第32話:盟主レンの奮闘と小規模襲撃
盟主としての俺の日常は、多忙を極めていた。
朝は、カイルやボルグと共に自警団の訓練計画を確認し、時には自ら手合わせをして彼らの成長を確かめる。午前中は、村長や各部門の責任者たちとの定例会議。議題は、開墾作業の進捗、温室での新たな作物の栽培計画、冬の間に消耗した資材の補充リスト作成、そしてリーフ村から受け入れた避難民たちの村への統合計画など、多岐にわたる。
午後は、各現場の視察だ。ゴードンさんの鍛冶場では、改良された農具や新兵器の試作品について熱い議論を交わし、ティアーナが主導する魔道具工房では、ヒートプレートの量産体制や新たな魔道具開発の進捗を確認する。
アリシアが管理する薬草園と温室を訪れれば、彼女から新しい薬草の効果や、野菜の生育状況について嬉々とした報告を受ける。
書類仕事も山積みだ。各部署からの報告書に目を通し、資源の配分を決定し、村の法整備(というほど大げさなものではないが、共同生活のルール作り)も進めなければならない。
そんな目まぐるしい日々の中で、村人たちの間にすっかり定着し、心の拠り所となっている場所があった。そう、【エルムの湯】だ。
「はぁ〜〜〜……極楽、極楽……」
夕暮れ時。女湯の湯船に肩まで浸かり、アリシアは至福のため息をついた。隣では、ティアーナも銀色の髪をまとめ上げ、普段の理知的な表情をすっかり緩ませて、気持ちよさそうに目を閉じている。
「本当に、この温泉ができてから、体の疲れの取れ方が全然違うよね」
「ええ、全くです。レンさんの発想には、いつも驚かされますが……こればかりは、感謝しかありませんね」
ティアーナが、湯気でほんのり上気した頬で微笑む。
今や、アリシアとティアーナが揃って温泉に通うのは、村の日常風景となっていた。一日の仕事の疲れを癒し、薬草や魔道具の話に花を咲かせる。この時間は、彼女たちにとってかけがえのないリラックスタイムなのだ。
「それにしても、ティアーナさん。今日の会議の時のレン、見た? 新しくエルム村に来た人たちの意見を、すごく真剣に聞いて、村の計画にちゃんと反映させて……。なんだか、どんどん頼もしくなっていくよね」
「はい。彼は、ただ強いだけでなく、多様な人々の声をまとめ上げ、未来を示す力を持っています。真の指導者とは、彼のような人を言うのかもしれませんね」
「うん……。私も、もっとしっかりしないと。レンの補佐役として、ちゃんと支えてあげられるように……」
「ふふ、私もですよ、アリシアさん。彼の隣に立つに相応しい知識と技術を、もっと身につけなければ」
二人の少女は、互いの顔を見合わせ、小さく笑い合った。その瞳には、盟主として奮闘する青年への、深い尊敬と、それだけではない温かい想いが、確かに宿っていた。
そして、男湯では――。
「ぷはーっ! やっぱこれだよな! 仕事終わりの一番風呂はよぉ!」
ザブン!と豪快な音を立てて、ドワーフのゴードンが湯船に浸かってきた。彼の隣では、すでにカイルがのぼせ気味な顔で長湯を楽しんでいる。
「親方、また来たのか。あんた、朝も入ってただろ」
「当たり前じゃ! 朝は気合を入れるための一番湯! 夕は一日の疲れを癒す締めの湯じゃ! ワシの人生は、今やこの湯を中心に回っておるわい!」
ゴードンは、今や村一番の温泉ヘビーユーザーとなっていた。頑固な職人である彼が、これほどまでに心酔するとは、俺自身も予想外だったが。
「それにしても、レンの奴、最近また根を詰めすぎじゃねえか? さっきも訓練場で、一人でブツブツ言いながら魔法の練習してたぞ」
カイルが、少し心配そうに言う。
「ふん、若いうちはそれがええ。だが、たまにはこうして湯に浸かって、頭を空っぽにすることも覚えにゃならんな。よしカイル! 今夜はワシとどっちが長く浸かっていられるか、勝負じゃ!」
