10 後輩
金曜の放課後。旧視聴覚室の窓を薄金色に染める夕陽が、黒板の「23/30」を淡くなぞっていた。今日は誰からも相談予約がない。
僕はPCに氷室と星乃の進捗シートを並べ、メモ欄を埋める。
──宇宙写真展:下見予定・日曜 13:00
キーを叩くたび、頭の中で数式が小気味よく噛み合う。
「せ・ん・ぱ・いっ♡」
突然の呼び声。ドアが勢いよく開き、春風と一緒に小柄な影が飛び込んできた。
来栖ほたる――一年生の「天使」とも称される学園のマスコット的アイドル。蜂蜜色のツインテールを軽く跳ねさせ、腰に巻いたカーディガンがスカートのひらみを強調する。胸元のラズベリー色リボンは制服規定ギリギリの大きさで、深緑の瞳が笑うたび星屑みたいな光を散らした。
陸上部助っ人の脚は黒タイツ越しでも引き締まり、膝に覗く小さな絆創膏があどけなさを強調する。
「遊びにきてあげたよっ、嬉しいでしょ♡ 先輩♡」
軽いスキップとともにツインテールが弾む。廊下の賑わいを背負ったまま、ほたるはノートPCの画面を覗き込んだ。
「資料まとめてるとこ。ノックくらいはしてくれ」
「もう~♡ ノックなんて他人行儀、先輩と私に必要?」
指先で小さなノック音を机に打ち、「ほら、音鳴ったからセーフ♡」と勝手に判定する。
室内をぐるりと回って椅子の背をぽんぽん叩き、ジャスミンティーの湯気に顔を近づける。
「わ、いい匂い♡ ジャスミンって“安らぎのお花”でしょ? 私にも一杯――ねっ?」
「それは作業の集中用だ――おい、勝手に飲むな」
「えーケチ! じゃあ私だって今から“助手”になるもん。それなら、遊びじゃないでしょ?」
笑顔は譲歩する気ゼロ。睨みを返しても、オリーブグリーンの瞳は勝気なきらめきを増すばかりだ。
「……で、何の用だ?」
「ね、暇なら遊びに行こ? 今日って金曜だよ、解放の日だよっ♡」
肩に提げたサコッシュを誇らしげに叩く。フラップの動物バッジがカチャリと音を立てた。
「ねねね、映画でもプリクラでも! カラオケでデュエットしよ? 先輩ハモリね!」
「残念、Dr.Luvの資料が山積みでね。それなりに忙しい」
「わーひどい。データ>ほたる、ですかっ」
片手でハートを作り、わざと真ん中を割るジェスチャー。
PCモニターには無味乾燥なスプレッドシート。肩を竦めて示す。
「締め切りがある。週明けまでに統計整理しないと、後が詰まるんだ」
ほたるは椅子の背に倒れ込み、「う~」と低い唸り声。
「じゃ、じゃあ……お手伝いポイントカード貯めたら、遊びに付き合ってくれるとか?」
「カードが満タンになる頃には卒業してるぞ」
「そんなぁ~!」
机に突っ伏し、ツインテールがテーブルクロスのように左右に垂れる。
それでも諦めきれず身を起こし、カーディガンの袖を捲りあげる。
「ねえ先輩、数字漬けで頭オーバーヒートでしょ? 私がリフレッシュ係になってあげる♡ たとえば――」
手を左右に振りながら、提案が雪崩のようにこぼれる。
「校庭一周だけジョギング! 緑見ると脳が冴えるんだって♡」
「疲れて今日一日が終わる未来が見える」
「じゃ、購買の新作アイス♡ 脳には糖分~!」
「それ甘味で寝落ちコース」
「“ほたる特製ギャグ百連発”で覚醒!」
「即退散願います」
撃沈。大袈裟に頭を抱えこみ、ツインテールの先を指でくるくる巻きつけて小声でぼやく。
「仕事に勝てない人生なんて……無糖カフェオレより苦い……」
「そこまで落ち込むな。今日は本当に忙しいんだ」
「……ほたる充電残量、あと3%」
