第5話:異文化交流
カイルに先導され、アリシアと共に森の中を進むこと数刻。木々が次第にまばらになり、獣道が踏み固められた道へと変わっていく。明らかに人の手が加わった痕跡が増え、俺の胸は期待に高鳴った。そしてついに、視界が開け、目的の場所が姿を現した。
「……ここが、エルム村か」
目の前に広がっていたのは、木の柵で囲まれた小さな集落だった。高さ3メートルほどの丸太を組んだ柵は、決して堅牢とは言えないが、モンスターの侵入をある程度は防いでくれるのだろう。柵の内側には、木と石、そして土壁を組み合わせた素朴な家々が二十軒ほどだろうか、寄り添うように建ち並んでいる。畑が広がり、家々の煙突からは生活の証である白い煙が細く立ち上っていた。規模は小さいが、確かにここには人々の営みがある。
「着いたよ、レン! ここが私たちの村、エルム村!」
隣でアリシアが、少し誇らしげに言った。森での孤独なサバイバル生活の後では、この何の変哲もない村の風景が、涙が出るほど暖かく感じられた。
「ああ……本当に、人が住んでるんだな……」
思わず漏れた感慨深い呟きに、先頭を歩いていたカイルが僅かに振り返り、俺を一瞥した。その緑の瞳には、まだ警戒の色が残っている。
村の入り口には、簡素な見張り台が設けられており、若い男が一人、弓を手に周囲を警戒していた。俺たちの姿を認めると、彼はカイルに声をかけた。
「カイル! アリシアも無事か。遅かったじゃないか、心配したぞ」
「ああ、すまん。少し手間取った。門を開けてくれ。……それと、こいつはレン。森で狼にやられかけてたアリシアを助けてくれた旅の者だ。村長に会わせたい」
見張り番は、俺の――特に異様なほど綺麗な衣服(転生時の初期装備を洗濯したもの)と粗末な石槍の組み合わせを見て、怪訝そうな顔をした。だが、カイルの説明に異を唱えることなく、仲間と協力して重々しい音を立てながら木の門を開けてくれた。
「ありがとう、ロルフ」
「おう。……そこの旅のあんたも、アリシアを助けてくれたんだってな。礼を言うぜ」
門番はぶっきらぼうに言いながらも、俺に向けて軽く頷いた。悪い奴ではなさそうだ。
門をくぐり、村の中へと足を踏み入れる。土が踏み固められた道を進むと、外から見た以上に生活感と活気があった。井戸端で談笑しながら洗濯物をしている女性たち。畑で鍬を振るう老人。家の壁を修理している男たち。そして、道の真ん中を元気に走り回る子供たち。その光景の一つ一つが、俺の乾いた心に染み渡るようだった。
そして、改めて気づくのは、やはり住人たちの多様性だ。
(人間だけじゃないんだな……)
アリシアやカイルのような人間が多数派ではあるが、明らかに異なる特徴を持つ種族が、ごく自然に混じって生活している。犬のような耳と尻尾を生やした快活そうな獣人の女性が、人間の子供たちと一緒になって鬼ごっこをしている。身長は低いが、筋骨隆々で立派な髭を蓄えたドワーフの男性が、大きなハンマーで農具を修理している。彼らは村の風景に完全に溶け込んでおり、周囲の人間たちも特に気にする様子はない。
(獣人にドワーフか……。)
そんなことを考えていると、村人たちの視線が俺に集まっているのを感じた。好奇心、そして、やはり警戒心。無理もない。身なりの違う見慣れない少年が、カイルと、その妹のアリシアと一緒に歩いているのだ。目立たない方がおかしい。
「お兄ちゃん、レン、こっちだよ。村長さんの家」
アリシアに促され、俺たちは村の中央広場に面した、ひときわ立派な(といっても他の家より少し大きい程度だが)建物へと向かった。
建物の前でカイルが声をかけると、中から村長が出てきた。恰幅の良い、壮年の男性。厳しいながらも深みのある緑色の瞳で、俺たちを迎えた。
男性――村長だろう――は、カイルから事情を聞くと、俺に向き直り、深く頭を下げた。
「レン、でよいかな。この度は、アリシアを救ってくれたこと、心より感謝申し上げる。私はこのエルム村の村長を務めておる、ドルガンじゃ」
ドルガン村長は俺に、その威厳のある瞳で真っ直ぐに見据えてきた。
「レンです。アリシアを助けたのは、俺ができることをしたまでなので、気にしないでください。」
俺は恐縮して頭を下げる。
「カイルによれば、君は相当な手練れだそうじゃな。あの森で生き延び、狼の群れを退けるとは、並の腕ではない。……差し支えなければ、君の素性を聞かせてもらえんかの?」
