表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

死んだはずの父が帰ってきた

作者: eざらし

死んだはずの父が、そこにいた。


味噌の香りがふわりと立ちのぼる。

鯖の味噌煮がちょうど煮詰まりすぎる前に火を止めて、小鉢にはほうれん草のおひたし。

人参と油揚げの煮物も味が染みて、汁椀に豆腐とわかめの味噌汁をよそう。


炊きたてのご飯をふんわりと盛ったとき、

背中のほうから、誰かの視線を感じた。


台所の音も、湯気の匂いも、さっきまでと同じなのに。

ただ空気の密度だけが、すこし変わっていた。


振り返ると、

父がいた。


何も言わず、ただそこにいた。

火葬したはずの、五年前に別れた父が。


いつもの部屋着パジャマ着て、

なにげなく、そのへんに立っているように見えて、

まるで昨日まで一緒に暮らしていたみたいだった。


声が出なかった。

怖いとかではなく、悲しさが一気にあふれて、言葉にならなかった。


父は、にこりともせず、

けれども、私が作った食卓をじっと見ていた



父は、黙ってテーブルの椅子に腰を下ろした。

ご飯に手はつけない。ただ、食卓をじっと見ていた。


湯気の立つ味噌汁。つややかな白ごはん。

鯖の味噌煮の、焦げかけた端が少し気になったけれど、

父はそれをじっと見て、ぽつりと言った。


「……美味しそうだな」


私はその言葉に、どう返していいかわからなかった。

声が出る前に、父がもう一言つけ足した。


「こんな立派なご飯、作れるようになったんだな」


たったそれだけの言葉なのに、

心の奥がじんわりとあたたかくなって、痛くなって、苦しくなった。


もっと、ちゃんと伝えたいことがあった。

「遅くなってごめんね」も、「ありがとう」も、

本当は、もっとずっと早く言いたかった。


でも、今ここでやっと——

お父さんの目の前に、私のごはんを出せたことが、

それだけで、もう、どうしようもなく嬉しかった。


父は箸を手に取って、少し迷うように、でも自然な手つきでご飯を口に運んだ。


鯖の味噌煮をひと口食べると、目を細めてふっと鼻で笑った。


「……うまいな」


それだけで、胸の奥がじんとした。

なんでもない顔で食べてくれることが、こんなにうれしいなんて。


父が静かに食事を続けるその横顔を見つめながら、ふと私は思い出した。


——ああ、今なら。一緒に飲める。


昔は、父が晩酌を始める時間が少し寂しくて。

お猪口に注がれた日本酒の匂いが苦手で、

結局、最後まで「お酒の相手」なんてできなかった。


でも、今は違う。夫が教えてくれた。

ゆっくり飲む喜びも、料理に合うお酒の味わいも、少しずつ覚えた。


私は急に立ち上がって、台所に向かった。

引き出しの奥に冷やしておいた、小さな一合瓶と、お猪口を取り出す。


「ねえ、お父さん」


振り返ってそう呼びかけたとき、

父は箸を止めて、顔を上げた。


「私、日本酒、飲めるようになったの」


少し照れながら言うと、父は、

ほんのすこし、目を見開いて——すぐに笑った。


「……そうか。飲めるようになったのか」


その顔が、本当に嬉しそうで、

泣きそうになるのを、私は急いで日本酒を注ぐ音でごまかした。


お猪口に注いだ冷酒を父の前に置くと、

父は照れくさそうに、それを片手に持ち上げた。


私も自分の分を注ぎ、ふたりで小さく乾杯をする。

カチン、と小さな音が鳴っただけで、会話はすぐに静かになった。


ひと口飲んで、父は「お、飲めてるじゃないか」と笑った。

私も笑ったけれど、胸の奥がずっと熱かった。


——言いたいことがある。言わなきゃいけないことがある。


「……ねえ、お父さん」


私の声は、少し震えていた。

父は黙って、視線だけをこちらに向ける。


「私、ね……男を見る目がなくて、

ずっとお父さんに心配ばっかりかけてたと思う」


そこまで言ったとき、

父がふっと笑った。

でもそれは、呆れたような笑いじゃなくて、

どこか、懐かしいものを思い出すような笑いだった。


「最後の最後まで、ちゃんとした人を紹介できなかった。

ごめんね、あのとき……なにも、見せてあげられなくて」