「望むところだぜ、親方!」
男湯からは、そんな賑やかで他愛ない声が、夜の帳が下り始めたエルム村に響き渡っていた。
◇◇◇
カイルの言う通り、俺は盟主としての職務の合間を縫って、自身の魔法修練、特にあのゼノンとの戦いの後、感覚を掴んだ転移魔法の訓練を続けていた。
研究所からの帰還で成功したとはいえ、あれは静止した状態からの、しかも仲間と手を取り合うことで座標を安定させての、いわば「儀式的な」転移だった。これを、戦闘のような極限状況で、自在に使いこなすことができれば、俺たちの戦術は飛躍的に向上するはずだ。
「……くそっ、やっぱり難しいな……!」
その日の訓練の終わり。俺は、訓練場を歩きながら転移を発動させようと試みていた。目標は、10メートル先にある的だ。
「テレポート!」
意識を集中し、魔法を発動させる。視界がぐにゃりと歪む感覚。だが、次の瞬間、俺が出現したのは目標の的の5メートルも手前で、しかも体勢を崩して地面に転がっていた。
「ぐっ……! ダメか……!」
「おい、レン、大丈夫か!」
訓練に付き合ってくれていたカイルが、呆れたような、しかし心配そうな顔で駆け寄ってくる。
「ああ、なんとか……。だが、見ての通りだ。静止状態でなら、ほぼ正確に転移できるようになったんだが、少しでも動きながらだと、途端にこれだ」
俺は、泥だらけになった服を払いながら立ち上がった。
「なあ、レン。お前のその転移魔法、確かにすげぇけどよ」
カイルは、腕を組んで真剣な顔で俺に問いかけた。
「戦闘中に、あれをポンポン連発するのって、正直、無理なんじゃねぇか? 敵の攻撃を避けながら、動きながらだと、狙いも定まらねぇし、今みたいに着地に失敗したら、逆に格好の的だぜ?」
彼の指摘は、的確だった。俺も、訓練を通じてその難しさを痛感している。
「カイルの言う通りだ。歩きながらだと、自分自身の移動ベクトルと、転移先の空間座標の計算が、意識下でコンマ数秒のうちにズレちまう。その結果、空間の歪みが不安定になって、着地点がブレたり、転移そのものが失敗したりする。それに……」
俺は、ズキリと痛むこめかみを押さえた。
「魔力消費以上に、動きながらの転移は精神的な集中力が半端ないんだ。動きながらだと一回の転移で、脳みそを鷲掴みにされるような疲労感がある。これを戦闘中に連発するのは、今の俺には不可能だ」
俺たちは、訓練場の切り株に腰を下ろし、転移魔法の限界と、そして可能性について意見を交わした。
「だが、もしこれを使いこなせれば、戦い方は変わる」
と俺は言う。
「敵の背後への奇襲、危険な状況からの緊急離脱、負傷した仲間の後方への即時搬送……。それに、歩きながらじゃなく、跳躍の頂点とか、一瞬だけ動きが止まる瞬間を狙えば……」
「なるほどな。静止状態を作り出して転移する、か。それなら、俺が敵を引きつけて、お前が転移する時間を作るって連携もできるかもしれねえな」
「ああ。それに、短距離の連続転移で敵を幻惑するような動きも、練習すれば可能になるかもしれない。課題は多いが、諦めるわけにはいかないな」
「おう! お前がやるってんなら、いくらでも訓練に付き合ってやるぜ!」
カイルは、ニッと笑って俺の肩を叩いた。頼れる相棒との議論は、俺に新たな課題と、それを乗り越えるための勇気を与えてくれた。
◇◇◇
エルム村の活動領域は、日に日に拡大していた。開墾地は森を切り拓いて広がり、木材や鉱石を求める探索隊が、以前よりも森の奥深くまで足を踏み入れるようになっていた。
その活発化が、意図せずして、森に潜む者たちを刺激する結果となったのは、ある意味で必然だったのかもしれない。
その夜、エルム村の静寂は、見張り台から鳴り響く、けたたましい警鐘によって破られた。
ゴォォォォ……ン! ゴォォォォ……ン!