やはり来たか、という感じだ。俺は事前に考えていた通り、記憶喪失という設定で押し通すことにした。
「申し訳ありません、村長。それが、自分でもよく分からないのです。気づいたら森で倒れていて……名前以外の記憶が、ほとんどありません。ただ、生き延びるために必死で……」
「記憶がない……と?」
ドルガン村長は眉をひそめ、俺の言葉の真偽を探るように沈黙した。隣のカイルも、疑わしげな視線を向けてくる。正直、かなり苦しい言い訳だとは思うが、転生者だと言うよりはマシだろう。
ややあって、村長は重々しく口を開いた。
「……ふむ。記憶がないというのは難儀じゃろうな。しかし、君がアリシアの恩人であることに変わりはない。我々としても、恩知らずと思われるのは本意ではない。どうだろう、レン殿。もし行く当てがないのであれば、しばらくこの村に滞在してはどうかな? 幸い、村に一つ、空いている家がある。記憶が戻るまでの間、あるいは君が新たな道を見つけるまで、そこを使うといい」
「えっ……! 家を、貸していただけるのですか?」
予想以上の申し出に、俺は目を丸くした。見ず知らずの、記憶喪失(自称)の少年に対して、あまりにも寛大な措置ではないだろうか。
「構わんよ。カイルも、君が村に害をなすような人間には見えんと言っておったからの」
村長がカイルの方を見ると、カイルは少しむっとした顔でそっぽを向いたが、否定はしなかった。
「それに、今のエルム村は……まあ、色々と問題を抱えておってな。君のような腕の立つ若者がいてくれるのは、正直、我々にとってもありがたいのじゃ」
村長は何かを言いかけたが、すぐに言葉を濁した。村の問題……? 気になるが、今は深く詮索すべきではないだろう。
「ありがとうございます、ドルガン村長。そのお申し出、ありがたくお受けします」
俺は心からの感謝を込めて、深く頭を下げた。これで、サバイバル生活に終止符を打ち、人間らしい生活を取り戻す第一歩を踏み出せる。
◇ ◇ ◇
案内された空き家は、村の西側の、少し外れにあった。木と石で作られた小さな家で、屋根は草で葺かれている。中は一部屋だけのシンプルな構造だが、小さな窓と、石造の暖炉兼竈も備え付けられていた。何年も使われていなかったらしく、埃っぽく、蜘蛛の巣も張っていたが、それでも岩窟生活に比べれば、五つ星ホテルに等しい。
「レン、掃除、手伝うよ!」
「……俺も、少しだけなら」
アリシアとカイルが、当然のように掃除を手伝ってくれた。アリシアは箒で埃を払い、カイルは重い家具(といっても粗末な木のテーブルと椅子くらいだが)を動かしてくれる。俺は、近くの川で水を汲んできて、雑巾で床や壁を拭いた。
三人で汗を流し、一時間ほどで家は見違えるように綺麗になった。
「ふう、綺麗になったね!」
「ああ、二人とも、本当にありがとう。助かった」
「当然だろ。妹が世話になったんだからな」
カイルは相変わらずぶっきらぼうだが、その言葉には棘がない。彼なりに、俺を受け入れようとしてくれているのかもしれない。
村長からは、掃除が終わる頃を見計らって、当面の食料(干し肉、黒パンのようなもの、干し野菜など)と、生活に必要な最低限の道具(毛布、鍋、簡単な食器、ランプと燃料の油、そして麻の着替え一式)が届けられた。
「これで、当面は暮らせるだろう。何か困ったことがあれば、遠慮なくワシか、カイルに言うといい」
そう言い残し、村長は去っていった。
「よかったね、レン! これでゆっくり休めるよ」
「ああ、本当に……ありがたい限りだ」
俺は支給された黒パンを一口かじってみた。少し硬くて酸味があるが、森で食べていたものに比べれば、はるかに「食べ物」の味がした。干し肉も、塩気が効いていて噛みごたえがある。涙が出るほど美味しく感じられた。
その夜、俺は久しぶりに、硬い地面ではなく、簡素ながらもベッド(藁を敷き詰めた台に毛布をかけたもの)の上で眠りについた。雨風の心配もなく、モンスターに怯える必要もない。ただそれだけで、これほどまでに心が安らぐものなのかと、改めて実感した。
◇ ◇ ◇
翌日から、俺のエルム村での生活、そして異文化交流が本格的に始まった。まず俺が取り組んだのは、この世界の常識と、村の生活様式を学ぶことだった。