自分でも、声がどんどん細くなるのがわかった。

でも、伝えたかった。


「だけどね。お父さんが亡くなってから……出会ったの。


私のことを、ちゃんと大事にしてくれる人。

どんなときも、私を丸ごと愛してくれて、

世界で一番、私を幸せにしてくれる人」


父は、何も言わなかった。

けれど、その目がやさしく細くなっていくのを見て、

私は、もう一度、はっきりと言った。


「会わせたかった。お父さんに、あの人のこと、ちゃんと紹介したかったよ」


小さな沈黙のあと——

父は、少しだけうなずいて、

お猪口をゆっくりと、口元に運んだ。


まるで、

「……なら安心だ」と、酒でその言葉を飲み込んだようだった。



日本酒のお猪口が、少しずつ汗をかいていた。

父は黙って、ゆっくり酒を口に運びながら、

まるで、私の言葉をすべて聞ききってやるぞというような顔をしていた。


「私さ……ほんと、やんちゃだったよね」


ぽつりと、笑い混じりに言ったけれど、

父の表情は変わらなかった。


「夜遊びもいっぱいしたし。門限破って、嘘ついたことも何回もあったし……

何もかも、心配かけてばっかりだったよね」


目の奥が熱くなってくる。

それでも、止まらずに言葉を続けた。


「……ごめんなさい」


父の手が、少しだけ止まった。


「安心させてあげられたこと、少なかったかもしれない。

でも、怒られても、呆れられても……

お父さん、私のこと、見捨てなかった。見限らなかった」


声が震えても、止めなかった。

今ここで言わなきゃ、一生言えない気がしたから。


「それが、どれだけ……嬉しかったか。

どれだけ、支えになってたか。いまならわかる。

ありがとう。

ほんとうに、ありがとう。」



父は何も言わなかった。

けれどその顔は、確かにどこか——

ほっとしたように、ゆるんでいた。


静かな夜のなか、ふたりの間に流れるのは、

過去でも未来でもなく、「今この時間をちゃんと共有できている」という、

たしかな安心だった。



お猪口を両手で包みながら、

私はふと、父の目を見た。


お酒のせいじゃない。

心の奥から、ぽろりとこぼれた言葉だった。


「……ねえ、お父さん」


父は、私の顔をまっすぐに見つめていた。

静かで、でもあたたかい目。


「お父さん、天国から……私のこと、見てた?」


一瞬の沈黙のあと、父はふっと鼻を鳴らした。

「見てたよ」なんて言わなくても、その仕草だけで、

ちゃんと見てくれてたってわかるような、そんな顔だった。


「ねえ……私の夫、どう思う?」


父は、ゆっくりお猪口を置いた。

私の言葉を待っているようだった。


「とってもね、素敵な人なの。

優しくて、ちゃんと私のことを見てくれてて……

料理の味に、ちゃんと“ありがとう”って言ってくれる人」


ぽつり、ぽつりと語るたびに、

父の目が少しずつ細くなって、口元がやわらかくなっていく。


「最初は怖かった。

お父さんが見たら、どう思うかなって……

ちゃんと認めてくれるかなって」


ほんの少し、父が目をそらすように、天井を見上げた。

そして、ぽつりと呟いた。


「……おまえが、笑ってるなら、それでいい」


その声に、私は涙をこらえられなかった。



認めてくれたんだ。

ちゃんと、私の選んだ人を見てくれたんだ。


「ありがとう、お父さん……ありがとう……」


父は何も言わず、ただそっと笑って、

お猪口に残った酒を、最後の一滴までゆっくりと飲み干した。




ほんの少し、日本酒の香りが冷たく、甘く鼻を抜けた。 父の隣で、私はゆっくりと口を開いた。


「ねえ、お父さん」


父は、静かにこちらを見ていた。

まるで、また“なんでも話していいぞ”とでも言うように。


「……あの頃、私、日本酒のこと、全然わかってなかったよ」


苦笑するように言うと、父の口元が少しだけゆるんだ。


「夜ごはんにさ、カレーライスとか出してたよね。

今思うと、ぜんっぜん合わないのに」


そう言うと、父はふっと小さく笑った。

声を出すでもなく、ただ目尻がやさしくなるような笑い。


「今だったらね、ちゃんとわかるんだよ」


私は言った。


「イカの塩辛とか、マグロの酒盗とか……

