第82話:祝福の料理
ドラグニアの抵抗軍と、救出された民がエルム公国、正式には首都エルムヘイム に到着してから数日が経った。数千名という新たな人口の流入は、公国に大規模な変化をもたらし、三都市同時建設という壮大な国家計画は現実として動き始めていた。
新しい居住区画への移送や、軍事都市『アイギス・フォート』、生産都市『アグリ・ヴィータ』 の建設準備が急速に進む中、ドラグニアの民たちは、レンが作り上げたこの奇跡の国 の生活に安堵しつつも、その表情にはまだ戦乱の疲れと、見慣れない多種族共存の土地への遠慮が残っているのを感じていた。
彼らがこれまでに見てきたのは、帝国の圧政に怯える民の顔と、荒れ果てた大地だけだったのだ。
公王執務室で、俺——レンは、盟主としての責務次々と押し寄せる国家運営の課題 に立ち向かっていた。
(彼らの心は、まだここにない。ただの避難場所ではなく、ここが彼らの新しい故郷だと心から感じてもらわなければ、祖国再建に向けた第一歩は踏み出せない)
俺は、彼らの心を本当の意味で解き放ち、この公国の「家族」として迎えるための歓迎の宴を提案することにした。そして、その宴の中心となる料理のアイデアは、思わぬところからもたらされた。
執務室で次の建設予定地のマッピング を終え、一息ついた時、扉が勢いよく開いた。
「レン! 見て見て! これ、おっきくて、白い汁がいっぱい出るの!」
フィーナ が目を輝かせながら、両手で抱えきれないほどの不思議な木の実 を持ってきた。彼女の全身からは、隠しきれない無邪気な喜び が溢れている。
「フィーナか。森で遊んでいたのか? これは、一体どうしたんだ?」
俺はフィーナの頭を優しく撫でながら尋ねた。その無邪気な姿は、俺にとってかけがえのない安らぎの一つだった。
「うん! リスさんたちが食べてたのを見て、フィーナも拾ってきたの! 潰したら、白い汁が出たの!」
フィーナが持ってきた木の実を調べると、表面は硬いが、力を込めて絞り出すと、確かに乳白色の液体が取れる。匂いは芳醇で、わずかに草木の青臭さも混じるが、試飲してみると、ほんのり甘く、栄養価も高そうだ。
俺は、その液体を掌に受けながら、目を閉じた。
(この感触、この甘み……前世の記憶では、豆乳やココナッツミルクに近いものか? この世界には、牛乳の文化はまだない。貴重な甘味料といえば蜂蜜だけだった。だが、これなら……)
その瞬間、俺の脳裏に、前世の記憶が鮮明に蘇った。
「これだ……! これなら、作れるぞ……!」
俺は興奮気味に、その場にいたアリシアとティアーナに告げた。アリシアは、俺の隣で薬草の整理を、ティアーナは転移門の技術資料の最終確認をしていた。
「皆を歓迎する宴で、この木の実のミルクを使った、この世界にはない料理を振る舞う!」
アリシアは目を丸くした。
「レン、それは一体どんな料理なの?」
「この木の実の汁と麦粉と油脂でルウを作れば、濃厚なホワイトソースをベースにした、体を芯から温める、極上のシチューができるはずだ」
俺の言葉に、ティアーナの探求心 が強く刺激されたのが分かった。彼女は、俺の持つ知識と技術 を心から尊敬し、共に未来を創造しようとする姿勢に強く惹かれている。
「麦粉を炒めて粘性を出す……? そして、この乳白色の液体が小麦粉と結合して粘性が増していますね。非常に興味深い調理法ですわ!」
ティアーナは、早速フィーナから木の実を一つ受け取り、その構造解析に取り掛かろうと目を輝かせた。
「フフ、解析は後でな、ティアーナ。まずは、皆の胃袋を掴むのが先だ。アリシア、このミルクの安全性と、シチューに適した薬草、いや野菜の選定を頼む!君の薬草学の知識と、公衆衛生に対する懸念 が不可欠だ」
「うん、わかった! レンがそう言うなら、最高のシチューを皆で作ろうね!」
アリシアは、力強く頷いた。
◇◇◇
シチュー作りは、すぐに一大プロジェクトとなった。
