起床
世界が酩酊したように揺れている。床は捻じ曲がり、地と天が逆さまになったかのようだった。
どこに立っているのかもわからず、足はもつれて床に倒れこむ。息が上がり、胃液が込み上げてきて不愉快だった。
芋虫のように床に這いずり、遠くへ進もうとする。なるべく遠く、今いる場所から明るい……
────どこへ?
どこへ行こうとしたのだろうか? 思考が黒いモヤに覆われて消えていく。暗くなっていく視界の隅で、暗い扉が見えた。
目が覚めると、真っ暗な空間にいた。
まだ眠っているのかと思ったが、どうやら夢の中ではないらしい。
ズキズキと痛む頭を抑えながら上体を起こすと、体の節々が痛んだ。寝違えたのか、体をどこかにぶつけたのだろうか。
手探りで周辺を確認すると、何か四角いものに触れた。手に取ってみると、蜘蛛の巣状に割れた画面の携帯らしく、画面には、一月十七日、五時半と表示されていた。
携帯の光を頼りに、壁にあるスイッチを押すと、白い光が部屋に広がっていく。見渡すと、よくある普通の家のリビングにいることがわかった。
「……どこだ、ここ」
音はなく、しんと静まり返った家に、自分の声だけがこだまする。返答するものは誰もおらず、物音ひとつしない。
自分の置かれている状況が良く理解できず、痛む頭を抑えた。
眠る前の記憶を辿ろうとするも、まだ頭がろくに動き出していないのか、思い出すことができない。
よもや、誘拐でもされて監禁されたのでないかと思ったが、富豪でもなければ権威ある学者でもない。ごく普通の、冴えない一般市民を監禁するメリットなどあるのだろうか。
とにかく、現状を把握しようと、家の中を探索することにした。
ダイニングキッチンがあるリビングは広々としており、立っている場所から見て右側には玄関があった。どうやら普通の、世間一般的にある玄関扉があった。
靴箱には男性ものと思われる靴や、つっかけが複数置かれているが、なぜか自分の靴はなかった。
玄関扉には内扉にチェーンと鍵がかかっており、開くだけで簡単に出れそうだった。
「誘拐だとしても、雑すぎるだろう」
さっさと出ていこう、と鍵を開こうとする。
しかし、なぜか鍵はガチャガチャと音を立てるだけで一向に回ろうとしない。鍵の中が錆びているのだろうか、何度開こうとしても、上手く解錠することができなかった。
「なんでだよ……」
玄関から出ることは諦め、他の部屋に現状を把握するためのものはないか探し始めた。
玄関の隣には、トイレや風呂、洗濯機などの水回りが集まっていた。洗濯機の中は空っぽで、トイレも風呂も綺麗に掃除されている。
リビングに戻り、キッチン周りを見ると、大きな冷蔵庫があった。中は調味料と冷凍食品やアイスばかりで、生鮮食品は一切入ってなかった。
「……ん?」
コンロ周りを見ていると、よく見知った煙草が置いてあった。
コンビニにはあまり置いていない銘柄だから、大事に吸うんだと言いながら、灰皿を山のようにしていた友人の顔を思い出す。イギリス空母の名前と一緒で、印象に残っていたから間違いないはずだ。
まさか、この家は友人、塚本の家なのだろうか?
以前は、大学近くの狭いワンルームマンションを間借りしていたはずだが、確か大学を卒業した時に引っ越したとは聞いた。外で会うことがほとんどであったため、私は引っ越し先の家を知らない。記憶にはないが、まさか塚本の家にお呼ばれでもしたのだろうか。
必死に思い出そうとするが、以前記憶は曖昧で、霧のように包まれている。
塚本の家だとしても、一人暮らしには広すぎる間取りであるし、冷蔵庫もいやに大きい。結婚して所帯をもったのだろうか、と思ったが、塚本に恋人がいたと聞いたことはない。短期間に新幹線並みのスピードで結婚したのならいざ知らず、まさかこんな広い家に一人暮らししているはずはないだろう。
思い直して、再び家を探索する。
キッチンから見て真正面にあるベランダには黒い重厚なカーテンがかかっており、左の壁側にはクローゼットがある。その右側の壁には木製の扉が一つだけあった。
クローゼットの中には掃除機や、細々とした日用品ぐらいしかない。反対側の壁の、木製の扉を調べることにした。
木製の扉を開けてみると、テレビとパソコン、ベッド、本棚が置いてある。この家の中心とも言える場所なのだろうと予測できた。
部屋に入ると、どこからともなく、鼻のひん曲がる匂いがしてきた。思わず鼻と口を覆い、匂いのする方を振り向くと、入ってきた扉から右側にある扉が目に映った。
その扉は何の変哲もない、黒い扉だった。この部屋の扉は木製の温かみを感じられるような色合いだったが、黒い扉は、冷気を帯び、冷たく感じさせた。
黒い色のせいか、のしかかるような威圧感を感じる。扉はピッタリと隙間なく閉じられているにもかかわらず、扉の向こうからは、甘ったるい果実が腐ったような匂いが漂ってきた。
我慢できなくなり、口を手で押さえ、よろけながらリビングに戻ると、ベランダを開いて外の空気を吸い込む。未だ外は暗く、ひんやりとした空気が心地良かった。
ベランダから外を見下ろすと、目の前には、アパートの駐車場と、駐輪場が電灯に照らされていた。車は一台も止まっておらず、駐輪場にも自転車は一台もない。もしかしたら、このアパートには、この家の住人しか住んでいないのかもしれない。
少し離れた場所には、一軒家が幾つかと、田園が広がっている。遥か遠くに煙を出している煙突が見えるから、きっと工場があるのだろう。大声を出しても、助けが来るかどうか、怪しいところだった。外を眺めていたら、駐車場に立っている電灯がいやに眩しくて、目が痛んだ。
見覚えのない田舎の風景を眺めていると、逆流していた胃液も元に戻った。どうやらここはアパートの二階、角部屋らしかった。
下を見てみると、植え込みがあり、飛び降りても無事に着地できそうではあった。
「まぁ、朝になるまで待つか」
めんどくさいことは後回しにするに限る。あの異臭のする扉は嫌な気持ちになるが、特に取って食われるわけでもなさそうだ。私はリビングに戻ると、再び硬い床に横になり、目を閉じた。