第55話:祝福の波紋
湖畔での誓いから一夜が明けた。
エルム公国の朝は、いつもと変わらぬ活気に満ちていたが、俺とアリシア、そしてティアーナの間には、どこか初々しく、そしてくすぐったいような特別な空気が流れていた。昨夜交わした約束、指にはめられた誓いの指輪の重みが、夢ではなかったことを告げている。
「……さて、と。まずは、一番の難関に報告しに行くか」
朝食を終えた俺がそう言うと、アリシアは「もう、お兄ちゃんは難関じゃないよ」と頬を膨らませ、ティアーナは「ですが、道理を通すという意味では、最も重要な儀式ですわね」と、真剣な表情で頷いた。三人で顔を見合わせ、俺たちは覚悟を決めて訓練場へと向かった。
◇◇◇
訓練場には、カイルの雷鳴のような声が響き渡っていた。
「そこだ、足が甘い! 敵は待ってくれんぞ! もっと腰を落とせ!」
防衛隊の若者たちを相手に、カイルは汗だくになりながら木剣を振るっている。俺たちの姿を認めると、彼は訓練を一時中断させ、汗を拭いながらこちらへ歩いてきた。
「よお、レン。それにアリシアとティアーナも。どうしたんだ、三人揃って改まっちまって」
その屈託のない笑顔に、俺は一瞬言葉に詰まる。アリシアが俺の服の袖をきゅっと掴み、ティアーナもごくりと喉を鳴らすのが分かった。
「……カイル、少し時間をもらえるか。大事な話がある」
俺の真剣な様子に、カイルも表情を引き締めた。
「なんだよ、改まって。まあいい、座れよ」
俺たちは訓練場の隅にある切り株に腰を下ろした。カイルは俺、アリシア、ティアーナの顔を順番に見回し、訝しげに首を傾げている。
俺は意を決して、切り出した。
「カイル。単刀直入に言う。俺は……アリシアと、そしてティアーナと、結婚の誓いを立てた」
その言葉に、カイルは一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。彼の視線が、アリシアの左手の薬指に輝く『陽光石』の指輪と、ティアーナの指にするりとはめられた『月影石』の指輪に注がれる。
「……」
沈黙。
やがて、カイルの顔に、じわじわと笑みが広がっていった。それは呆れたような、それでいて心の底から満足したような、複雑な笑みだった。
「……ぷっ。ぶはははははっ!」
突然、カイルは腹を抱えて笑い出した。
「やっとかよ、この朴念仁が! おっせーんだよ、決断するのが!」
彼は俺の肩をバンバンと力強く叩く。その衝撃に、俺はむせ返りそうになった。
「いやー、それにしてもずいぶん時間かかったじゃねえか!」
彼の反応は、俺が想像していた怒りや驚きではなく、まるで自分の言った通りになったことを喜ぶかのような、温かいものだった。
「お兄ちゃん!」
アリシアが、涙ぐみながらも嬉しそうにカイルの腕を叩く。
「へへっ、よかったな、アリシア」
カイルは、妹の頭を大きな手で優しく、しかし少し乱暴に撫でた。その目には、兄としての深い愛情が滲んでいる。
「ティアーナも、よかったな。レンもアリシアもこれからも頼むぜ!」
「はい、カイルさん。ありがとうございます」
ティアーナも、心からの笑顔で頷いた。
◇◇◇
その日の夕食後、俺たちは盟主室、いや、今は公王室と呼ぶべき部屋に、オリヴィア、イリス、そしてゴードンを招いていた。暖炉の炎が、部屋を温かく照らし出している。
「さて、皆を集めてもらったのは他でもない。今日は、公国の未来に関わる、重要な報告がある」
俺がそう切り出すと、三人はそれぞれ、真剣な表情で居住まいを正した。
俺はアリシアとティアーナの手を取り、立ち上がると、三人の前で宣言した。
「俺、レンは、アリシア、そしてティアーナと、生涯を共にする誓いを立てた。二人は、俺の妻となる」
ゴードンは、その言葉を聞いても全く驚いた様子を見せず、ただ満足げに顎髭を撫でている。
「ふん。あの指輪を鍛えたワシが、知らんわけなかろう。公王にしちゃ、ちと決断が遅いくらいじゃわい」
彼はそう言うと、どこからか取り出した、ドワーフの紋章が刻まれた年代物の酒瓶をテーブルの上に置いた。