まず、シチューを振る舞うには、巨大な鍋が必要だ。
俺たちは、早速ゴードンさんの鍛冶場へ向かった。彼は転移門のフレーム や、新都市のインフラに必要な配管 の設計で多忙を極めている。
「……なんだ、小僧。また妙なものを作る気か。転移門のフレームはまだ時間がかかるぞ」
炉の前で汗を流すドワーフの親方 は、いつものように仏頂面だ。
「ゴードンさん。あなたにしか頼めない、最高の鍋を作ってほしいんです!」
俺は、鍋の図面と、木の実ミルクのサンプルを差し出した。
ゴードンさんは、鍋の図面を鼻で笑ったが、木の実ミルクを手に取り、その匂いを嗅ぐと、ニヤリと笑った。
「ふん。まあ、レンの小僧の奇妙な発想 が、また村を救うかもしれんからな。よかろう、ワシが最高の釜を作ってやろうではないか!」
ゴードンさんは、すぐに巨大な鍋の製作に取り掛かってくれた。
◇◇◇
数日後、広場に設置された巨大な祝福の釜を前に、シチュー作りが始まった。
「レン、本当にこんなことできるの? 木の実の白い汁で、そんな料理が……」
アリシアは半信半疑ながらも、責任感を持って材料の選定と下準備を進めていた。
「大丈夫だ、アリシア。ジャガイモの代わりには、温室で育った甘味の強い根菜 を使おう。君が選定してくれた、この香辛料も素晴らしい。風味が格段に上がるはずだ」
アリシアの薬草学の知識は、この料理に使うべき芋や野菜、そして香辛料 の選定に大きく貢献していた。
「この根菜は、土魔法 とテラスさんの大地の息吹 で地力が高まった畑 で育ったんだよね!きっと美味しいはず!」
フィーナも、嬉しそうに小さな手で葉物野菜をちぎっている。彼女の周囲には、幼い子供たちが集まり、彼女の天真爛漫な姿は、自然と周囲を和ませるムードメーカーとなっていた。
その横では、ティアーナと錬金術師のエラーラが、ルウ作りの工程を観察していた。
「レンさん。このルウの製法、物質の結合プロセスですね!。麦粉と油脂を加熱することで、粘性を最大化させる。錬金術の基礎理論 に通じるものがあります」
「ええ、エラーラさん! この木の実の油脂 は、穀物のデンプン質を安定させる触媒のような役割を果たしていますわ。この反応を応用すれば、長期保存可能な濃縮ベースが開発できるかもしれません!」
ティアーナとエラーラは、新しい料理法に知的好奇心を強く刺激され、専門的な議論を交わしている。彼女たちは技術者として、強い絆で結ばれていた。
俺は、ルウに木の実ミルクを注ぎ、それを巨大な釜の中で丁寧に混ぜ合わせる。火の温度を均一に保ち、焦げ付かないようにする。
◇◇◇
シチューを作る喧騒が広場に満ちる中、その輪から少しだけ離れた場所に、親子の姿があった。
戦乱で夫を亡くしたのだろう、若い母親のローブを固く握りしめ、その背中に隠れるようにして立つ一人の少女。歳は六つか七つほど。青い瞳は怯えたように揺れ、この温かい喧騒の中でさえ、彼女の世界だけが凍り付いているかのようだった。
その少女、ミーシャに、小さな影が駆け寄った。フィーナだ。
「ねえ、これあげる!」
フィーナは、先ほど森で見つけたばかりの可愛らしい白い花を、ミーシャの前に差し出した。だが、ミーシャはぴくりと肩を震わせ、さらに母親の背後へと隠れてしまう。その反応に、フィーナは不思議そうに小首を傾げたが、全く気にした様子はない。
「こっちに来て!一緒にお手伝いするの!」
フィーナは、今度はミーシャの小さな手を掴むと、ぐいと優しく引っ張った。母親は困ったように、しかしフィーナの天真爛漫な姿にどこか救われたような表情で小さく頷く。フィーナはミーシャを、アリシアが選んでくれた芋を大きな桶で洗っている場所へと連れて行った。
「レンがね、皆のために美味しいもの作ってくれてるの!だから、私たちも応援するの!」
フィーナはそう言うと、小さな芋を一つミーシャの手に握らせ、自分も楽しそうに芋を洗い始めた。
