落ちて落ちて
夢の中を冒険したあの少女は、どうやって夢から醒めたのだったか。
ルイスキャロルの本を、ちゃんと読んでおけばよかったと、心の底から後悔した。
落下していく。もう落下しているという感覚さえない。とある地獄には、行くだけで何万年とかかる地獄があるらしいが、これがそうなのだろうか。
無限とも思われる時間の中で、暗闇を凝視し続けていると、いつの間にか私は椅子に座っていた。
椅子はふかふかしており、しっかりとした作りだった。
よく周りを見渡すと、映画館のようで、目の前には大きなスクリーンが垂れ下がっている。周りの椅子には、犬や、カバや、動物のぬいぐるみが椅子に座っていた。
「悪い子がきた」
「本当だ、とっても悪い子がきたよ」
「いーけないんだ、いけないんだ」
周りのぬいぐるみたちは、幼児のような声を出しながら、私を糾弾する。右隣の猿のぬいぐるみは私の頭を叩き、左隣のネズミのぬいぐるみは私の足を叩く。前に座っているカバのぬいぐるみは、私の方を向きながら、ひたすら「アホがこっち見てる」と罵倒した。
「な、なんなんだ。私はなにもしてないぞ」
「悪い子反省してないぞ」
「本当だ、とっても悪い子だ」
「悪い子だから、落ちるんだ」
「いけない、いけない。つまなきゃ」
「忘れちゃってる悪い子だ」
ぬいぐるみたちはその可愛らしい見た目に反して、ずっと私を罵倒する。困惑していると、劇場内の光が弱まり、スクリーンに映像が映し出された。
「始まるね」
「始まったね」
ヒソヒソとぬいぐるみたちが小さな声で話す。スクリーンを見ると、廊下を這いずっている男がいた。
私だ。私が廊下を芋虫のように這いずっている。
先ほど見たテレビの映像と同じように、顔色は幽霊のように真っ白だ。立つのも厳しいのか、四つん這いにもなれず、床を這いずって前に進もうとしている。
この私はどこに進もうとしているのか、さっぱり見当もつかない。
スクリーンの中の私は、机の上に散らばっている大量の錠剤を掴む。無造作に掴んだそれを、ラムネを食べるように口に放り込んだ。
膨らんだ喉仏が上下に動く。落ち窪んだ目には水が溜まり、流れ出した。
スクリーンの中の私は、錠剤を飲み込むと、また床に倒れ込んだ。体を丸め、寒いのかしきりに震わせている。
再び虫のように這いずって床を進んでいく。今度はどこに行こうというのか。
「トイレに行きたいんだよね」
「たくさん薬を飲み込んだから、気持ち悪くなっちゃったんだよ」
「げーげーしたいんだね」
「本当にバカだなぁ」
ぬいぐるみたちはスクリーンに向かって、やいやいヤジを飛ばし始める。
「バカだなぁ」
「苦しいのにもっと苦しくなってるんだよ」
「苦しいことから逃げたいだけなのにね」
このぬいぐるみたちは、スクリーンの中の私の状況を理解しているのだろうか。そもそも、なぜこの子たちは私に対してこんなに酷いことを言うのだろう。
スクリーンの中の私はトイレに行こうと這っているが、全く進んでいない。途中、我慢しきれず、吐瀉物を吐き散らしている姿は、哀れで惨めで、見ていられなかった。
「可哀想だなぁ」
「可哀想」
「本当に馬鹿だなぁ。どうして頑張ってくれなかったんだろう」
「僕たち、ずっとそばにいたのに」
ぬいぐるみたちの罵倒の声は、次第に啜り泣くような声へと変わっていく。
隣にいた猿のぬいぐるみは長い手を自分の目にやり、顔を伏せた。ネズミのぬいぐるみは、鼻をしきりに擦っている。まるで人間のようだった。
居心地が悪くなり、席を立とうとする。しかし、座席に縫い付けられたように、全く体が動かない。
「僕たち、もっと君と一緒にいたかった」
「僕たちのことも忘れちゃったの?」
「ひどい、悪い子だ」
「頑張るのをやめちゃった悪い子だ」
ぬいぐるみたちの啜り泣く声は、私を糾弾する。一体私は何を忘れたのだろう。耳を塞ぎたい、スクリーンから目を逸らしたい。
「目を逸らしちゃダメだよ」
「もうダメだよ」
「思い出して」
ぬいぐるみたちは私が逃げることを許さない。にげる? 何から?
「思い出すまで君はどこにもいけないよ」
照明が落ちる。全てが暗くなる。何も見えない。たくさんいたぬいぐるみたちの気配も消えてしまった。
私は一人、暗闇に閉じ込められたのだろうか。背中に流れる冷や汗を感じながら、目を瞑った。
ぬいぐるみたちの、目を逸らすなという声が、何度も脳裏に再生された。