お刺身の、切り方ひとつで味が違うことも」


「あの頃はさ、そういうの、なーんにも知らなかった。

でも、お父さん、文句ひとつ言わずに……

カレーでも唐揚げでも、ちゃんと全部食べてくれたよね」


言いながら、自然と手が動いて、

テーブルに置かれたお猪口をそっと父のほうへ押し出した。


「ありがとう。ほんとに、ありがとう」


父は一度だけ、目を伏せるようにして、

お猪口を手に取り、

そのまま、そっと一口、酒を飲んだ。


そして言った。


「……おまえがつくる飯なら、何でもうまかったよ」


その声が、懐かしくて、やさしくて、

私の胸の奥に、もう一度、ぽたりと涙が落ちた。



父が、そっと席を立とうとした。


「え……もう、行くの?」


思わず、声が出た。

自分でもびっくりするくらい、かすれて、弱々しい声だった。


父は一度立ちかけた身体を止め、私の方を振り返る。


私の胸の奥から、言葉があふれた。


「まだ……行かないで」


声が震える。止められない。


「まだ一緒にいてほしい。……もっと、話したいよ」


父は静かに、微笑んでいた。


「……頭、撫でてよ。昔みたいに」


父の目が、すこしだけ潤んだように見えた。

そして、歩み寄って、そっと私の髪に手を伸ばす。


やさしくて、大きな手だった。

あの頃と同じ。何も変わらない。


なでられるたびに、涙が止まらなくなっていく。


「寂しいよ……

ずっと、寂しかったんだよ」


父の手が、少しだけ強くなった。

まるでその涙ごと、抱きしめてくれるように。


私は目を閉じて、その手の感触を心に刻んだ。


「……ずっと見守ってるよ」


父の声が、耳元に落ちてきた。


「これから先、何があっても、おまえが笑っていられるように、

ちゃんとそばで見てるから」


「ほんとに?」


「ああ、ほんとに」


手が、ふっと離れていく。

それが、もう戻らないと知っている別れ方だった。


私は涙をぬぐいながら、最後に微笑んだ。


「また夢で会える?」


父は、少し笑って——

まるで昔みたいに、軽く手を挙げて、

ひとことだけ、言った。


「またな」



父の姿が、すうっと消えた。

呼び止める間もなく、風のように、ふっと。


気づけば、テーブルの冷酒は空っぽになっていた。

グラスの内側にだけ、冷たさの名残が残っていて、

あとは、お猪口に少しついた父の指の跡と、

窓から舞い込んだ桜の花びらが、ぽつんと一枚。


私はそのまま、しばらく動けなかった。


涙が頬をつたっても、拭う気にもなれなくて、

春の夕暮れに、ただぽつんと座っていた。


「ただいまー」

ガチャリと玄関のドアが開いて、夫の声がした。


「いやー、今日も混んだよ、足棒になっちゃうな……

ラーメン屋の店長も楽じゃないんだよぉなぁ」


ぽてぽてと玄関からリビングへ、

丸いシルエットが現れる。


狸みたいなまんまるの顔、

少し息を弾ませているけど、笑ってる。


「……ん?えりこ? どうしたの?」


私の顔を見るなり、夫は足を止めた。


「泣いてる……?なにかあった?」


私は首を振って、でも、やっぱり涙が止まらなくて、

小さく声を震わせながら言った。


「……お父さん、来たんだ」


夫の目が、少しだけ見開かれた。

それからゆっくりと、テーブルの上に目をやる。


空っぽになった冷酒の瓶と、2つのお猪口。


「……そっか」


夫は静かに隣に腰を下ろして、

私の手を握った。

ふわふわしてて、あったかくて、

その手のぬくもりに、私は少しずつ呼吸を取り戻す。


「僕も、会いたかったな

挨拶、したかった……えりこのこと、ちゃんと守ってるって」


そうつぶやいた夫の声は、少しだけ震えていて、

でもどこか、桜の風みたいに優しかった。



夫――ゆうちゃんは、私の手をぎゅっと握った。 ふわふわであたたかくて、まるで春の陽だまりみたいだった。


私は涙をこらえながら、小さく笑って、

ゆうちゃんの目を見て、ゆっくりと言った。


「……お父さん、ね。ちゃんと見てたよ」


ゆうちゃんの目が、少し驚いたように細められる。


「えりこのこと、ゆうちゃんがどれだけ大切にしてくれてるか、ちゃんと分かってた」


私の声は少し震えていたけど、確かだった。