アリシアやカイル、そして親切な村人たちに教わりながら、俺は様々な発見と驚きを経験した。
【衣】
村人の衣服は、主に麻や、動物のなめし革で作られているようだった。デザインは中世ヨーロッパ風で、機能性重視のシンプルなものが多い。洗濯は川で、灰汁のようなものを洗剤代わりに使っている。当然、化学繊維もなければ、ミシンもない。すべて手縫いだ。俺が転生時に着ていた服(おそらく現代の化学繊維製)は、その滑らかな手触りと丈夫さから、村人たちに驚かれていた。
【食】
主食は黒パンか、オートミールのような雑穀の粥。それに、狩りで得た肉の燻製や塩漬け、畑で採れた野菜(カブや豆類、葉物が多い)のスープなどが添えられる。味付けは基本的に塩のみ。胡椒などの香辛料は非常に貴重品で、交易でたまに手に入る程度らしい。砂糖に至っては、存在すら知らない人がほとんどだった(蜂蜜が甘味料として使われている)。調理法も焼く、煮る、干す、漬けるが基本。発酵食品(チーズや簡単な酒)もあるようだが、種類は少ない。日本の豊かな食文化を知る身としては、正直物足りないが、生きるためのエネルギー源としては十分だった。
【住】
家は木と石、土壁で作られ、屋根は草や木の皮で葺かれている。窓にはガラスはなく、木の板か、動物の皮を張っているため、昼間でも家の中は少し薄暗い。明かりは、獣脂を使ったランプか、松明、あるいは高価な蝋燭。暖炉兼竈が生活の中心で、暖房と調理を兼ねている。トイレは、家の外にある小屋で、穴を掘っただけのシンプルなもの(いわゆるボットン便所)。衛生観念は前世とはかなり違うようで、最初はかなり戸惑った。手洗いはしっかりするように心がけた。
【文化・常識】
文字は存在するが、識字率はあまり高くないようだった。村長や一部の知識人が読める程度で、一般の村人は簡単な記号や口伝で情報をやり取りしている。通貨もあるにはあるが(銅貨、銀貨など)、村の中では物々交換の方が主流のようだ。暦は存在し、一年の長さや季節の区分は地球と似ているが、月の名前や祝祭日などは全く異なる。
【種族】
獣人(ウルフ族のミーナさん一家、キャット族の若い猟師など)は、主に狩猟や見張りでその鋭い五感と身体能力を発揮していた。彼らは月齢に体調が左右されることがあるらしい。ドワーフのゴードンさんは、頑固だが優れた鍛冶屋で、村の金属製品を一手に担っていた。彼曰く「人間の作る道具は軟弱すぎる」とのこと。寿命も人間より長く、様々な知識や経験を持っているようだった。エルフはこの村にはいないが、森の別の場所に集落があると噂で聞いた。彼らは特に長命で、魔法に長け、森と共に生きる孤高の種族、というイメージらしい。
これらのギャップや発見は、俺にとって大きな刺激となった。35年間で培われた常識がいかに狭いものであったかを痛感すると同時に、この世界の多様性と奥深さに、強い興味を掻き立てられた。
その中で特に興味を持ち驚かされたのは、魔法や魔道具の存在である。
俺の常識が揺らいだのは、何気ない焚き火の準備をしていた時だ。
いくら火打ち石を打ち合わせても、なかなか火がつかない。諦めかけていたその時、隣で黙々と作業をしていたアリシアが、ふと手をかざした。
「微かなる火種よ、集い、大きなる光焔となれ!」
アリシアの手のひらから、淡い光がぽわっと現れる。次の瞬間、その光が薪に触れると、ジリジリと音を立てて煙が上がり、やがて小さな炎が燃え上がったのだ。あっという間に薪に火が移り、パチパチと音を立てて燃え始めた。
「えっ……アリシア、今、どうやって?」
俺が呆然と尋ねると、アリシアはけろりとした顔で答えた。
「ああ、今のは、魔法だよ、それも忘れちゃったんだね。よく森で生きていられたね!」
アリシアの言葉に、俺は信じられない気持ちで固まった。俺の知る世界には、こんな現象は存在しない。科学で説明できない、不思議な力。それが、俺たちの暮らしのすぐ隣に、当たり前のように存在していた。その事実に、俺はただただ驚くしかなかった。
◇◇◇
村での生活に慣れるため、そして村人たちからの信頼を得るために、俺は積極的に村の仕事を手伝った。
最初は、畑仕事だった。見たこともない雑草をひたすら抜く作業。腰が痛くなるし、虫も多い。だが、土に触れ、作物を育てるという行為は、どこか心が落ち着くものがあった。一緒に作業する老人たちから、作物の育て方や、この土地の季節について教わった。