ミーシャは、戸惑いながらも、フィーナの力強い笑顔と、桶から伝わる水の温かさに、固く閉ざしていた心をほんの少しだけ、開こうとしているように見えた。
◇◇◇
シチューが煮込まれる香ばしくも優しい匂い に誘われ、仲間たちが次々と広場に集まってくる。
「うおおっ! 良い匂いだな! レン、今日の肉は俺たちが仕留めてきたぞ!」
カイル はイリス と共に狩りから戻り、巨大な猪 を担いでいた。カイルは、公国の防衛隊長 として、公王の護衛と食料調達という二つの役割を担っている。
「公王自ら民のために調理場に立つとは……素晴らしいお方ですね」
イリスは、その凛とした騎士の顔 の奥に、感銘の色を浮かべていた。彼女は、レンが仲間たちに命令するのではなく、共に汗を流す姿勢 を示すリーダーシップに、深い尊敬を寄せている。
「カイル、イリスさん、ご苦労様! その猪は最高の食材になるぞ!」
カイルとイリスは、早速猪を捌き始め、その一部が巨大な釜へと投じられる。
オリヴィアは、セレスティーナやジュリアス、カジミール卿たちと共に、調理の様子を興味深そうに眺めている。彼らは、旧ドラグニア王国の頭脳 であり、今は公国の未来を共に築く仲間たちだ。
「レン公王。これは一体、どのような料理なのですか? これほどまでに優しく、食欲をそそる香りは初めてです」
オリヴィアは王女としての気品 を保ちながら、純粋な好奇心 を隠せないでいる。
俺は、鍋から少しだけソースをすくい、温かい黒パン につけて差し出した。
「まあ、一口食べてみてください。まだ完成前ですが、エルムヘイムの新しい名物になるかもしれませんよ」
一口食べたオリヴィアとセレスティーナは、その初めて味わう濃厚でクリーミーな美味しさに、驚きで目を見開く。
「こ、これは……! 口の中で溶けるような濃厚さ……! そして、この温かさが、体の奥まで染み渡る……」
その反応に、周囲で見守っていたドラグニアの民たちの期待感が一気に高まっていった。
◇◇◇
夕刻、巨大な釜から立ち上る湯気と、芳醇な匂いが広場全体を包み込む中、歓迎の宴が始まった。
ドラグニアから来て間もない民、そしてエルムヘイムに暮らす人間、エルフ、ドワーフ、獣人といった全ての種族 が、熱々のシチューを囲む。
「さあ、遠慮はいらない! 皆、腹いっぱい食べてくれ!」
カイルが豪快に声を上げ、ドルガン補佐やボルグが、大きな杓子でシチューを配っていく。
俺は、シチューを前にして、まだ戸惑いがちだったドラグニアの子供たちに声をかけた。
「これは、クリームシチューだ。この村で採れた最高の野菜と、カイルが狩ってきた猪の肉、そしてフィーナが見つけてくれた木の実で作った。温かいから、ゆっくり食べるんだぞ」
子供たちは、レン公王自らが差し出す温かいシチューの匂いに誘われ、恐る恐る口に運ぶ。
「……! お、おいしい……!」
一人の少女が、目を丸くして呟いた。その声は、瞬く間に周囲に広がる。
「本当に、体が温まるわ……」
「こんなに美味しいものを食べたのは、いつぶりだろう……」
彼らが口にするシチューは、疲労で固くなっていた彼らの心を、文字通り優しく溶かしていく。
◇◇◇
だが、そんな喜びの輪の中で、ミーシャだけは差し出された温かいシチューの器を、ただじっと見つめているだけだった。
母親が「ミーシャ、お食べなさい。美味しいわよ」と促しても、彼女は小さく首を振るばかり。戦場で見た恐怖が、彼女から食欲さえも奪ってしまっていたのだ。
そこへ、フィーナが自分の分のシチューが入った小さな木の器を手に、とてとてと駆け寄ってきた。
「ミーシャ、おいしいよ!レンが作ってくれたんだよ!」
フィーナはそう言うと、自分のスプーンでシチューを一口食べ、「んー!」と満面の笑みを見せた。
その裏表のない純粋な姿に、ミーシャの瞳がわずかに揺らぐ。彼女は、フィーナの笑顔と、目の前の白いスープを交互に見つめた。そして、意を決したかのように、おそるおそる、小さなスプーンを口に運んだ。