「敵襲ーっ! 南側の森から魔物の集団接近! 数は約五十! ゴブリンと……コボルドの混成部隊です!」
俺は、盟主室でカイルやティアーナと明日の計画について話し合っていたが、報告を聞いて即座に立ち上がった。
「ゴブリンとコボルドだと? 異種族の混成部隊とは……厄介だな」
ティアーナが眉をひそめる。
「ああ。おそらく、最近俺たちが活動を広げたことで、奴らの縄張りを刺激しちまったんだろう。追い出された奴らが、徒党を組んで報復に来たってところか」
カイルが剣の柄に手をかける。
すぐに、アリシアも血相を変えて駆け込んできた。
「レン! 敵襲って……!」
「ああ。だが、慌てるな、アリシア」
俺は、壁に掛けられた村の防衛地図を指し示し、冷静に仲間たちに告げた。
「敵の数、五十。強化個体の報告はなし。……この程度の襲撃であれば、今のエルム村防衛隊なら十分に対処可能だ」
俺の言葉に、三人が驚いた顔で俺を見る。
「レン、まさか……俺たちが出ないって言うのか?」
「そうだ。これは、冬の間に鍛え上げた防衛隊の練度を試し、彼らに実戦経験を積ませる絶好の機会だ。俺たちは、いつでも出撃できる態勢で後方に控え、指揮に徹する」
俺の決断に、最初は戸惑いを見せた三人だったが、すぐにその意図を理解し、力強く頷いた。
「……分かった。ボルグたちを信じよう」
「うん。私たちも、後方支援と指揮に集中するね」
「合理的です。彼らの成長のためにも、必要な試練でしょう」
俺たちはすぐに防壁の司令塔(見張り台を改築したものだ)へと向かった。すでに、ボルグ率いる防衛隊の第一分隊と第二分隊が、訓練通りに持ち場につき、迎撃準備を完了させている。その動きに、一切の無駄も混乱もない。
「ボルグ! 聞こえるか!」
俺は、ティアーナが改良してくれた通信魔道具で、南側防壁の指揮を執るボルグに呼びかける。
『はい、レン隊長! こちら南壁、迎撃準備完了! いつでもやれます!』
ボルグの、緊張の中にも自信に満ちた声が返ってきた。
「よし。指揮はお前に任せる。訓練の成果を見せてみろ。ただし、絶対に無理はするな。危なくなったら、すぐに俺たちが援護に出る」
『了解! 見ていてください、隊長! 俺たちが、この村を守ってみせます!』
森の闇から、松明の明かりを掲げた、醜悪な魔物の集団が姿を現した。棍棒を振り回すゴブリンと、錆びた剣を構えた犬頭のコボルド。数は多いが、その動きは統率が取れているとは言い難い。
その光景を、防壁の上から、リーフ村から来た避難民たちも固唾を飲んで見守っていた。彼らの顔には、恐怖と、そして自分たちの村が蹂躙された時の悪夢が蘇っているようだった。
「……来るぞ! バリスタ隊、斉射始め!」
ボルグの鋭い号令が響き渡る!
ビュォッ! ビュォッ!
防壁上に設置された数基のバリスタが唸りを上げ、太い矢が敵陣へと降り注ぐ! 数体のゴブリンが地面に縫い付けられ、敵の突撃の勢いがわずかに鈍った。
「怯むな! 投石機、第二波! 放てぇ!」
ゴウンッ!という鈍い音と共に、投石機が唸りを上げ、網かごに入れられた【簡易魔力爆弾】が放物線を描いて敵集団の中央に着弾する!
ドゴォォォォォォン!!!
凄まじい轟音と閃光! 十数体の魔物が爆風で吹き飛び、敵陣は混乱に陥った。
「す……すごい……!」
「なんだ、あの威力は……!」
避難民たちから、驚愕の声が上がる。
しかし、敵もさるもの。混乱から立ち直り、雄叫びを上げて堀へと殺到してくる。
「弓隊、構え! 堀に近づく奴から狙え! 火矢を放て!」
ボルグの的確な指示で、火を灯された矢が一斉に放たれる。堀に仕掛けられていた油に引火し、炎の壁が魔物たちの行く手を阻んだ!
