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 硬い床の上で目が覚めると、カーテンの隙間からは、燦々と太陽が差し込んでいた。

 携帯を見ると、もう昼の十二時を回っていた。ずいぶん長く眠っていたらしい。

 目が覚めても、自分以外の気配は感じられず、誰かが入ってきた形跡もない。かといって、何故この家にいるのかも未だ思い出す様子もなかった。はてさて、どうしたものか。

 あの異臭のする部屋にはまだ入ってはいないが、なぜかあの扉を思い出すだけで異様に背筋が寒くなる。もう視界にも入れたくないのだが、木製の扉の部屋もよく調べていないこともあって、再び足を部屋に向けた。

 

 木製の扉の部屋は眠る前となんら変わっていなかった。できる限り、黒い扉の方には目を向けず、部屋の中を調べる。相変わらず黒い扉の向こうから、鼻の曲がるような異臭がしたが、着ていた服を鼻の上まで引き上げて、マスク代わりにしてなんとか凌ぐことにした。

 パソコンはおそらく電源をつけてもパスワードがわからないので放置する。テレビは普通に点き、昼のワイドショーが流れた。

 黒い扉の嫌な雰囲気を誤魔化すために、そのまま流すことにする。賑やかで明るい、人の声が流れるだけで、張り詰めた精神が、少しばかり緩んだような気がした。自分では気がつかなかったが、どうやらこの異常な状況にだいぶ疲れていたらしい。

 ベッドに座り、部屋を見渡す。どことなく、友人の塚本の部屋に似ている気がする。ベッドの下にある服入れには男物の服しか入っておらず、服の趣味も、塚本がよく着ていたものと一致していた。やはり、ここは塚本の家なのだろうか。

 そういえば、本棚を見れば、その人間の人となりが分かるという話をどこかで聞いたような気がする。

 本棚の近くには、あの黒い扉があるので、全く見ていなかったのだが、意を決して本棚の前に立った。

 本棚の前に立つと、左側にある黒い扉の異様な気配と、強くなる異臭に顔が歪む。手で鼻を押さえながら、さっさと終わらせようと、本棚をざっと見た。

 本棚には、漫画や小説、博物館や美術館の図録、歴史関係の資料がギッチリと詰まっている。

 漫画など、学生時代に塚本から借りたタイトルのものが揃っているから、よっぽど趣味が似通っている他人か、塚本かの二択らしい。

 しかし、この家に住んでいるのが塚本であった場合、何故私は塚本の家に来た記憶がないのだろうか。

 ちら、と隣の黒い扉を見る。扉は相変わらず、臭く、異様な佇まいをしていた。

 生唾を飲み込む音が、ワイドショーの音に飲み込まれる。黒い扉のドアノブに手を触れると、氷を触った時のように、冷たく、肌に幾つもの太い針が刺さったかのように痛んだ。

 扉を開こうとした瞬間、扉の向こうから、バン! と何かが強くぶつかる音がした。

 ドアノブから手が離れ、尻餅をつく。黒い扉の向こうから、再び、バンバンッ!と大きく音が鳴った。

 その音は、まるで扉の向こうから人が必死に扉を叩いているような音だった。

 もしかして、同じようにこの家に閉じ込められた人間がいるのではないか? と脳裏に一つの可能性が過った。

 音の正体は、部屋の中に監禁されており、テレビの音で誰か他に人がいることに気が付き、助けを求めている。部屋から異臭がするのは、閉じ込められている人間の匂いではないのか?

 震える体を無理やり起こし、再びドアノブを握りしめる。扉の向こうから、音はもう鳴らない。

 歯がガチガチと鳴り、ワイドショーの音が遠く聞こえる。ドアノブを押し込み、勢いよく開こうとした。

 扉を開こうとした瞬間、脳裏に一つのイメージが湧き出た。


 扉の向こう側は、真っ暗な部屋である。部屋の中には、鎖に繋がれた人間が、自身の糞尿に塗れ、骸骨のような姿になっている。身体中に弄ばれた痕があり、血が滲んで、傷口は膿んで黒く、腐った果物のような見た目になっている。目は落ち窪み、髪はストレスのせいで白く、抜けているから、きっと羅生門のあの老婆のような姿になっているのだろう。