その瞬間、ミーシャの青い瞳が、大きく見開かれた。 口の中に広がったのは、ただの料理の味ではなかった。安心の味。守られている温かさの味。帝国に国を追われて以来、忘れてしまっていた「日常」の味が、彼女の凍てついた心を優しく溶かしていく。
ぽろり、と彼女の瞳から一粒の涙がこぼれ落ち、シチューの器に小さな波紋を作った。それは、悲しみの涙ではなかった。
「……おいしい」
か細い、しかし確かな声。そして、母親が息を呑む前で、ミーシャは顔を上げ、はっきりと、そして元気な声で言った。
「……おかわり!」
その言葉をきっかけに、堪えていた母親の目からも涙が溢れ出した。
◇◇◇
俺は、広場の端からその光景を見つめていた。隣にはアリシアとティアーナ、そしてオリヴィアとセレスティーナ、イリスが立っている。
「レン」
アリシアが、温かいまなざしで俺を見つめる。
「見て。皆、笑ってるわ。本当に、心から安心している顔をしている」
「ええ。単なる食料供給ではなく、この温かさと甘さが、彼らの心を安堵 させているのでしょう。」
ティアーナが、深い安堵の感情を込めて言った。
オリヴィアは、静かに涙を流していた。
「レン公王……わたくしの民に、これほどの温かい祝福を与えてくださるなんて……。この場所が、単なる避難所ではなく、彼らの第二の故郷 となることが、今、確信できました」
セレスティーナ総長は、鋼のような瞳 の奥で、強い決意を燃やしていた。
「これこそが、我々が守り抜くべき未来の姿。この温かい食卓のために、我々は帝国に立ち向かうのです」
俺は、皆の言葉を聞きながら、胸の奥にじんわりと広がる温かさと安らぎ を感じていた。
この広場で笑い合う人々の姿こそが、俺がこの世界で生きる理由だ。そして、アリシアとティアーナ、かけがえのない仲間たち との絆こそが、俺の心の支柱であり、安息の地なのだ。
(ああ、これでいい。俺は、この世界で守るべき場所は、ここだな。)
◇◇◇
宴が終わった後、広場は静寂を取り戻し、月明かりだけが、人々の笑い声の残響を照らしていた。
俺は、盟主としての仕事 を終え、自室へと戻った。そこには、湯上がりのアリシアとティアーナが、ローブに身を包み、俺を待っていてくれた。
「レン、お疲れ様。今日のシチュー、本当に美味しかったわ。皆、心も体も温まったって」
アリシアは、俺の肩を優しく揉みほぐしてくれる。その小さな手から伝わる温もりは、俺の疲労 を癒し、心に安らぎ を与えてくれる。
「ありがとうございます、レン。あなたのおかげで、ドラグニアの民の心が、この公国に繋がったと思います。」
ティアーナは、俺の隣でハーブティーを淹れながら、冷静な分析を加えた。
俺は愛する二人を交互に見つめ、ゴードンさんに作ってもらった指輪が輝く彼女たちの手に、そっと自分の手を重ねた。
「二人とも……ありがとう。俺は、二人のおかげで、盟主として、そして一人の男として、この世界で強く立っていられる」
俺たちの関係は、アリシアの寛大さと、ティアーナの誠実さによって、確かな絆を築き上げている。
俺は、改めて夜の順番 について、二人に語りかけた。
「あと、夜の順番、ありがとう。俺が勝手に決めたり、曖昧なままにしたりするのは、二人に失礼だと思うから、ちゃんと決めておきたいんだ」
アリシアは少し恥ずかしそうに、俺の胸に顔を埋めた。
「レンがそう言ってくれるなら、私は何でも……」
ティアーナは、俺の瞳を真っ直ぐに見つめ応じた。
「レンさんのご提案に、異論はありません。平等な愛は、この国の根幹です。わたくしはこの愛の形を、あなたと共に築き上げますわ」
俺は、二人の頭を優しく抱きしめた。この瞬間、俺の心は、最高の幸福と揺るぎない安息 に満たされていた。
窓の外の月明かりは三人を静かに照らし、その光は、エルムヘイムの穏やかな未来を約束しているかのようだった。