「おおおっ!」
「やったぞ!」
防衛隊から歓声が上がる。
俺は司令塔から戦況を冷静に分析し、各所に指示を飛ばす。
「カイル、西側の防壁の兵力が少し薄い。第二分隊から数名、応援に回させろ」
「了解だ!」
「アリシア、負傷者が出たらすぐに分かるように、救護班との連携を密に」
「うん、任せて!」
「ティアーナ、敵の中に指揮官らしき動きをしている個体はいるか? 探知結晶で探ってくれ」
「捜索します。……いえ、特定の指揮官はいないようです。単なる烏合の衆かと」
俺たちの的確な情報共有と指揮が、現場で戦う防衛隊を力強く後押しする。
戦いは、完全にエルム村のペースで進んでいた。強化された防壁は、魔物たちの貧弱な攻撃をものともせず、バリスタと投石機、そして防衛隊の統率された弓矢の攻撃が、敵の数を着実に削っていく。
壁に取り付こうとしたゴブリンも、ボルグたちが槍で突き落とし、上から石を落として撃退する。その戦い方は、ゴブリン・ジェネラルとの戦いの教訓が、見事に活かされていた。
避難民たちは、その光景をただ呆然と見つめていた。
「……信じられない……。あれだけの数の魔物を、防壁の中から一方的に……」
「俺たちの村では、壁を乗り越えられて、すぐに乱戦になって……」
「指揮官がいて、兵器があって、兵士たちの動きも統率が取れている……。これが、エルム村の力なのか……」
彼らは、自分たちの村では決してなし得なかった、組織的で圧倒的な防衛戦を目の当たりにし、レンという若き盟主が築き上げたこの村の本当の強さを、肌で感じていた。恐怖は、いつしか驚嘆へ、そして深い尊敬の念へと変わっていった。
三十分後。数を半数以下に減らされ、完全に戦意を喪失した魔物たちは、蜘蛛の子を散らすように森の奥へと逃げ帰っていった。
「……勝ったぞーっ!!」
ボルグが剣を天に突き上げ、勝利の雄叫びを上げる。それに呼応するように、防壁の上から、割れんばかりの歓声が湧き上がった。
小規模な襲撃ではあったが、これはエルム村防衛隊が、自分たちの力だけで掴み取った、初めての完全勝利だった。
◇◇◇
戦いの後、俺は防壁の上で、後片付けに追われるボルグや隊員たちを労った。
「見事だったぞ、ボルグ。皆もよくやった。お前たちの成長は、俺の予想以上だ」
「へへ……隊長にそう言ってもらえると、嬉しいです! これも、日頃の訓練と、隊長が作ってくれた新兵器のおかげですよ!」
誇らしげに胸を張るボルグ。その顔は、一人の指揮官として、確かな自信に満ち溢れていた。
その夜、ささやかな祝勝会が開かれた。その席で、リーフ村の避難民の代表者が、俺の前に進み出て、深々と頭を下げた。
「レン盟主。……我々は、今日、あなた様と、このエルム村の真の力を見せていただきました。我々も、これからはただ保護されるだけの存在ではなく、この村の一員として、村のために我々の力を役立てたい。どうか、我々にも正式な役割を与えてはいただけないでしょうか」
彼の言葉に、他の避難民たちも力強く頷く。今日の戦いが、彼らの心を完全に一つにしたのだ。
「……もちろんだ。皆の力は、これからのエルム村にとって必要不可欠だ。共に、この村を築いていこう」
俺の言葉に、広場は再び大きな歓声と拍手に包まれた。
夜も更け、俺は一人、自室で今日の戦いの記録をまとめていた。そこへ、アリシアとティアーナが、夜食のハーブティーと焼き菓子を持ってきてくれた。
「レン、お疲れ様。今日のボルグさんたち、本当にすごかったね!」
「はい。レンさんの采配も見事でした。部下を信じ、成長を促す……。素晴らしい指揮官です」
二人の労いの言葉が、疲れた体に心地よく染み渡る。
俺は、避難民との交流や、多様な部下たちをまとめ上げる中で、盟主としての視野が少しずつ広がっていくのを感じていた。
「二人とも、ありがとう。でも、俺一人の力じゃない。皆がいてくれるからだ」
俺がそう言うと、アリシアとティアーナは顔を見合わせ、幸せそうに微笑んだ。彼女たちが、俺を支えたいという気持ちを、その眼差しから強く感じることができた。
小規模な襲撃は乗り越えた。村の結束も、さらに強固になった。だが、本当の脅威は、まだ森の奥で、あるいは遠い帝国で、静かに牙を研いでいる。リーフ村を襲った元凶が、エルム村に向かうかもしれない。
俺は、窓の外に広がる、静かで広大な始原の森の闇を見つめながら、改めて決意を固める。
この穏やかな日常と、仲間たちの笑顔を、何があっても守り抜く。そのために、俺はもっと強く、そして賢い盟主にならなければならない。