「『いい男だな』って……お父さん、言ってた。

ちゃんと……認めてくれたんだよ」


ゆうちゃんは、しばらく黙っていた。 けれどその目が、ゆっくり潤んでいくのが分かった。


「……そっか」


声はとても静かだった。

それでも、胸の奥にじんわり響くものがあった。


「……ありがとう、お義父さん」


そう言って、ゆうちゃんはテーブルに残った父のお猪口をそっと見つめた。

そして、父が座っていた椅子の方を向き、何も言わずに深く一礼するように頭を下げた。


その姿を見て、私はまた涙があふれた。

でも今度は、悲しみだけじゃなかった。

あたたかくて、胸がいっぱいになるような、そんな涙だった。


「……ねえ、ゆうちゃん

お父さんの故郷、行かない? 福島」


ゆうちゃんは私の顔を見て、少し目を細めた。

そして、うん、行こうよって、すぐに言ってくれた。


「赤べこ見てさ、会津の町、歩いて……」

「福島の地酒、ちょっと飲んじゃったりして」


「いいねぇ。利き酒とかあるのかな」

「イカの塩辛、用意しなきゃね」


私はくすっと笑って、首を縦にふった。

「それでね、お土産を買いたいの」


「……お父さん、大好きだったの。『柏屋の薄皮まんじゅう』。覚えてる」


ゆうちゃんは「へぇ、そうなんだ」と穏やかにうなずく。


「あと、冷酒も一本。お父さんの好み、きっと見つけて帰る。

……そしたら、うちに帰って、仏壇にお供えするの」


私はそっと、テーブルのお猪口を見つめた。

今は空っぽのその器が、次は福島の冷酒でまた満たされる。


「『行ってきたよ』って、言いたいの。ゆうちゃんと一緒に行ってきたよって」


「うん、絶対喜ぶよ」

ゆうちゃんは、手をあたたかく包み込むように握ってくれた。


ふたりで帰ってきたら、おまんじゅうを一個開けて、

お仏壇の前で、小さく声に出して報告しよう。


『ちゃんと行ってきたよ』

『ゆうちゃんと一緒だよ』

そして、そっと冷酒を注いで――

また、お父さんと一杯やろう。



そして花が散り、新しい緑が芽吹くころには、あの日の涙も少しだけあたたかくなっていた。




夜の静けさのなか、仏壇の前に、私とゆうちゃんは並んで座った。

福島から持ち帰った薄皮まんじゅうと、地酒を丁寧にお供えする。


「ただいま、お父さん」

小さく声に出して、ゆっくりと報告を始めた。


「福島、とっても素敵なところだったよ

景色がきれいで、空気も澄んでて……地酒が、すごく美味しかった」


ゆうちゃんが隣で、うんうんとうなずいている。

私はまんじゅうの包みを少し開けて、懐かしい香りに目を細めた。


「お父さんの好きだった薄皮まんじゅう、買ってきたの。ちゃんとお供えするね。

それと、有名な福島のお酒もね。冷酒で、すっきりしてて、お父さん好みかも」


ゆうちゃんがやさしく笑って言った。

「お義父さん、喜んでるね。……僕も会いたかったな」


私はそっと手を合わせる。

言えなかった言葉が、今ならちゃんと届く気がした。


「……お父さん、ずっと見守っててね。

私、お父さんにちゃんと、言えてなかった

愛してくれて、ありがとう

ほんとうに、ありがとう」



隣でゆうちゃんが、私の肩を優しく抱いた。

そのぬくもりのなかで、仏壇の蝋燭の火が、ふっと揺れた。


まるで、お父さんがそこにいて、

微笑んでくれたような気がした。

この物語を書き終えた今、少し肩の力が抜けた気がします。

日々の暮らしの中で、頭の片隅にずっとあった光景や言葉たちが、ようやく形になってくれました。


読んでくださったあなたが、登場人物の誰かに少しでも共感したり、思い出のどこかに似た情景を見つけたりしてくれたのなら、それ以上の幸せはありません。


実はこの作品には、私自身の思い出や、家族とのやりとりが、ところどころにひっそりと紛れ込んでいます。気づいた人は、なかなか鋭い(笑)。


書くという行為は、一人きりの作業に見えて、誰かの存在を感じながらでないと続けられません。

だからこそ、家族のみんながそばにいてくれることが、どれだけ大きな支えになったか、あらためて感謝しています。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