声もトーンダウン。
さっきまで天井を突く勢いだったテンションが、秒速でしおれた花のようにしんなりしていく。カーディガンの裾をきゅっと握り、瞳の輝きも曇りガラス。
「むぅ……じゃ、じゃあさ」
ツインテールをぷるんと揺らし、ほたるは身を乗り出した。息を吸い込んでエンジン再始動――先ほどまで曇っていた瞳に、再びネオン管が灯る。
「恋の相談なら立派な“お仕事”でしょ? 私も先輩に恋愛相談する♡」
勢いそのまま机をドンと掴み、ぱっと唇を結ぶ。ところが次の言葉が出てこない。視線は天井を泳ぎ、指はリボンの端をむにむに弄りはじめる。
「ほたるが恋バナ、珍しいな。相手は誰だ?」
一瞬だけこちらと目線が合う。その拍子に頬がぱっと薔薇色に染まり、慌てて視線を泳がせたせいで声が裏返る。
「えっ、だ、誰ってっ!? そ、そりゃあ……」
ツインテールの毛先は自転車のスポークのようにくるくる空回りしている。
(ノリが軽いほたるでも好きな人を言うのは流石に恥ずかしいか……)
彼女の脳内でカードが高速シャッフルされているのを横目で眺めつつ、僕は紅茶を一口。
「えーと、えーと……榊先輩!」
最終的に放り出されたのは、僕と同じクラスでバスケ部のイケメン・榊智也の名前。
「榊智也か?」
「そう! バスケうまいし、背ぇ高いし、なんかこう……キラキラしてるし?」
手のひらをヒラヒラさせるけれど、語尾は疑問形。
「棒読みすぎないか。本当に榊が好きなの?」
「ぼ、棒読みじゃないもん!」
「じゃああいつのどこに惹かれた?」
「どこ……?」
再度フリーズ。テンションメーターがガクッと落ちるが、即座に両手でVサインをつくり、無理やり持ち直す。
「え、えっとね! 頼りがい? あと、バスケシュートするときの横顔……とか?」
「ただ榊はモテるぞ。ハードル高いけど……まぁ、見た目だけはほたるの勝ちか」
からかい半分の台詞に、顔が真赤になる。
「うへへ……って、ちょっと“だけ”って何!? 中身は最悪ってこと!?」
「そこまでは言ってない」
プンプンと肩を震わせる姿は小動物のようで、つい笑いが漏れる。
「しかし、榊ねぇ……。 自分の友人が絡むような恋愛コンサルは普段は受けないことにしてるんだが……まぁ、ほたるならいいか。やる気、本当にある?」
「あるあるある! 全力です!」
慌てて姿勢を正し、ノートを取り出す。鉛筆を握る手だけが少し汗ばんでいる。
「わかった。じゃあ榊の行動パターンを整理しようか。昼休みは必ず体育館脇でシュート練習してる。放課後は――」
ほたるは真顔に切り替え、淡々とメモを写す。テンションはさっきと打って変わりフラット。やる気があるともないとも取れないが、とりあえず熱は籠めているようだ。
「偶然を装うなら――昼休み 12:35に体育館裏でボール拾い、もしくは放課後トレ室入り口でストレッチ補助が自然」
「ーーこんなところか」
付箋には小さく《Plan A》と書き添え、淡いハートを一個だけ描いた。
「じゃあ最初の接触は昼休みボール拾いと放課後ストレッチ手伝い、これで行こう」
「了解! 先輩、大好き♡」
最後の叫びは“相談役として”か“友人として”か判別不能だが、”異性として”ではないだろう。室内を跳ねる声は間違いなく嬉しさ満タンだった。
こうして僕は、親友の榊をターゲットに据えた恋愛ミッションを引き受けることになった。
ほたるはファイルを抱え、「作戦成功したらまた報告ね♡」とウインク一発。夕陽を浴びたラズベリーリボンが、弾む心拍の色に見えた。




