《第1章/アーハルムート 1》
《月過歴2226年5月1日/7時40分/天の国/央の宮/雨の間》
この日、僕。御門晃晴は長兄である御門龍弦に呼び出された。
朝食の席で、霧雨から告げられたその知らせに、僕はため息をついた。
最近、こればっかりだ。
しばらくは綴師の仕事は無いだろうと思って、休む予定だったのに…
皇太子として選ばれてから4年。自慢じゃないが、頭はそこそこいい方だと思う。実力はさておいて…
とにかく、皇太子としての座学の教育はそろそろ終わりを迎えようとしていた。その為、実践を主に活動していた。ここ2か月ほどは他の国に赴き、綴る、綴る…その繰り返しだった。
「今日は、久々に霧雨と馬に乗る予定だったのに…」
少し、気落ちしてしまった僕は俯く。
ことんと机に何かが置かれた音がした。この音は、茶器だ。そう思い、目をやると、霧雨がお茶を入れてくれたようだった。
「ありがとう。霧雨…」
「大丈夫ですか…お疲れですよね…」
お茶に手をつけた僕を、霧雨が心配そうに見た。綺麗な青い瞳を少し潤ませる霧雨は、心配です。と顔に書いてあるかのようにわかりやすかった。その表情に少しだけ、疲れが和らいだ気がした。
僕には、こんなにもわかりやすく心配してくれる人がいる。それがどんなに嬉しいことか…
母を幼い頃に亡くし、乳母や他の女中に蝶よ花よと育てられてきた。しかし、それは僕の地位が高くなることを期待しての、投資だった。それに気づいてからは、誰かに心を開くのは無駄なことなのではないかと思い始めたころだった。父が霧雨を紹介してくれた。
あの時のことはよく覚えている。霧雨は、何かに脅えながらも、浮かない顔をしていたであろう僕を、央の宮の中庭に連れ出し、たくさん遊んでくれた。かくれんぼ、鬼ごっこ、池で鯉を見たり、花冠の作り方を教えてもらったり…とにかく、楽しかった。少し年上の友達ができた感覚だった。
「あ、あの、晃晴様?」
「なに?」
「そんなに見つめられると、ちょっと、どうしたらいいかわからないのですが…」
考え事をしていて、ずっと霧雨を見ていたみたいだ。
霧雨が恥ずかしそうに頬を染めるのを見て、僕はさらに笑みを深めた。
「昔のことを思い出していたんだよ」
「昔?」
「僕が7歳の時だった。霧雨と遊んでいたときに、木から落ちたことがあっただろう」
「ああ、そんなこともありましたね。本当にあの時は心配しました」
霧雨の目が少し緩んだ。
ああ、あの時の事を思い出してくれてるんだ…
かくれんぼをしていて…木に実がなっているのを見つけて、霧雨に見せてあげたくて、木登りなんかしたこともなかったのに登って、木の実を取ろうとしたら、足を踏み外して…落ちてしまったんだ。
その音に気付いた霧雨は、父を呼んできて、目覚めない僕を必死に看病してくれたという。
目が覚めた僕に、目を吊り上げて危ないことをしないで、心配したと最後は泣きながら、今と同じ顔をしながら抱きしめてくれた。
その暖かさに…僕も泣いてしまった。この人は、真に僕を大切に思ってくれている。そのことが、直感でわかってしまった。
そんなこともあって、自分の側にいて、今度は僕の隣で笑ってほしくて、側使えになってもらった。
目の前に立つ霧雨の両手を取る。今感じている気持ちを共有したくて…
無理だとわかっていても、この気持ちを汲み取ってほしくて……
「君が、あの時と同じように…同じ目で、同じ表情で僕を心配してくれる。こんなに嬉しいことがあるかな。霧雨はずっと変わらない。変わらずに僕のことを思って一緒にいてくれる。隣にいて笑ってくれる。僕、すごく…幸せなんだ。」
「私も…です。主にするなら晃晴様がいいって思ってました。こうしてお使えできること、とても幸せです。」
その言葉に、満足して微笑むと、霧雨も微笑み返してくれた。
「晃晴様。霧雨殿。よろしいでしょうか」
閉ざされた扉の奥から、女中の“麗”の声がした。
「入っていいよ。麗」
ゆっくりと開けられた扉が開けられ、麗は部屋に入ってきた。こちらをまっすぐ見つめてから、礼をした。その時に、この国では少し珍しい、高くふたつに結った栗色の髪を揺らした。
「どうしたの?」
「いえ…これから、赤の宮に向かわれるとのことなので…。私が必要かと思ったのですが。」
皇城の西に位置するこの赤の宮は第2夫人のお気に入りで、長兄と次兄が住む宮だった。
あの宮には側使えの朝霧と夕霧がいる。鉢合わせる可能性がある以上、霧雨は連れていけない。
昔からあいつらはいけ好かないんだ。僕に媚びてくるくせに顔には違うことが書いてある。霧雨もあの2人と何かあったらしく、沈んだ顔をしていた。
霧雨のことを思うなら、赤の宮には連れていかないほうがいい。
だけど…
「いや、赤の宮には霧雨と行くよ。気を使ってくれてありがとう。麗」
その言葉にはっとしたようにこちらを見た霧雨に微笑む。
「霧雨。朝霧と夕霧は怖いかい?」
「正直に言うと…少し。でも、私は皇太子殿下である晃晴様の側使えです。私個人の都合のために貴方様が気になさることはありません。他の皇子様方の宮に行くのに皇太子殿下に側使えがいないなど、晃晴様の…ひいては晃晴様を皇太子に指名した皇帝陛下の沽券に関わります。」
「……そう言うと思った。」
