツ+カーデ……保護者会か?
柄もの……事故率が指数関数
理屈で消去法を繰り返すたびに、選択肢が減るどころか、逆に増えていく気がしてくる。
論理の輪郭が曖昧になるほど、感情の影が濃くなるのだ。
「客観視できない対象には分析が効かない」とぼやいたところで、机のスマホが震えた。
榊智也 11:06
午後ヒマだろ? 街まで出るぞ
画面を見て、思わず小さく笑ってしまう。タイミングが良すぎる。
まるで、こっちの苦悩を見透かしていたみたいだ。
すぐに「服選び手伝い頼む」と救難信号を送り返す。
文面は短く、けれど意思は明確。榊にはこのくらいの曖昧さが、ちょうど伝わる。
集合場所と時間を打ち合わせながら、思う。
誰かに判断を委ねるのは、プライドとは真逆の行動だ。
それでも、今の僕には必要な選択だった。
————-
昼過ぎ、駅ビル五階のカジュアルショップ。
榊はお店のハンガーを無造作に滑らせながら、肩越しに振り返る。
「他人の服はズバズバ決めるくせに、自分だと迷走かよ」
「客観視できない対象には、分析が効かないからな」
「はいはい、便利な逃げ口上」
榊は苦笑しながらも、次のラックへと移動する。
「だからお前のワードローブには、無彩色しか存在しないんだな」
「モノトーンは誤差が少ない。失敗リスクを最小化してるだけだ」
「デートコーデで“誤差”って言うなよ。他人の相談には無駄に色彩心理まで持ち出すくせに……お、これいいじゃん」
そう言って榊が手に取ったのは、淡いブルーのライトニット。
ブルー、それもこんな淡い色――正直、普段ならまず手に取らない。派手じゃないはずなのに、どこか落ち着かなさを覚えるのは、きっと“自分に似合う”というイメージを持っていないからだ。人には似合う色を論理で語れるのに、自分に向けるとたちまち不安定になる。
榊は笑いながら、ニットを押しつけたまま引かない。しぶしぶそれを受け取ると、「ほら、試着」と背中を押された。
試着室のカーテンを閉め、言われた通りニットに着替える。首元がややゆるいが、着心地は悪くない。
外から声が飛んできた。
「ほら早く見せろー。まさか緊張してんのか?」
「してない」
カーテンを少しだけ開けて姿を見せると、榊があからさまに目を見張った。
「似合うじゃん。背伸びしてないのがポイント高い。“彼氏に着てほしい服”ってやつだな」
「彼氏じゃないっての」
「はいはい、"まだ"彼氏じゃないんだね」
その声だけで、なぜか耳が熱くなる。
僕が鏡を確認していると、榊が少し真面目な顔になって言う。
「コンサルモードのときのお前なら、これ選んだ理由つけられるだろう?」
「ブルーは寒色系の中でも特に信頼感と誠実さを印象づける色相で、適度な対人距離を保ちつつ安心感を与える。ライトトーンなら心理的ハードルも下がり、柔和な印象が加わる。
清潔感と結びつきやすく、第一印象にも強く作用する色。実際、“彼氏に着てほしい色”ランキングでも過去5年ずっと上位。安定性の高い選択だ」
「……うわっ、理屈っぽ。ていうか、長いわ。 研究データかよ」
「だから、理屈で迷ってる人には効くんだよ。『似合う』だけじゃ説得力に欠けるだろ」
「まあ、確かに女子ですら、ときどき“根拠くれ”って言ってくるもんな」
僕がニットの袖を伸ばしていると、榊がぼそっと呟く。
「でもさ。恋愛って、理屈より曖昧なもんだろ」
「……それは、否定できないな」
榊はニヤリと笑って肩をすくめた。
「だからこそ、“曖昧な自分の服”は、人に選ばせるんだよな?」
「……まぁ、そういうことだ」
買い物を終え、エスカレーターを降りてアトリウムの吹き抜けに出た瞬間、ポケットが震えた。
取り出したスマホには、赤いハートが跳ねるポップな通知。
来栖ほたる 14:25
先輩との共同作戦、楽しみ♡
“共同作戦”――ほたるらしい婉曲表現だ。
隣では榊が「喉渇いた」と自販機へ向かいながら、こちらを横目にチラリと気にしている。ターゲット本人が文字通り射程圏内にいる今、何か聞き出しておけば彼女の成功率は上がる。
──実を言うと、他の女の子からも「榊が好きだから協力して」と頼まれたことは何度もある。
昼休みにお弁当を隣で食べる段取りを組んでほしいだとか、放課後に偶然を装ってカフェへ誘導してほしいだとか。けれど、僕が“ターゲット本人との橋渡し”を請け負うのはポリシー違反だ。
それに榊自身が裏でシナリオを敷かれるのを嫌うタイプでもある。
――結局、そうした仲介型の依頼は全部断ってきた。恋の確率を上げるためとはいえ、友人を知らないところで動かすことがフェアなアプローチとは思えないし、あくまでもコンサルティングだ。僕が直接ターゲットと接触して場を動かすようなことはするべきではない。
立ち止まり、親指で素早く打鍵しながら、脳内で許容ラインを引く。
悠真 14:26
ポリシー上、直接紹介や場をセッティングするとかはできない。
でも「さりげなく聞ける質問」程度なら協力できるぞ。
今日は榊といっしょにいるから聞きたいことがあれば今のうちに教えて。
送信と同時に既読マークが付く。
来栖ほたる 14:26
先輩のポリシー、そういうとこ好き♡
質問は特にナシ!先輩は私の相談に乗ってくれるだけでいいの♡
返事は短いが、こちらの姿勢を汲み取った文面だった。
スマホをしまうと、榊が缶コーヒーを二本買って戻ってきた。
「何かトラブル?」
「いや、相談の定期連絡。すぐ済んだ」
「お前、仕事熱心すぎだろ。デート前日は糖で脳も心もチャージしとけ」
缶コーヒーを手渡される。缶には“超甘ミルク”と大文字。
タブを開ける榊の横顔を眺めながら、ふと思う。
(甘いものでテンション爆上げ――そこは、ほたるとも通じるところか)
口には出さず、缶を傾ける。クリーム混じりの甘さが喉を滑り、デート前の緊張をほんの少しだけ溶かしていった。
—————-
夕方、自室。
榊推薦のブルーのニットをハンガーにかけ、下には白シャツとダークデニムをセット。足元はスニーカーを丁寧に磨く。鏡に映る自分は、いつもの地味な理系男子から少しだけアップデートされて見えた。
明日の服装が決まっているという事実だけで、妙に安心してしまう。恋愛コンサルとして他人の服装のアドバイスなどをしたことはあったが、自分の見た目にここまで頭を使ったのは、きっと人生で初めてだった。
と、机のスマホが静かに震える。
画面には端的な送り主。
氷室玲奈 20:34
明日13:00 入口ロビーで
楽しみにしているわ
句読点も絵文字もない短文。それでも画面ごしに温度が伝わる気がして、背筋が伸びる。
悠真 20:35
了解。じゃあ明日はよろしく。
送信後、意図的にスマホを伏せ深呼吸。
クローゼットの扉が“コトン”と閉まった瞬間、胸の内側で鼓動が跳ねた。
土曜の準備はこれで完了。
残る課題は明日“理論”より“感情”が優位に立たないようにすること。
しかし、統計で扱えない変数――感情。それが、明日の一番の難問だ。