「祝いの品じゃ。秘蔵の古酒じゃ。今宵はこれで、思う存分祝うがいい」
そのぶっきらぼうな祝福に、俺たちは顔を見合わせて笑った。
「ありがとうございます、ゴードンさん」
オリヴィアは、しばらくの間、俺たち三人の顔を興味深そうに見つめていたが、やがて優雅に微笑んだ。
「友人として、お二人の幸せを、心から祝福いたします。レン公王、アリシアさん、ティアーナさん、本当におめでとうございます」
「オリヴィアさん……」
「ありがとうございます」
イリスもまた、主君に倣い、騎士として完璧な礼で祝辞を述べた。
「レン公王、アリシア様、ティアーナ様。この度の御婚儀、心よりお祝い申し上げます。我が剣、これまで以上に、オリヴィア様と、そしてこの公国のために捧げることを誓いましょう」
仲間たちからの、それぞれの形での温かい祝福が、俺たちの心を満たしていく。
◇◇◇
最後に、俺たちはエルフたちの居住区へと向かった。夜の静けさの中、家々からはティアーナが作った魔道具のランタンの柔らかな光が漏れている。
ティアーナは、少し緊張した面持ちで、リオン長老をはじめとするエルフたちの前に進み出た。俺とアリシアは、彼女の後ろに静かに控えている。
「リオン、皆さん。今宵は、わたくし個人のことで、皆様にご報告があって参りました」
ティアーナの凛とした声に、集まったエルフたちは静かに耳を傾ける。
彼女は、自らの左手の薬指にはめられた『月影石』の指輪を、皆の前に示した。
「わたくし、ティアーナ・シルヴァリエは、エルム公国公王、レン様と、生涯を共にする誓いを立てました。そして、アリシアさんと共に、彼の妻となります」
その報告に、エルフたちの間に、静かな、しかし確かな動揺が走った。長の娘が、異種族である人間の王の、しかも二人目の妃となる。
「ティアーナ様……それは……」
若いエルフの一人が、戸惑いの声を上げる。
だが、その声を制したのは、リオン長老の穏やかで、しかし威厳のある声だった。
「皆、静かに」
長老はゆっくりと立ち上がると、ティアーナ、そして俺とアリシアの前に進み出た。
「ティアーナ様。あなたが、心からお決めになったことなのじゃな?」
「はい、リオン。わたくしの、偽らざる想いです」
ティアーナは、一点の曇りもない瞳で、真っ直ぐに長老を見つめ返した。
リオン長老は、しばらくの間、ティアーナの、そして彼女の手を固く握る俺とアリシアの顔をじっと見つめていたが、やがて、その深い皺の刻まれた顔に、温かい笑みを浮かべた。
「……そうか。それほどまでに、幸せそうな顔をされては、この老いぼれに否やを唱えることなどできませぬな」
彼は、俺に向き直ると、深々と頭を下げた。
「レン公王。あなたが、我らエルフの同胞を救い、そして何より、故郷を失い絶望の淵におられたティアーナ様の心を救ってくださった、大恩人であられること。我らは決して忘れませぬ。そのお方が、ティアーナ様を生涯の伴侶として選んでくださるのであれば、我らが祝福しない理由などありましょうか」
その言葉に、他のエルフたちも、次々と安堵と祝福の表情を浮かべて頷いた。
「ティアーナ様、おめでとうございます!」
「レン公王、どうかティアーナ様を、我々の希望を、よろしくお願いいたします!」
エルフたちは、種族を超えて生まれた新たな絆の誕生を、心から喜び、祝福してくれた。
そして、彼らは輪になると、古くから伝わるという、星々の輝きと森のささやきを紡いだような、美しく荘厳な祝福の歌を歌い始めた。その歌声は、夜の静かな森に響き渡り、俺たち三人の門出を優しく包み込んでくれるようだった。
◇◇◇
仲間たちからの温かい祝福を受け、俺、アリシア、ティアーナは、自分たちがどれほど多くの、そして強い絆に支えられているかを再認識した。
今はまだ、戦いの真っ只中だ。平和な時代が訪れた時に挙げるという結婚式は、まだ遠い夢かもしれない。だが、その夢があるからこそ、俺たちは前に進める。




