暗い部屋は奈落
何も見えない。腕も上がらない。背中には大きな岩が常に乗っているようで、立ち上がるのも辛かった。立ち上がるのは諦めて、うつ伏せになったまま、這いずっていく。
どこに行こうとしていたのか、どこに向かいたかったのか。
そうだ、増川。あの黒い扉。あれはいけない。あれを開いてしまったからだ。パンドラの箱のように、あの扉は開いてはいけないものだったのだ。
逃げなければ、あの黒い扉から、遠く、明るい場所に……
「うぅ……」
泥の中で目が覚めたような、嫌な気分だった。部屋は暗く、まだあの黒い煙が充満しているのかと思ったが、そうではないらしい。
私はベッドの上にいた。増川が寝かせてくれたのだろうか。恐る恐る見た黒い扉は、キチンと閉まっており、何事もなかったかのようにそこに佇んでいる。
私はベッドに再び寝転がると、天井を見上げた。あの異様な煙は一体何だったのだろうか。それとも、夢でも見ていたのか。
「一体どうなっているんだ……」
久しぶりに柔らかいベッドで眠っていたから、体が少しは楽になるかと思ったが、あちこち痛んだままで、疲労が蓄積している。
無性に喉が渇いた。鉛のような体を引き摺ってリビングに行く。
「あれ……?」
リビングは眠る前と違い、家具が増えていた。座卓ぐらいしかなかったリビングには、棚がいくつも壁に並んでいた。棚の中には、古臭い時代遅れのラジオや本が無造作に置かれている。本はミステリーやホラーが多く、塚本の好むものとは思えなかった。
「いつの間に……増川か?」
棚の中にある本を一つ手に取ってみると、アガサ・クリスティのアクロイド殺しだった。
そういえば、読んだことがなかったと思い、パラパラとページを捲る。だが、ページの中には、子供が滅茶苦茶にペンを走らせたような落書きしかない。
他の本を手に取ってページを捲ってみても、同じように落書きしか書かれていなかった。
わざわざ人が寝ている時に、こんなことをする必要がどこにあるのだろうか?
「何がしたいんだあいつは」
増川は昔から変わったやつだった。
外を歩けば、雑草が気になると藪の中に入っていく。博物館では、一つの展示物に対して三百六十度観察した後、説明文を読んで、自身の知識と目の前の物を照らし合わせながら、自分の知的好奇心が満たされるまでそこに居続ける。他の人たちが足を止めない場所でも、気になれば、何時間でも立ち止まり、思考を巡らせる。大学時代、沖縄の豆腐が気になると言った十分後には、空港に足を運ぶほどの行動力と思考の読めなさであった。その時に貰った沖縄土産の、その辺に転がっていたらしい石は、今でも我が家の文鎮として活躍している。
そんな増川のことだから、きっと考えるだけ無駄なのだろう。きっと楽しそうだったからとかいう理由で、寝ている間に人の家に家具を増やすぐらいする。塚本は慣れているから、増川の奇行の数々に驚きはしても、激怒はしないだろうし、流石に家主には事前に連絡を入れているはずだ。
考えることを諦めて、台所の蛇口を捻る。口を近づけて、水を飲むと、少しだけ乾きがおさまった気がした。
袖口で口元を拭くと、背後で機械音が鳴った。勢いよく振り返る。ノイズの混じったそれは、棚にあるラジオから流れていた。
「な、なんだよ……勝手にスイッチでも入ったのか……?」
恐る恐る近づくと、耳障りな音はさらに激しくなっていく。ノイズ混じりの音は、調節もしていないのに、鮮明な音に少しずつ変わっていった。
『い……なっ……から……よ……る……』
女の声だった。何故か、年の行った初老の女のイメージが浮かび上がる。ノイズが酷く、全体を聞き取ることはできないが、何故かそれを聞くと、責められているような気分になってくる。
不快さにスイッチを切ろうとするも、どこに電源があるのかわからない。ひっくり返してみても、見つけることができず、その間もずっと壊れたように、不快な何かを喋り続けている。せめて音量調節のボタンはないかとあちこち触るも、全く見つけることができず、諦めて棚の奥深くに押しやった。
『いっ……いつ……もっと……が……ば……』
耳障りな音から逃げるように、風呂場に行く。柔らかいベッドに潜りたかったが、あの黒い扉があると思うと、戻りたくなかった。
バスタオルを体に巻き付けて、乾いた湯船に寝転がる。底冷えする寒さで、足先がかじかんだ。
目を瞑ると、遠くから、ノイズの混じった女の声が遠くから延々と喋っているのが聞こえた。