01 氷姫のふせん
――恋愛は、理屈で解ける。
それが僕――加賀崎 悠真の仮説だった。
人の心は曖昧で、感情は不確か。でも、観察し、分解し、再構築すれば、そこには必ず“傾向”が生まれる。
僕はこの昼休み、ホワイトボードに「23/30」と書き記した。
昼休みの終盤、空き教室に残っているのは、クーラーの低い唸りとその数字だけ。
ようやく23組目のカップル成立を確認した僕は、ノートPCを閉じながら息をついた。
恋愛相談――僕が“Dr.Luv”の名前で水面下で行っている非公式活動の成果だ。三十組中二十三組という成功率は十分に高い。でも、まだ傾向を「理論」と呼ぶにはデータが足りない。
ホワイトボードの前、僕はひとり、空白の余白を見つめる。
そこにはまだ、知らない“何か”が待っている気がしていた。
――そしてそのとき、自習室のドアが控えめに軋んだ。
「悠真、腹減らないのか? もう昼、終わるぞ」
声の主は榊智也。バスケ部所属、体育会系の親友だ。
ドリンクボトルを肩に乗せながら、いつものように軽口を叩いてくる。
「あとで購買に行くよ」
「お前が腹より仕事を優先するのは知ってるけどさ」
榊は肩をすくめると、黒板をちらりと見て、ふと眉を上げた。
「……これ、なんだ?」
彼の指先が僕の机を指す。そこには水色の付箋が一枚、ぴたりと貼られていた。
──<今日の放課後、二十分ほどお時間いただけますか――氷室>
まるで活字のように整った行書体。かすれも崩れもない、完璧な文字列。
「悠真に直筆ふせん。しかも相手は――“氷姫”だぜ?」
“氷姫”。
その名は、ある一人の女子を象徴している。
氷室玲奈。黒髪ストレートに氷のような眼差し。学年首席、才色兼備、無表情。
誰にも媚びず、男子を凍らせ、女子からは恐れと憧れを一身に集める“彫像のような完璧さ”。
すれ違いざま挨拶をしただけで丸一日寝込んだという都市伝説すらある。
僕も同級生ではあるが、話すことはない。
「なにか頼みごとか?」榊が顔を寄せる。
「……さっぱり。心当たりはない」
部活も違う、クラスも遠い、共通の活動もなし。
接点なんて、どこをどう探しても見つからない。
「まさか――恋の相談だったりしてな?」
榊は茶化しつつも、わずかに目を細めて笑った。
「……氷室さんが? 冗談だろ」
「氷点下のあの人が恋バナ? 雪が降るわ」
小さく笑って首を振る。僕らにとって氷室玲奈は、ただ“観測するだけの存在”だった。
彼女が僕の前に現れることなど、ありえないと思っていた。
「ま、とりあえず行ってみなって。そっちの“データ”も更新されるかもな」
榊は片手を振りながら自習室を後にした。
残された僕は、ふせんの文字をもう一度なぞる。
――氷室玲奈が、僕に「二十分の時間をくれ」と言っている。
数分の業務連絡ではない。恋愛相談? そんなもの、あるはずがない。
けれど、沈黙の彫像がその唇を開いた。
その事実だけが、今まで見えていた“傾向”の先にある未知の予感を連れてきた。
ホワイトボードの「23/30」の隣、空白の余白が淡く光る。
そこに描かれる次の一筆は、まだ誰にも読めない。
僕はふせんをそっと手帳に挟み、ノートPCを鞄に収めた。
――データが語るのは、ここからだ。