 窓などは板で打ち付けられており、至る所に人を痛めつけるための道具が置いてある。床は血で汚れてドス黒くなり、他の被害者の無残な遺体が転がっている。

 扉を開いたら最後。私の後ろには、糸鋸を持った男が立っている。その男は友人の塚本の顔を貼り付け、満面の笑みで私を見下ろしている。男は私を黒い部屋に突き飛ばすと、持っていた糸鋸で私の足を切り、動けなくした後で思う存分痛めつけるのだ。

 馬鹿馬鹿しい妄想だと分かってはいる。そんなホラー映画のような状況、起こるわけがない。

 扉を開ければ、なんてことはない、風のせいで、立て付けの悪い扉が、大きな音を立てているだけかもしれない。そもそも、今までどこを探しても、男一人がこの家に隠れるようなスペースなどなかった。玄関から家のものが帰ってきたとしても、おそらく音で分かるだろう。

 だが私の頭は、この妄想が真であると思い込んでしまった。扉さえ開かなければ、私はこの気味の悪い扉の向こうに行かなくて済む。哀れな扉の向こうの被害者のようにならずに済む。

 私は自己保身の為に急ぎ、扉から離れて、這うようにリビングへと戻る。木製の扉を叩きつけるように閉じると、ずるずるとその場にへたり込んだ。

「はぁー、はぁー」

 息が浅く、目の前がぐらぐらとする。部屋の向こう側から、消し忘れたテレビが、私を嘲笑うかのように、大勢の人がドッと笑う声が大きく聞こえてきた。



 しばらくじっとしていると、目眩も止み、体の震えも治まってきた。

「あ、そうだ」

 私はポケットに入れていた携帯を取り出す。気づいたら知らない家にいたのならば、警察を呼べばいいのだ。場所なら携帯のマップを使えばすぐに分かる。もし誘拐ではなく、警察に迷惑をかけるだけかもしれない、という思い込みを振り払い、ヒビの入った画面に指を滑らせた。

「は?」

 マップを開こうとした私の目に映った光景は、信じられないものだった。

 圏外。その絶望的な二文字が目に飛び込んでくる。Wi-Fiが飛んでいないか必死に設定画面から探すも、こんな田舎にフリーWiFiが飛んでいるはずもなく、唯一の頼みの綱である携帯は、ただの役立たずの四角い板と成り果てた。

「……はぁー」

 携帯を放り投げ、大の字に寝転がる。私が一体何をしたというのだろう。私は善人でもなければ悪人でもない。誰かの恨みは買ったこともあるかもしれないが、ここまでされる謂れはないはずだ。

 この家の人間が帰ってくるまで、待っているのも、あの黒い扉の前で見た妄想を思い出して嫌である。ならば、もうこの家から出るしかあるまい。

 私は放り投げた携帯をポケットに入れ直すと、重苦しいカーテンを全開にし、窓を開けてベランダへと出た。

 玄関から出られないのであれば、ベランダから飛び降りればいい。下には植え込みがあるのだから、悪くて足を挫くくらいだろう。

 もうあの恐ろしい黒い扉を意識せずに済むと思うと、背中に翼が生え、どこまでも飛んでいけそうな気分だった。この世は希望と光に満ち溢れ、素晴らしい世界が広がっていそうな気がした。

 鼻歌でも歌いそうな気持ちを押さえながら、手すりに手をかける。下を向くと、何故か五時ごろに見た時よりも、高く感じられた。

 きっと、ここから飛び降りると思ったせいだろう。大したことではない。そう言い聞かせるも、地面を見つめていると、段々ここが二階のアパートのベランダではなく、高いマンションだと錯覚しそうになる。

 もし、飛び降りた瞬間に、あの妄想の中の男が現れたらどうしよう。足を挫いたら走って逃げることもできない。それどころか、このあたりの地理など皆目見当がつかないのだ。助けを求めようにも、どうすればいい。

 再び現れた妄想は、どんどん暴走していき、思考はマイナス方向へと振り切れていく。

 足を手すりにかけようとしても、根を張ったように地面に張り付いており、汗が噴き出て手は滑った。何度も乗り越えようとするが、ついには、ベランダに座り込んでしまった。

「くそッ! くそッ!」

 この程度の高さですら、私は飛び越えることができないらしい。あまりの自分の意志の弱さと、被害妄想の強さに思わず悪態が口から漏れた。

 足を投げ出してベランダに寝転がると、日に当たっていた硬いコンクリートがほのかに温かい。遠くから猫の鳴き声と自転車の走る音が聞こえ、荒んだ心が少しだけ落ち着いてきた。