霧雨はにこりと笑った。
その満足そうな、幸せそうな顔に安心した。
どうしても霧雨のことを友人のような、兄弟のような気持ちで接してしまう。
きっとこの気持ちは、これからの僕らには絶対に必要なものではないのだろう。だけど、僕は捨てたくない。
「霧雨。出かける準備をするから衣裳室にいこう。麗は赤の宮への手土産の準備を頼むね」
霧雨の手を引いて、扉に向かう。
麗は扉を開き、頭を垂れた。
廊下に進んだとき、霧雨から手を離され、後ろに控える。
その行動は、側使えとして正しい行動だろう。
「霧雨、隣においで。」
「いえ、私は側使えですから…」
「そうだけど、違うよ。今は誰もいないんだから…だから、隣にいてよ」
再び、霧雨の手を取る。
ねぇ、覚えてる?霧雨。君はあの頃、僕の手をつないで遊んでくれた。
誰も触れてくれなかった僕の手をつないで…
他の人は恐れ多くてとかそんなことを言って、僕と必要以上に接触することを避けた。
でも、君はそんなこと関係ないみたいに、僕が誰か知っているはずなのに、僕の手を引いて歩いた。
霧雨。君は立派な側使えになって、僕を支えたいって思ってくれているんだよね。
ごめんね。僕のわがままで困らせて…
捨てたくない思いを、君のことも考えながら生きていきたい。
誰かを思うことは咎められることではないはずだから…
《月過歴2226年5月1日/9時11分/天の国/赤の宮へ行く途中》
僕の住む央の宮から出て、西に行くと見える赤の宮。小高い丘に佇むその屋敷は、この霧に包まれた天の国でも一番目立つ朱色の宮だった。
「今日は霧が濃いな…足元に気をつけてね。霧雨」
「はい。晃晴様もお気をつけてくださいね」
そんな、お互いを思いやる会話を交わしながら、岡の頂上につく。
赤の宮だ。
しかし、兄上が僕を赤の宮に呼び出す…
おそらくは仕事の話だ。それ以外に長兄が僕に会う理由がない。
門を潜り、霧雨が屋敷の玄関にある訪問を告げる鐘を鳴した瞬間、ガラリと扉が開いた。
「お待ちしておりました…晃晴様。」
「朝霧…」
扉を開けたのは朝霧だった。
霧雨が名前を呟いたようだった。しかし、それはほぼ声になっていなかった。近くにいたからか、朝霧がその音に勢いよく顔を上げる。
「き、霧雨…」
朝霧は、感極まったかのように、目を潤ませ、霧雨の名を呼んだ。霧雨の表情は見えなかったが、動揺は感じなかったので安心する。
そのまま霧雨に触れようとしたのか、腕を動かそうとしている朝霧に、誰の許可を得て僕の側使えに触れようとしているのかと、短剣に手を触れた。
「朝霧。晃晴様の御前です。控えなさい。」
普段の彼からは想像もできないほどはっきりとした、静止の声が聞こえた。
普段、穏やかな霧雨だが、よくよく思い出してみれば彼は側使えとして訓練を受けた人間だった。
その霧雨の凛とした姿に臆したのか朝霧が一歩下がったときだった。
「何をしている」
全員が驚いたかのように静止する。
龍弦兄上だった。兄上は誰よりも切長の目で、僕たちを睨みつけていた。
その迫力は、さすがいくつもの仕事や修羅場を乗り越えてきた年長者といったところか…
廊下の奥からこちらに早足で来た兄上は、履き物も履かずに僕の前に立った。
「何をしている。晃晴」
兄上の目線の先は、僕の手だった。
僕は短剣に手を置いたままだった。
「晃晴様、申し訳ありません!」
「朝霧。謝らなくていい。こうなったのは晃晴のせいだ。」
短剣を見て僕がなぜ手をふれているのか察したのか、間髪入れずに謝罪をした朝霧に、そんなことはあり得ないが、まるでその言葉が聞こえてないかのように僕の目をまっすぐ見て言った兄上に、有無を言わせないという圧を感じ、思わず目を逸らす。それがこの異様な雰囲気を分散させたかのように、一気にいつもの空気感に戻った。
……やっぱり、兄上はどこか父上に似ている。
「朝霧。霧雨と応接の間で待っていろ」
「お言葉ですが、龍弦様。私は晃晴様の側使えです。職務の話であれば共にお聞きしなくてははいけません」
「2人きりで話したいこともあるのだ。霧雨、皇太子殿下の側使えとして心配だろう。だが、この御門龍弦の名において、この屋敷の中では皇太子殿下が羽を伸ばし、かつ、不手際などが起こらないよう努める。いかがだろう。」
僕と離されるのが側使えとして不服だったのか、霧雨はすぐに兄上に食ってかかった。
2人は少しの間、目を合わせると、霧雨が視線を切り、頭を下げた。
「……龍弦様にそこまで言われては、こちらも無理を通すわけにもいきません。どうぞ、晃晴様をよろしくお願いいたします。」
兄上の方が一歩上手だった。皇太子付きと言えど、ただの側使えである霧雨にはこの状況の打破はできない。
「…よかった。お前は大丈夫だな」
そう霧雨に呟き、玄関の段差を上る。
朝霧は手巾を取り出して、兄上の足を拭った。
「朝霧。わかっているな」
「…もちろん。わかっております。」
「いくぞ、晃晴」
そう言って振り返らずに廊下を進む兄上に急かされているように感じ、靴をさっと霧雨に脱がしてもらう。
「ありがとう。霧雨。」
朝霧と2人きりにしてしまうのは心配だが、きっと君なら大丈夫。
そう伝えるように髪を触り、兄上の後を追う。
……また後で。霧雨。