次に、薪割り。これも、すぐにバテてしまった。結局、普通の斧の使い方をベテランの木こりであるヘクターさんに教わり、地道にこなすことになった。ヘクターさんは寡黙だが、森の知識が豊富で、モンスターの足跡の見分け方や、危険な植物についてなど、実践的なことを色々と教えてくれた。
狩りの手伝いにも何度か同行させてもらった。
もちろん、危険な場所へは連れて行ってもらえず、主に獲物の運搬や解体、罠の設置補助などだ。カイルや他の若い猟師たちと一緒に森に入り、彼らの技術を間近で見ることができたのは大きな収穫だった。特にカイルの剣捌きと、ヘクターさんの弓の腕前は、素人目にも相当なものだと分かった。俺も、自作の槍を手に、護身程度のつもりで同行したが、彼らの足手まといにならないようにするのが精一杯だった。
時折、物知りなエマ婆さんの家を訪ねては、昔話や森の伝承を聞かせてもらった。彼女の話は、時に脱線し、同じ話を繰り返すこともあったが、中には興味深い情報も含まれていた。例えば、「森の奥には、星の民の忘れ形見がある」「巨大な影は、森の怒りそのものじゃ」「龍の力は、恵みにも災いにもなる」……。断片的で、おとぎ話のような内容ばかりだったが、俺が持つ謎の力や、森で目撃した巨大な影に繋がるヒントが隠されているような気がした。
ドワーフのゴードンさんの鍛冶場にも顔を出し、炉の火の番や、道具の整理などを手伝った。彼は相変わらず頑固で無愛能想だったが、俺が熱心に手伝ううちに、少しずつ鍛冶の技術について語ってくれるようになった。彼によれば、この森で採れる鉱石は質が悪く、良い武器や防具を作るのは難しいらしい。俺の石槍を見ては「こんなもん、おもちゃだ」と鼻で笑われたが、それでも穂先を研ぎ直し、柄の補強方法をアドバイスしてくれた。
そんな風に、村での役割を見つけ、様々な人々と交流する中で、俺は少しずつエルム村の一員として受け入れられていくのを感じていた。
だが、ボルグという青年だけは相変わらずだった。俺が村の仕事を手伝っているのを見かけると、わざとらしく舌打ちをしたり、「よそ者が馴れ馴れしくするな」と嫌味を言ってきたりする。特に、俺がアリシアやカイルと一緒にいる時は、その敵意は剥き出しになった。
「レン、お前、本当に何者なんだ? ……村に災いを持ち込むんじゃねえだろうな?」
ある日、俺が一人で薪を運んでいると、ボルグが数人の仲間と共に現れ、道を塞ぐようにして言った。その目には、不信感と侮蔑の色が浮かんでいる。
「別に、怪しいことなど何もしていない。村長にも許可を得て、ここに滞在させてもらっているだけだ」
俺は冷静に返す。ここで感情的になっても得はない。
「ふん、村長が甘いだけだ! いいか、もしお前が村に何か問題を起こしたら、俺が真っ先にお前を叩き出すからな! 覚えておけ!」
ボルグはそう言い捨て、仲間たちと去っていった。
(……やれやれ。面倒な奴に目をつけられたもんだ)
彼の敵意は厄介だが、今の俺にできることはない。今はただ、村での信頼を地道に積み重ねていくしかないだろう。
◇◇◇
エルム村での生活は、決して楽園ではない。厳しい自然、限られた資源、そして人間関係の軋轢。だが、そこには確かに人の温もりと、生きているという実感があった。
夜、借りている家の小さな窓から外を見る。満天の星空が広がっていた。前世では、街の明かりに邪魔されて、これほど多くの星を見ることはなかった。
(この世界は、美しい。……そして、厳しい)
俺はこの世界で、どう生きていくべきなのか。まだ答えは見つからない。だが、今はまず、このエルム村で、レンとして生きていくこと。それが、俺に与えられた最初の道標なのだろう。
俺はパンを一口かじり、エマ婆さんから聞いた森の伝承や、ヘクターさんから教わった狩りの知識、ゴードンさんの鍛冶の話などを頭の中で整理し始めた。これらの知識が、いつか役に立つ時が来るかもしれない。
そして、右手の甲に目をやる。そこに刻まれた龍の紋様。
(この力の正体も、いつか……)
やるべきことは多い。学ぶべきことも多い。だが、今は焦らず、一歩ずつ進んでいこう。
俺はランプの灯りを消し、毛布にくるまった。明日もまた、エルム村での新しい一日が始まる。