 先程は下の地面ばかり見ていたから、猫がどこにいるのかもわからない。猫でも見て癒されようと、再び手すりから体を乗り出すと、自転車が一台駐輪場にやってきた。おそらくさっき聞いた自転車の音の主だろう。もしかしたら、このアパートの住人が帰ってきたのかもしれない。

「……ん?」

 自転車に乗っている男の後ろ姿には、どこか見覚えがあった。その男は、自転車の籠から買い物袋を取り出すと、そのままこのアパートへと入っていく。階段を登る音が聞こえ、玄関から鍵が回る音がした。

 男は勝手知ったる様子で家の中に入ってくる。荷物を置くと、ハンガーを手に取り、上着を脱ぐ。モジャモジャの頭を掻き、ずれた眼鏡を指で押し上げた。

「増川?」

 家に入ってきた男は、大学時代からの友人、増川だった。

 増川は私と塚本と同じ大学の学部で、一緒にボードゲームをしたり、日夜アルコールを接種したり、教授からの課題の山を共に乗り越えてきた仲である。卒業後もよく会っており、塚本と増川と私は気の置けない仲であった。

 増川が家の鍵を持っていたということは、ここは増川の家だったのか。在学時代は実家から通っていると言っていたが、もしやここが実家なのだろうか。

 知っている顔が現れたことで、安堵のため息が漏れ出る。緊張していた筋肉がほぐれ、急に疲労感がドッと押し寄せてきた。

 ベランダから覗き見ている私に気づくことなく、増川は持ってきたビニール袋をテーブルの上に置いた。中身はよく見えないが、おそらくコンビニで買った食材なのだろう。

 増川は、一息つくと、携帯を取り出して、どこかにかけ始めた。

「もしもし、塚本? ああ、今お前ん家にいるよ。家の中の窓全部開けて換気すればいいんだっけ?  あとご飯あげればいいんだよな。郵便受けにはチラシしか入ってなかったよ。……何日に帰ってくるんだっけ? え? 一ヶ月後? ……あー、そりゃ大変だな。あんなことがあった後なんだし、家の管理は俺がしておくから、あんま無理すんなよー」

 増川は電話を切ると、鼻歌を歌いながら、家の中にある窓をあちこち開けていく。もちろん、私の居るベランダも開いたのだが、私が立っている反対側の窓をカーテン越しに開けただけなので、私の存在に気がつかなかったのだろう。

 ここは、増川の家ではなく、塚本の家だったのか。通話の内容を聞いた感じでは、塚本はどうやら家を空けているらしい。それにしても、なぜあいつは電話を使えるのか。圏外だったはずだが、手持ちのWi-Fiでも持っているのだろうか。

 出るタイミングを逃した私は、猫のように四つん這いになりながら、リビングの中に戻っていく。増川は、ビニール袋を手に持って、ご機嫌そうに体を左右に振りながら、木製の扉を開いた。

「ありゃ、あいつテレビ付けっぱなしで行ってたのか。電気代もったいねーな」

 ぼやきながらテレビを切った増川は、部屋の異臭など気づいてなさそうだった。それどころか、増川は、黒い扉に手をかけ、開こうとした。

 増川は扉の異常さに気がついていないらしい。私は、物陰から息を潜めて扉を見つめた。

 黒い扉が少し開いた瞬間、隙間から黒い煙が出てきた。何かを燃やしたようなそれは、異臭と共に部屋に立ち昇っていく。みるみるうちに黒い煙は部屋全体を覆い尽くした。

「ま、増川!」

 手を伸ばすが、友人に声は届かなかったようで、増川は遠くにいってしまう。甘ったるい腐ったような臭いのする煙が全身を包み、右も左もわからないほどの煙で、火事になったかのようだった。

 咳き込みながら、亀のように丸くなる。嗚咽が止まらず、煙で目が痛い。息ができなかった。

 煙に充満する部屋の中、瞼が落ちていく視界の隅で、増川が黒い部屋の中に入っていくのが見えた。

 

 

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